いつも通りに学校で授業を受けて、休み時間を迎える。
 モンスター退治をするようになっても、学校生活は変わらない。きっとどんなアルバイトをしても、同じことだろう。
 もう何カ月も一緒にモンスターを倒してきた仲ではあるけれど、学校でミカゼと話すことは、あまりない。
 僕のクラスの生徒たちは、いくつかのグループに分かれている。男女混じっていつも楽しそうに話している集団もあるが、僕は男子だけの小規模で控えめな輪にいる。
 ミカゼはというと、特に誰かと親しいわけではない。かといってクラスの中で浮いてるというわけでもなく、穏やかに毎日を過ごしている。聡明さを感じさせる目つきを持った整った顔立ちであるため、静かに佇む彼女は一部の男子に人気があるようだ。
 僕も、彼女の脚の造形には高い評価をしている。古代の芸術家は、勇者の肉体はきっと美しいものに違いない、と想像してその像を作ったという。勇者の血筋は本当にその面で優れているのかもしれない。神が設計したかのように完璧で、肉がつきすぎているだとか、特定の場所が太すぎるだとかの文句をつける場所がない。かといって、美しいだけではなく、勇者として戦うための力強さも、しっかりと感じられる。彼女は魅力を武器にするアイドルではなく、戦うことを常に考えている戦士でもなく、勇者なのだから。
 数字でいろいろな視点でミカゼの脚に点数をつけてレーダーチャートのグラフを描くと、大きく綺麗な五角形を描くことだろう。
 ミカゼは身体能力だけではなく、顔や脚の形など容姿についても、偏りがなく万人に受け入れられるものを持っているのだ。
「おい千早、どうしてそんなうっとりした顔してんだ」
「考え事をしていただけだ。そんなに変な顔はしてないと思うぞ」
「何考えてたかは大体想像つくぜ」
 僕に話しかけてきた根岸が、自身のズボンの太もものあたりを、叩いて軽く音を出す。
 根岸は中学校時代からのつき合いなので、僕が何に興味を持っているかを理解している。
 ついつい、女の子の脚に見とれてしまう。これが賢者の特性なのか、単なる僕の趣向なのかは分からない。
「今は誰を見てたんだ」
「ミカゼだ」
 ひそひそと根岸と話す。名前を聞いて、根岸は納得したという表情をした。容姿だけなら、ミカゼはクラスでも一番だからだ。
 ただし、誰かと話をする時にほとんど表情を変えないため、不愛想な印象がある。女は愛嬌、とはよく言ったもので、明るく誰にでも笑顔を振りまく女子の方がミカゼよりも人気がある。
「そもそも僕の席から自然に見ることができるのは、ミカゼと黒土くらいしかいないけどな」
「千早は見るだけで満足か。俺は見るだけじゃなくて、女子とは楽しくお喋りがしたいぜ」
「話せばいいじゃないか」
「月に行きたいと願った人間の数と、月に立った人間の数は同じじゃないさ」
「そのこころは」
「できるのならば、既にやってるってことだ!」
「何で誇らしげなんだよ」
 僕が突っ込みを入れる中、根岸が自席に座る。僕のすぐ前の席だ。
「昨日はやっと上位モンスターのでけえ奴を倒せたぜ」
 オンラインゲーマーの根岸は、僕にそんな話題を振ることが多い。ゲーム内の経過状況や面白い出来事を話してくるのだ。
「昨日遂に余裕で倒せるようになってさ、そいつが落とすレアアイテム狙いでひたすら倒し続けたぜ」
「僕も昨日は大型モンスターの討伐だったな。もう何体目か分からない」
「千早も何かやってんのか、ソロプレイか?」
「とても強い勇者についていっているんだ」
 もちろん、僕が話しているのは、賢者のアルバイトに行った話だ。勇者関連の話は、基本的に関係者以外には秘密にしなくてはならないのだが、以前うっかり、気心の知れた根岸にモンスター退治の話をしてしまった。
 幸いにも、やっていることが似ているせいで、根岸は僕がオンラインゲームの話をしていると思い込んでしまったようだ。本当のことをわざわざ説明する必要もないので、そのまま誤解させ続けている。
 定期的に出現するボスを仲間と協力して倒すオンラインゲームは、僕もやっていたことがある。アルバイトを始めてからは、何故ゲームの中でも同じことをしているのだろうと考えてしまい、いつの間にかログインしなくなっていた。リアルでモンスターを倒す勇者を見てしまうと、最新ゲーム機の「圧倒的にリアルなグラフィックの戦い!」というキャッチコピーに違和感が出てきてしまい、なんだかプレイする気が起きなくなってしまう。
 突然、僕たちの会話に、物凄く大きい笑い声が被さってきた。クラスでも一番大きいグループで話が盛り上がっているのだろう。何の話をしていたのかは分からなかったが、手を叩いて笑っている。
 学校の教室は、陰気なよりも楽しげな方が丁度良い。
 根岸と僕は、騒音に近い声で会話を中断されても特に不快を感じずに、再び他愛もない話を再開する。
 教室が煩くなった時に、僕はある事に気がついた。
 斜め前の席の、机に伏している黒土(くろど)という女子生徒が、微かに体を動かしていた。彼女もミカゼと同様に一匹狼タイプだ。というか、彼女の場合、単に話すべき友達がいないだけなのかもしれない。 
 何もすることがない黒土は、ひたすら腕を枕にして寝る体勢を続け、休み時間が終わるのを待っているようだ。さっき彼女が動いたのは、時間が過ぎるのを独りで静かに待っていた時に、突然騒がしくなってびっくりしたからだろう。
 一方、その後ろの席に座るミカゼは、周りの騒がしさに構わず、背筋を伸ばしたいい姿勢で詩集を読んでいて、動じる気配もなかった。
 やがて次の授業が始まった。

 授業中、ノートの端にミカゼ向けの落書きを適当に書きながら、僕はモンスター退治を始めた時のことを思い出していた。
 半年くらい前に、市役所から葉書が届いた。それも勇者管理課という、聞いたこともない、いかにも胡散臭い名前の部署からだ。その葉書には、「あなたは賢者です」と書いてあったのだ。
 あまりにも唐突で、詐欺にしてもバカバカしいと思っていたが、父親に言ったら「そういえばそうだった」という反応が返ってきた。僕は本当に賢者の血筋だったらしい。
 父親からは、「勇者や賢者の血筋に生まれた者は、一定の年齢になったら役所に名前を登録しに行かなければならないんだ」とも言われた。世の中、僕が知らないことはまだまだ多いようだ。
 登録のために市役所の片隅にある小さな事務室に行くと、現在この近辺で活動中の勇者の仲間が必要なので、アルバイトとして勇者のサポートをしてくれないか、そんなことを言われた。
 原則として未成年の勇者がモンスター退治をする時は、仲間と一緒に行動しなければならないのだという。
 役所の勇者管理課は、人手不足で仕方なく、ミカゼを一人で戦わせていたらしい。しかし役所がルールを破り続けるわけにもいかず、新たに登録しに来た僕にすぐさま声をかけたようだった。
 部活動を辞めて、登校して帰宅して暇を潰すだけの過ごしていた僕には断る理由もなく、なんとなく頷いた。高校生活も半分に差し掛かろうとしていて、これでいいのかなと思っていた頃だったから、なんだか大切な、自分のするべきことを見つけたような気分だった。
 ただし、いざアルバイトを始めてみると、役所から渡される薄っぺらい業務マニュアルに、1ページ目から「モンスターを魔界から送り込んでくるのは魔王軍です」などと書いてあるものだから、これでいいのかな、と再び悩んでしまった。
 そして僕の立場は、想像以上に脇役だった。モンスターと戦っているのはミカゼだけで、僕はこれまでに一度も敵を攻撃したことはない。決まり事の人数合わせのために、勇者と行動しているだけだ。
 少しがっかりしつつも、無為な毎日に少しだけやることができたからよかったじゃないか、その程度に思っておくことにした。
 僕はノートに猫の落書きをいくつか増やしたところで、授業に意識を戻した。いつも通りの日常が、教室にはあった。ミカゼと僕がモンスターと戦う存在であるなどとは、この教室にいるクラスメートの誰一人として、夢にも思うまい。
 業務マニュアルによると、魔王軍は太古の昔から、人間の世界を滅ぼしかけるほどに大規模な侵攻をしてきたらしい。ここ数百年間はずっと鳴りを潜めていて、たまにゲートを開いてモンスターを送り込んでくるだけだったが、最近、魔界のパワーが活性化してゲートが開きやすくなり、侵攻の頻度も増えているとのことだ。
 しかし現代では、人類は魔王軍に対して驚異を感じなくなった。勇者たちは地方自治体の管理下に置かれて、ひっそりと活動しているだけだ。それで十分、モンスターを撃退できてしまう。今では多くの人間が、勇者の戦いについて、現実にはありえない、映画や小説の題材になるだけのファンタジーだと思っている。
 アルバイトを始めたばかりの頃、オカルト雑誌として名高い「月刊むむう」を買ってみたことがある。勇者や魔王軍について書かれていないか、気になったのだ。
 読み始めてすぐに、『今月の勇者さん』というコーナーでミカゼが紹介されているのを見つけた。真面目な顔でピースをした彼女の写真は、目の部分に黒い線が入っていて胡散臭さしか感じられなかった。
 これではかえって誰も本気で信じはすまい、と僕は苦笑いした。
「月刊むむう」は、創作か真実かを気にせずに、かき集めた情報を全て記事にして乗せる雑誌らしく、ミカゼの記事以外は、どれが本当なのか分からなかった。
 全てを信じようとすると、通信販売の広告ページに載っていた、持っているだけで運気が集まるという高い壺を買ってしまいそうになる。
「聖剣が実在するんだし、もしかしたらこれも本物も……むむう」
 唸るほど真剣に悩んだけれど、数日後に広告の主が詐欺で逮捕されたことを知り、「月刊むむう」を読むのをやめた。
 嘘の情報が混ざっているオカルト雑誌は、真面目に読むものではない。僕はそう思った。
 きっとこのようにして、勇者の話もまた、ずっと架空の域を出ない神話や伝説であり続けるのだろう。
 そう考えながら授業を聞いていると、前の席の根岸からこそこそと紙の切れ端が渡ってきた。
 僕の高校は、授業中に携帯電話を弄ることができないくらいにはしつけが行き届いていて、その制限下では古い連絡手段を使うことになる。紙の切れ端は広告だった。
『新作カード追加! ラインナップ発表します! カードガチャ1回100円!』
 一部の悪ふざけの好きな男子の間で流行っているトレーディングカードゲームのお知らせだ。キャラクターカードを集めるタイプのカードゲームなのだが、モデルになっているのはこの学校の女子生徒たちだ。
 カメラ好きの男子生徒が盗撮した写真をカードにして、女子生徒に数字を割り振って強さにしている。
 女子たちにばれたら怒られるだろうというスリルの元、このカードゲームは男子生徒たちによって裏ルートで取引され、密かなブームになっている。
 別の紙の切れ端に「まずは一枚。あと、次回は脚が写っている写真を多めに頼む」と書いて根岸に渡す。
 新作カードのラインナップを見る。そこに書かれていた文字を見て、僕は笑いで肩が揺れないようにするのに苦労した。
【レア】勇者 鈴木 ミカゼ
 そういうオーラが出ているのだろうか。ミカゼは男子が遊びで作ったカードゲームでも勇者認定されていた。
 せっかくだから、ミカゼが手に入るまでガチャくじをするかと思い立ち、僕は購入の手紙を回し続けた。覚悟はしていたけれど、レアカードは当たる確率が低いらしく、何度もカードを引く羽目になった。
 あらら、と思ったのは、黒土のカードを三枚も引き当ててしまったことと、そのカードに書かれているのが、
【ノーマル】ゾンビ 黒土 鵺(ぬえ)
 という内容だったことだ。普段みんなが気にしていないような女子は、数の多いノーマルカードだ。強さを表す数値も、そこそこだ。
 それにしても、ゾンビとは。貧血でも起こしそうな、目の下に隈を作っていることの多い黒土なら、こういうカードになるのもやむなしだろう。僕は深く納得した。
 休み時間に一人でいることが多いという意味では共通のこの二人なのに、ここまでの差が出てしまう。体育の時間などでも、ミカゼは優れた運動神経をクラスメートに見せつけ、周囲に余裕を感じさせる。彼女は何か持っているものがある、とみんなに思わせてしまう。一方で黒土は、準備運動で息が切れるタイプだ。
 授業が終わった後、クラスの黒幕ディーラーからカードを受け取る。
 ミカゼの写真は、掃除の時間をうまい具合に撮影した、箒を持つ構図だ。なんとなく、武器を持つ勇者に見えなくもない。可愛らしさよりも、威風堂々とした雰囲気のある絵に見える。何を持っても似合ってしまう。
 僕は、カリスマすら感じるオーラを発して立つミカゼの勇者カードと、自信なさげに歩く黒土のゾンビカードをポケットに収めた。

 休み時間の間に、教室の中から女子の姿が消え、男子たちだけになった。
 次の授業は体育なのだ。当然、それぞれ別の場所で着替えることになる。男子は教室で、女子は更衣室で。
 ジャージに袖を通しながら、根岸が学校の決まり事に対して、ぼやき始める。
「俺は女子だけ更衣室があるのはせこいと思う」
「着替えるのにもたついて、女子が教室に入ってきた時は恥ずかしいな」
「男女平等なら女子にもここで着替えるべきだ」
「そりゃ、根岸が着替えを見たいだけだろ」
 ジャージに着替え終わった僕たちは校庭に向かう。今日の体育の授業は、男子がサッカーで、女子はソフトボールだ。
 冬場の体育では女子は長袖の体操着になる。ショートパンツで運動する女子の脚を眺めていられた夏場に比べると、まさに寂しい冬の風景という感じがして残念だ。
 体育のサッカーやソフトボールは、授業というよりレクリエーションに近い。男子も女子も、クラスの中で適当にチーム分けをしたら、後は勝手に試合をしていく。
 僕と根岸は、授業が始まって早々に、サッカーコートを抜け出してソフトボールを観戦することにした。抜けた僕たちの代わりには、ずっとサッカーをしていたいスポーツマンたちが入るので、問題は起きない。
 ソフトボールの試合が進んでいき、ミカゼに打順が回った。
「ミカゼ―、ふぁいとふぁいとー!」
 何人かの女子がミカゼを応援する。体育の時間に、誇るでもなく涼しい顔で高い運動能力を発揮するミカゼは恰好よく、女子たちにも人気がある。ソフトボール用の白いキャップを被ったミカゼが、普段通りの凛々しい表情で声援に頷いて打席に立った。
 ミカゼを見ていた根岸が僕に話しかけてくる。
「ミカゼってソフトボール好きなんだな。マイバット持参とか、気合入ってるじゃん」
「ルールもよく知らないと思うぞ」
 ピッチャーズサークルに立つ投手はソフトボール部員で、授業の遊びであっても素人に負けるまいと、ミカゼに速球を投げる。一投目はストライク。
 ミカゼはボールを見送り、手にしたエクスカリバーを振らなかった。
「聖剣はスポーツ用品にもなるのか」
「千早、何か言ったか」
 根岸に僕の呟きが聞こえたらしい。なんでもない、と返しておく。
 今ミカゼの持っているバットは、グリップの上に十字形の鍔がついていて、その先には銀色に輝く刀身がある。どう見てもバットの形をしていない。
 僕には明らかに西洋剣に見えるのだが、誰も驚くことなく試合が進んでいく。
 キンッ
 やや高めにボールを弾いたミカゼがエクスカリバーを投げ捨てて一塁へ走る。
 空気を切る、高い音が聞こえた。打席から数メートルの位置で観戦していた僕の首を断ち切る軌道で、聖剣が回転しながら飛んできた。それを寸前で回避する。ずどんと、土を舞い上げながらエクスカリバーが校庭に刺さった。
「うおおっ! 死ぬかと思った。バットを投げるんじゃない」
「千早、ごめん。次から気をつける」
 一塁を踏んだミカゼが謝る声は、距離があるというのに、はっきり聞こえた。勇者は、戦闘中に仲間への指示が間違いなく伝わるよう、聞き取りやすい声質を持っているのかもしれない。
 打球はファウルだった。惜しいー、という女子たちの声が聞こえてくる。
 ミカゼが再び、聖剣を握って打席に立つ。
 どうしてミカゼが学校にエクスカリバーを持ってきているのか、そして何故ソフトボールでエクスカリバットになっているのか。
 4割くらいは僕の仕業でもある。
 数日前、市役所から、魔王軍が本格的に人間の世界へ攻め込む準備をしているらしいという連絡が来た。モンスターと突発的に戦闘になるかもしれないから、勇者は常に武器を近くに置いておくように、とのことだった。
 そのためには学校にエクスカリバーを持って行かなくてはならない。暗い道を走るならともかく、皆のいる教室に剣を持ち込むのは、目立ちすぎるどころか、「自分は勇者だ、何か質問はあるか?」と大声で主張しているようなものだ。
 どうしようか、とミカゼに訊ねると、
「千早は賢者だから、聖剣の存在を隠す力がある」
 と言われた。やっと賢者の活躍の時が来たと期待したが、ミカゼの指示は、エクスカリバーに油性ペンで『野球部』と書け、というものだった。そうすれば学校に持って行っても野球の道具にしか見えなくなるのだという。半信半疑で彼女の言った通りにすると、エクスカリバーが輝き、油性ペンの文字が、彫刻刀で刻んだような刻印へと変化していた。
「賢者は鍛冶職人の基礎スキルも持っているんだよ。聖剣にルーン文字を刻むことで特殊能力を付与できる」
「ルーンってか、漢字じゃないか」
 伝説の武器に『野球部』と銘打ってしまい、勇者の英霊たちが激怒していないか非常に気になるところだ。
 背中に剣を差して教室に入ってきた勇者ミカゼの姿を見た時は心配したが、クラスの皆は、体育で使うバットを持ってきたのかと素直に受け入れていた。
「あのバットって、メーカーの特別製なのかな。千早は何か知ってるか」
「伝説の素材で作られた金属バットだな。神々との戦争で巨人軍が使ったんだろう」
 ザシュッ。
「あっ、ミカゼのヒットだ」
「僕には斬撃のヒット音に聞こえたよ」
 二つに分かれる魔球の打球版といった具合に、分裂したボールが飛んでいく。どちらを追えばいいのか分からなくなった野手は、フライをキャッチすることができなかった。ミカゼは塁を進めていき、一部の女子たちの黄色い声援を浴びながら、凱旋する勇者のようにホームへ戻った。
「千早、タッチ」
「えっ、ああ、うん」
 僕は試合をしているチームとは関係のない観戦者だったのだけれど、伝説のバットを授けた賢者としてハイタッチしておく。ミカゼはあまり喜んでいるようには見えない、彼女らしい落ち着いた表情だった。
「ミカゼ、バットはどうしたんだ」
 ヒットを打った瞬間、ミカゼの手から離れてひゅんひゅんとエクスカリバーがどこかへ飛んで行っていたことを思い出した。ソフトボールのフォームで剣を振るのには慣れていなくて、すっぽ抜けてしまったのだろう。
「あっちの方に飛んで行っていたけど」
 とミカゼの指さす方を見る。
 中庭に建てられている初代校長の銅像。その頭部を、エクスカリバーが鮮やかに貫いていた。
「犯罪予告みたいな銅像になってるな」
「わざとじゃないよ」
 校則という束縛からの卒業をしたい反抗期の高校生がバットで胸像を破壊しようとした、なんてニュースを聞いたことがある。アーサー王の剣のように刺さっているバットを見たら、この学校の生徒は何を企んでいるのかと、教師陣も頭を抱えるかもしれない。
 もちろん僕やミカゼには、校長を倒して円卓の生徒会を作るつもりなどない。すぐにエクスカリバーを回収した。

 授業が全て終わった。ミカゼのアプリによると、今日も山にモンスターが出現する。
 自転車でミカゼを送るために、僕は一度自宅に戻らなければならない。僕の家と学校はそう遠くないので、通学は歩きなのだ。
 席を立ち上って教室を出ようとしたが、女子の写真カードの束を持った根岸に呼び止められる。
「千早、見ろよ、俺は新作をコンプリートしたぜ」
「まじか。僕は結構ダブったんだけどな。カード買いすぎだろう」
「俺の生徒会デッキが完成した。部室に行こうぜ」
 根岸から、軽音楽部の部室に行かないかと誘われる。もちろん、僕と根岸が軽音楽部に所属しているわけではない。僕の学校の軽音楽部は、文化祭前くらいにしか部室を使わないので、部外者の男子生徒たちの溜まり場になっている。そこに帰宅部や、写真部、電脳研究会の連中が集まり、女子には秘密のトレーディングカードゲームに興じるのだ。
 新作カードを買い集めた根岸は、お手製のゲームだというのに妙にやる気だった。
「僕はモンスターを倒しに行かなければならないんだ」
 そのまんまの事実を言って、根岸の誘いを断った。根岸は、まだ僕の話を勘違いしたままだったので、ネットワークゲームのモンスター討伐イベントだということにしておいた。
 クラスメートたちの「女子ソフトボール部のカードの種類が少ないぞ」「基本、全部盗撮だからもう少しチャンスを待つでござる」「こうなったら更衣室に隠しカメラを……」という不穏な会話を背に、僕は教室を出た。
 靴箱に向かって歩いていると、背後から声をかけられた。小さい声が僕を呼ぶ。振り返った先には、ゾンビ、ではなく黒土が立っていた。
「あ、あの」
「うん?」
「こ、これ……です」
 ぼそぼそと黒土が喋る。あまり人と話し慣れていないのか、俯きながらもじもじと小刻みに揺れる。黒土が手に何かを持って示している。
 ゾンビ黒土のカードだ。
「さ、さっきの休み時間に、ち、千早さんが落してたんです」
「うおマジかよっ……ごほっ、何でもない。ああ、これは僕のだな」
「な、なんですかこれ」
 ポケットに大量のカードを入れていたから、溢れる形でいつの間にか、そのうちの一枚が落ちてしまったのだろう。
 よりによって黒土自身に拾われてしまったらしい。黒土からしてみれば、男子生徒が自分の隠し撮り写真を持ち歩いていて、おまけにそれにはゾンビと書かれているわけだ。状況を理解できないだろう。
 なんと声をかければいいのだろう。僕はその写真をあと二枚も持っているんだぜ、ではないことは確実だ。
 ありがとう、と言いながらカードを受け取る。黒土が一瞬、びくりと跳ねる。相当な危険人物だと思われているのかもしれない。
 うまいこと切り抜けなければ。黒土が誰かにカードのことを相談したら、男子の秘密の遊びがバレて、厄介な騒ぎになってしまうかもしれない。
「黒土、違うんだ」
 言ってから気づく。僕はこんな間抜けなことしか言えないのか……。
「そ、そうです。違うんですよね」
「すまん、僕が黒土の脚に興味があるから写真を持ってるとか、そういうことじゃないんだ」
「え、えっ?」
「黒土、違うんだ」
「う、うん、違うんですよね」
「すまん、僕は写真を眺めたいわけではなくて、歩いている時は大体リアルで脚を眺めているんだ」
「え、えっ?」
「黒土、違うんだ」
「う、うん、違うんですよね」
「ごめんね」
「そ、そうじゃなくてです」
 焦っていたため余計なことを口走ってしまった気がしたが、黒土も緊張しているのか、戸惑いながらも聞き流しているようだ。助かった。
 黒土は少し声を大きくして、言った。
「わ、私は、ゾンビじゃありません」
 そうかと納得する。男子連中が遊びで作ったカードには、黒土を中傷する目的はない。けれど黒土は、目の下に隈を作り、とぼとぼと登校し、明るく談笑するグループから外れて暗く佇む自分が、陰でゾンビと呼ばれ、笑い者にされたように感じたかもしれない。
 泣き出す前にひたすら謝り倒そう。僕がそう考えていた時に、彼女が口を開く。
「ぞ、ゾンビじゃなくて、し、死神です」
「そうか、黒土はゾンビじゃなくて死神なのか」
 こくこく、と黒土が頷く。どちらにせよダークサイドな扱いなのだが、それでいいのか。
「で、でも千早さんが写真を持っているのは、恥ずかしいです。べ、別にいいですけど」
「いいのか。これは他の生徒には秘密にしておいてくれよ」
「ま、任せてください。わ、私には友達がいないので話せません」
「いや、友達がいないことは自慢げに言うことじゃないと思うぞ」
 いつの間にか、話がまとまっていた。カードゲームのことが女子連中にばれてしまう心配もなくなった。
 それでは、と黒土は軽く会釈をして、足早に立ち去っていく。
 細い脚だ。

 僕がミカゼを自転車の後ろに乗せて移動しているのには、切っ掛けとなる出来事がある。
 何か月か前まで僕たちは、それぞれ自分の自転車に乗って、並走して山に行っていた。
 事件が起きたのは、勇者のモンスター退治とはこんなものかと、僕が受け入れ始めた夏の日だった。
 暗くなっても蝉の鳴き声が騒がしい中、僕たちはモンスターを倒した帰り道を並んで走っていた。
「小さい頃にピアノを習っていたのか」
「うん。少しだけ」
 夜の坂道を下りながら、そんな世間話をしていた。
「運動神経いいから、楽器の扱いも上手そうに見えるな」
「私は猫踏んじゃったくらいしか弾けないよ」
 ミカゼがそう言った瞬間に、物陰から猫が飛び出して来た。彼女は、猫踏んじゃわないように緊急回避した。
 その結果、勇者は交通事故を起こした。
 猫を避けた後、軽自動車の側面に接触したのだ。運よく当たる角度が浅かったおかげで、衝突の衝撃は小さかったらしい。軽自動車が気付かずに走り去っていったくらいだ。
 しかし弾かれたミカゼの自転車は進行方向を90度右に変え、ガードレールを乗り越えて持ち主ごと土手を転げ落ちていった。
 ダメージを受ける勇者を見たのはその日が初めてだった。
「鈴木さん、ちょっとじっとしててくれ」
 勇者が傷ついた時には、賢者が回復役としてサポートしなくては。そう思った僕は、立ち上がった彼女に駆け寄って、スカートを僅かに捲った。その時はまだ、クラスメートの女子を呼び捨てにするのは馴れ馴れしいかな、という考えの元、名字で呼んでいた。クラスに鈴木が二人いるせいか、ミカゼを名字で呼ぶのは少数派だったのだけれど。
「というか立てるのか。凄い音がしたけど、骨は折れていないんだな」
「足首を捻挫したかも」
「血が出てるよ。少し切ったんじゃないか」
 かなり派手に斜面を転がったはずなのに、大きな怪我もなく済んでいたのは、女の子とはいえ勇者というものが頑丈であるからなのかもしれない。
 月明かりの中、勇者という称号からは想像し辛い柔らかな肌へとハンカチを這わせる。泥を拭いて、傷を見る。そして血を拭う。
「痛かったら言ってくれ」
「痛い」
「えっ」
「傷がついているんだから、当たり前だよ」
 それもそうだった。患者の治療を続ける歯医者の言葉と同じだ。痛いと言ったところで手当てを止めるわけにもいかない。
「勇者に痛覚があるのかを確認したかったんだ」
 僕は適当なことを言って誤魔化した。
「無敵モードになる薬を飲めばそうなるけど。強敵と戦う時に使うんだよ」
「それって、なんか非合法な薬なんじゃないか……」
 出血はあったけれど、膝下から太もものあたりまでを見たところ、ミカゼの脚の傷はどれも浅い擦り傷のようだった。丁寧に消毒すれば、化膿することもなさそうだ。
 後々に残りそうな傷もなく、僕は安心した。
 他に傷がないかを見ようとした僕は、ふと、もう少しだけスカートを上にずらしたら、下着が見えるということに気が付いた。
 下着だって?
 僕は急に、触れているものの柔らかさを感じた。枕にしたい程に心地よい弾力がある。当然だ、女子の脚なのだから。夏の気温の中でなお、はっきりと体温が感じられた。
 傷の具合を見ようとしたとはいえ、あまりにも遠慮なく触れてしまっていた。
 ミカゼのスカートをかなりきわどい位置まで上げたまま、僕は硬直していた。
 慌てて離れるか、それともすまんと謝るべきか。
 すぐには結論が出ず、女子のスカートを捲る姿勢で固まったまま、時間だけが過ぎていく。
 突き飛ばされても文句は言えない。ミカゼのことをよく知らなかった僕は、最悪エクスカリバーでぶった斬られるところまで覚悟した。
 でもミカゼは動かず、何も言わなかった。僕が手当てしていることを分かっていて、ただじっとしていた。いつものように凛とした目で僕を見下ろし、首を傾げていた。
 もしかしたら僕の様子は、ミカゼの目に「こんなことくらい自分でやっとくれ」とでも言いたげに映っていたのかもしれない。
 僕は静かにスカートから手を放した。
「傷はもうなさそう?」
「多分もうないと思う」
 実はミカゼの脚の、もっと上の方も気になっていた。しかしこれ以上は、傷を見るよりも脚を見るのに夢中になってしまいそうだったので、平静を装って手を引っ込めたのだ。
 見える範囲ギリギリまでミカゼの脚を見たが、膝より少し上あたりから太ももにかけては傷が少なかったので、大丈夫だろう。
 変に意識してしまったものの、半端に手当てを止めるわけにもいかなくなった僕は、鞄から消毒液を取り出した。
 勇者たちの傷が一瞬で治る薬草という道具は高価で、そう簡単に使うわけにはいかないらしく、ミカゼに止められた。彼女が怪我をすることなんて滅多にないし、傷のある脚は痛々しいので、すぐに使ってしまってもいいんじゃないかと思ったのだけれど。
「鳥居君、くすぐったい」
「痛いんじゃないなら我慢してくれ。それから、鳥居君じゃなくて千早でいいよ。クラスの皆もそう呼んでるから」
「分かった。千早、私はミカゼでいいよ」
「ん?」
「私の名前」
 いつも名前で呼ばれる僕は、名字で呼ばれることに違和感があった。おそらく彼女も、同じだったのかもしれない。名前で呼び合うことになり、仲間として少しは近くなったような気がした。
 傷口を消毒したあとに、彼女は短く「ありがとう」と言った。
 僕は「どういたしまして」と言いかけたが、それが色々な意味を持つことに気づいて、慌てて口を閉じた。黙って静かに首を振った僕を、ミカゼが不思議そうに見ていた。
 ミカゼが使っていた赤い通学用自転車は、伝説の、なんて修飾語がつく道具ではなかったようで、あっさりと大破して使い物にならなくなっていた。
 怪我をした女子を歩かせるのはなんだか恰好が悪い気がして、ミカゼを自転車の後ろに乗せて、僕は帰り道を走った。
 それから僕の自転車で勇者ミカゼが移動することが習慣になった。
 夏が過ぎて秋になり、さらに冬に差し掛かろうとしても、僕はミカゼを自転車に乗せている。

 山へ勇者を送り届けるだけの簡単な仕事をしているうちに、世界が戦乱の渦に巻き込まれていく、なんてことは今のところない。
 目の前に迫る危機といえば、冬休み前の大ボスと言えそうな、数日後に迫る中間テストだろうか。
 僕は教師が板書する数式を、意味も分からずひたすらに書き写している。
 古代の賢者アルキメデスは、数学の問題を解くのに熱中しすぎていて、ローマ軍が街に攻め入ってきたことに気づかず死んだと言われている。もし同じ状況なら、僕は確実に逃げ延びる自信がある。
 ノートに文字を走らせることに疲れた時に、根岸から手紙が回ってきた。新ラインナップのお知らせ、と題されている。
 この前ミカゼのカードを買ってから約二週間が経過していて、再び彼女のカードが追加されていた。今度の彼女は『退魔剣士』か。確かに魔物を退けているという点では正しい認識だ。今回もまた、彼女を引き当てるまで買うことにする。
 なお、黒土のカードは『ゴースト』だった。ついに肉体さえも失ったアンデッドモンスターに昇格したようだ。ラインナップ表には「ピンボケしています」と注意書きまであった。
 授業が終わり、カードに使われている写真を見た時に、僕は思わず、
「あっ、ダメだこれは」
 と呟いていた。カードの性能にも、ミカゼの写真写りにも文句はない。しかし彼女の背に、剣の柄が映りこんでしまっている。バットに見せかける賢者のスキルも、カメラの眼は騙せないようだ。
 聖剣の刻印『野球部』の効果は、周りの人の思考を操作するもので、一旦怪しまれると、途端に効果が薄れてしまうと聞いている。この写真のように剣がはっきり写っていると、そこからミカゼの持ち物がエクスカリバーだとばれてしまうかもしれない。
 休み時間に、廊下に出てミカゼと相談する。
「じゃあ、演劇部の刻印も彫っておけばいいよ」
「芝居用の小道具ということで乗り切るのか」
 エクスカリバーがどんどん落書きだらけになっていくような予感がする。伝説の勇者の武器には、魔法の呪文が大量に書かれた魔剣が存在するが、あれもひょっとすると翻訳したら健康器具とかの名前だったりするのかもしれない。
 そして放課後、僕は根岸に誘われて、男子の溜まり場になっている軽音楽部の部室に向かった。使っていない音響機材や、重ねられた机で半分が埋め尽くされた、狭い部屋だ。
 この部屋には、どこから持ってきたのかボロいソファが置かれていて、たまに遅刻してきた根岸が時間潰しに寝っ転がっている。そのまま夕方まで寝た根岸が、俺は一体何をしに学校に来たのだろう、と黄昏ていたことがある。
 僕と根岸は床に座り、床に置かれたミカンのダンボール箱を机代わりにしてトレーディングカードゲームで遊んでいた。新作が出たばかりということで、お互いにその性能を確認し合っていたのだ。
「化学のレポートを出すのを忘れてた、俺ちょっと行ってくるわ」
 そう言って、根岸は鞄からペラペラのレポートを取り出すと、部室から出て行った。
 化学教師に説教されるであろう根岸が帰ってくるまで、少し時間がかかりそうだ。暇だなと思いつつ、新しく入手したカードを見ていると、目の前に置かれたミカンの箱が空中に浮かび上がった。正確には、底から人間の身体が姿を現し、箱が持ち上がっている。
「うおおおっ?」
「やっと千早だけになった」
 きめ細やかな肌を持つ、白く綺麗な太もも、ではなくミカゼが僕に話しかけてきた。ミカゼは僕を見下ろすように、ミカンの箱を掲げて立っていた。聖剣と盾は教室にでも置いて来たのか、その背にはない。おそらく彼女が箱の中に入るには、邪魔だったのだろう。
「何でこんなところにいるんだよ」
「この学校内で魔界のゲートが開く気配がしたから、校舎を調べていたんだよ。ここは男子の巣窟だから、ダンボール箱に偽装していた」
「お前はどこかの特殊部隊員か」
「勇者だよ」
 スカートの裾が目の前にあるという、僕の判断力を著しく低下させる位置関係が気になりすぎるので、立ち上がっておく。
「この部屋には何もないみたい」
「ってミカゼ、土足だ、土足」
「あっ、ごめん」
 そう言うと、ミカゼは上履きを脱いだ。この部屋は、廃れてしまった茶道部の和室を、軽音楽部が物置として使っている。土足は厳禁であり、僕や根岸が平気で床に座っていられる理由でもある。
「男子は写真でこんなことをしているの」
 ミカンの箱を頭に引っ掛けて、妙に角ばったシスターの風体になったミカゼは、床に落ちている写真を眺めた。男子の秘密の遊びが女子にばれるのは、黒土に引き続き2回目だ。
「物陰から視線を感じると思っていたけど、魔王軍じゃなくて盗撮だったんだね」
 数字が書かれたクラスメートたちの写真を、ミカゼは眺めている。邪なる男子の企みは、勇者によって塵と化すかもしれない。
 しかし、自分たちがモデルにされているというのに、ミカゼは特に不快感を顕わさなかった。彼女は勇者ミカゼのカードを見ていた。
「勇者って書いてある」
「おめでとう、皆の中でミカゼは強カードの勇者だ」
「そう見えるのかな」
「オーラが出ているんじゃないか」
 少し感心したように、ミカゼは自分のカードを見ていた。目立つことがないように、密かに行動している彼女だったが、誰かが勇者として認めてくれているという事実は、嬉しいことだったのかもしれない。
「いつの間に取ったんだろう」
「写真部の奴ら、腕を競うように撮ってたからな。それでもかなり苦労してるようだ」
 なお、彼らには彼らなりのルールがあり、盗撮用の機械を仕掛けることはご法度にあたるらしい。カードゲーム『下着編』を作るなどと自信ありげに言っていた写真部の部員は、女子更衣室にカメラを仕掛けようとしたことが分かり、写真部を破門になった。さらに女子たちへそのことをリークされた。晒し首にも等しい処刑である。
「ちなみに、第二弾では退魔剣士ミカゼになってたぞ」
「ふーん」
 それを聞いたミカゼは、何故か膝を軽く曲げて、僕に対して斜め45度に立った。
「撮る?」
「いや、遠慮しておくよ」
 ポーズを取ったクラスメートの女子をスマートフォンのカメラに収めまくるのは、了承済みであったとしても、なにやらけしからんことをしている気分になりそうだった。
「じゃあ一枚500円とかで」
「あかんだろ」
 冗談だよ、とミカゼは言うが、本当に撮影会をしてしまいそうなところに危うさを感じる。賢者は勇者の道徳教育もしなくてはいけないのか。
「むっ、誰か来た」
 部室に向かって来る足音を聞いたミカゼが屈み、彼女の身体がダンボール箱に格納されていく。ミカンの箱を被って見えなくなる彼女の姿は、カメやヤドカリのようだ。
 勇者がダンボール箱に化け終わると、扉が開いて根岸が入って来た。
 別にここにミカゼがいてもいいような気がするけれど、普段男子しか入らない溜まり場は、女子にしてみれば居辛いのかもしれない。男子にとって、女子更衣室が禁断の場所であるように。
 それならばと、僕はミカゼのスニーキングミッションに付き合うことにした。
「今って、千早以外に誰かいなかったか?」
「いや、誰もいないが」
 と答えつつも、僕はまずいなと思った。床にミカゼの上履きが置きっぱなしだ。化学のレポートの回答を気にする根岸がよそ見をしている隙に、僕はミカゼの上履きを自分の上着の中にしまい込んだ。温かみと微々たる湿気を感じる。
 根岸は紙袋に、なにやらお菓子を入れて持ってきたようだった。
「購買で30%オフだったからチョコ餅買ってきたぞ」
「それはありがたい」
 僕たちはミカゼ箱、いやミカン箱を挟んで、チョコ餅を食べながらゲームを始めた。
 生徒会長の細田を墓場に送る、水泳部員の本間を破壊する、テニス部の宮本を奴隷化するといった物騒な文言が飛び出すが、もちろんこれは犯罪計画ではなく、ルールに従ってカードゲームをプレイングしているだけだ。
 初めはただふざけてカードに数値をつけ、その大小を比較し合うだけだった。いつの間にか卓上ゲーム研究会の男子がマニアックなゲームデザインを取り入れ始めて、カードの特殊効果やスキルが充実し、戦術が豊富になっていた。
「ここで第二班を前に出すか悩むところだな」
 根岸は長考に入ってしまった。僕も、さて次に何のカードを出そうかと考えていると、ダンボール箱が傾いて、床との隙間から手が伸びてきた。くいくいと上向きの掌が、くださいと言うように動く。根岸はまったく気づいていない。
 僕は彼女の上履きを回収したままだったことを思い出し、上履きをその手に渡す。彼女の手がダンボール箱の中に戻っていった。
 すぐさまペッ、と箱から上履きが吐き出され、またしても手が底から伸びて来て何かを要求した。
 ミカゼはチョコ餅が欲しいらしい。
 手にお菓子を乗せてやると、するすると箱の中に引っ込んでいった。今のミカゼは勇者というより、ミミックボックスと呼んだ方が似合うことだろう。
「よーし決めた、俺は二枚のレアを防御に回してターンエンドするぜ」
「分かった。僕は右端から順番に攻撃するよ」
 ゲームが進み、チョコ餅も減っていった。
 僕は最後のチョコ餅をミカゼに渡した。
「あれっ、おかしいな」
 と根岸が首を傾げた。やはりミカゼの隠れているダンボールに気づいたのだろうか。
「チョコ餅は全部なくなったよな」
「そりゃあ、食べたらなくなるだろ」
「あれってパーティ用で、一つだけハズレのキムチ納豆チョコ餅のはずなんだ」
「ウエエエエッ!」
 ダンボールの中から、この世の終わりを垣間見たような悲鳴が聞こえてくる。なるほど、ハズレはミカゼに行ったようだ。
「なんだ今の声は」
「なんだろうな……」
 声の場所を特定出来なかった根岸が部室の中を見回し始めた。
「千早も聞いただろ、苦しむ女の悲鳴を。この部屋、出るって話があるよな」
「えっ、僕には聞こえなかったよ」
 根岸は正体不明の超常現象が発生したのではないかと怯え始めた。僕はひとまず、何も知らないふりをすることにした。
「ウッ、ウッ、ウッ……」
「ほらほら、千早にも聞こえるだろ! 啜り泣きのような声が!」
「キムチ納豆チョコ餅を食ったような声だな」
「この学校、悪霊に呪われているんじゃないか。霊界の入り口があるのか」
「どちらかというと魔界の入り口だと思うが」
「こっ、こんな時に退魔剣士とか、そういう人がいてくれれば」
 まさに根岸を脅かしているのは、その退魔剣士なのだった。
 その時、部屋の入り口が開いて、一人の男子生徒が顔を覗かせた。
「おい根岸、レポートの出来が悪いって先生呼んでたぞ」
「おお、そうか。すぐ行く。千早も早くここを出た方がいいぞ。じゃあなっ」
 こんなところにはもういられないとばかりに、根岸は足早に退室していった。部屋の中は、僕とミカゼだけになる。
「ミカゼ、大丈夫か」
 箱を持ち上げると、涙目でプルプル震えるミカゼが姿を現した。表情を変えない彼女の珍しい顔を見て、僕は思わず息を飲む。キムチ納豆チョコ餅のおぞましき味に耐えるミカゼの顔は、おそらく一生に一回見れるか見れないかくらいのレアリティだろう。それにどれくらいの価値があるのかはともかくとして。
 ミカゼは無言でダンボールの縁を摘まむと、静かに引き下げた。再び彼女が箱の中に格納される。
「ネギシ……イノチハナイトオモエ」
「勇者は怒ると片言になるのか」
「千早、素早さの薬を」
 ミカゼがそう言い、箱から手が出てくる。僕は言われるがままに、戦闘中に素早さが上がる、勇者用の特別な薬を鞄から取り出し、箱入り勇者に渡した。
 地面を滑るようにして、ミカゼの入った箱が動き出す。開いたままのドアから廊下に飛び出し、猛スピードで根岸を追跡する。全自動掃除ロボットを戦闘用に改造したような動きだ。あの狭い箱の中で、一体どうやって走っているのだろう。勇者についての謎がまた増えてしまった。
「うわーっ、ぽっ、ポルターガイストだーーーっ!」
 恐慌状態に陥った根岸の悲鳴が聞こえてくる。早くも彼に追いついてしまったようだ。
「うーわーあーーーーーっ!」
 カサカサカサカサカサ
 全力ダッシュで逃げる根岸を猛追するミカン箱。ダンボールの端が地面を擦る身の毛もよだつ音が廊下に響く。あれでダンボールが黒塗りだったらと思うと恐ろしい。
 キンッ!
「うぐああああッ!」
 廊下に設置された消火器に引っ掛かって倒れた根岸は廊下を転がって、階段から静かに落っこちていく。
「根岸よ、安らかに」
 僕には彼が生き延びることを祈るくらいしか出来ない。
 窓から差し込む夕日がミカン箱を照らし、勝者であることを讃えるかのようだった。
 根岸は、階段から落ちて、職員室よりも先に保健室に行くことになり、化学の単位も落とした。
 その後、学校の中には恐ろしい霊界のモンスターが出現するという噂が流れた。成績が足りなくて留年したことを苦に自殺した女子生徒の霊が、仲間を増やそうとしてレポート提出を妨害しているという噂だ。
 根岸は、単位をギリギリで取る生徒を恨めしく思う幽霊にやられたに違いない、と真顔で語っていた。本当は食べ物の恨みなのだけれど。

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