一

 夢野幸太郎(ゆめのこうたろう)の前に涙を浮かべた少女がいる。
 強く握った拳で眇めた瞳を拭いながら、彼女は幸太郎に感情をぶつける。
「こっちを見ろこの黒髪! バカ! 禿げちゃえ!」
 罵倒する少女の隣には、同じ顔の少女が厳しい表情をしていた。
 二人はローティーンの少女とは思えないほど怒りを秘めた瞳で彼を見ていた。

 家を出奔していた彼にとって、三年ぶりの帰郷は父と義母の葬式が理由だった。
 テロリストたちに殺されてしまった両親の葬式である。

 そして、その場にて、幸太郎は義妹二人から罵倒されていた。

     *

 世界的に見ても優秀な魔術士だった父たちの葬儀は盛大に行われた。
 最城市(さいじょうし)の外れに位置する夢野邸は山の中腹に建てられているため、あまり交通の便が良くない。だが、多くの参列者が訪れ、両親のために涙を流していた。
 父たちが惜しまれるのも当然の話で、魔導結社『蒼色の月』撲滅、大規模魔獣型魔力炉拘束檻の実現、夢野式送魔線の実験成功……その業績は多岐に渡った。もちろん、成功に比例して敵も多かったが、功罪は同じ側面でも同一視すべきではない。
 それは良い葬式だったのだろうと幸太郎も思う。
 しかし、彼は葬式の間、涙などすこしも流れず、ただただ親族席の居心地が悪くて、どう振る舞うべきか悩むことで時間が過ぎていた。
 結局、どんな顔をすべきか最後まで分からなかった。

「ねぇ、アンタが幸太郎でしょ? 夢野幸太郎」
 幸太郎が廊下で呼び止められ振り返ると、二人の少女が仁王立ちしていた。
「うん。そうだよ。えっと、君たちは確か……」
 緑銀髪でロングストレートの少女が軽く頭を下げる。
「アタシは夢野アリスです」
 赤銀髪のショートボブが幸太郎を睨みながらボソッと呟く。
「……マリアよ」
 自己紹介をされるまで幸太郎は名前を忘れていた。
 彼女たちは幸太郎にとって義母であるアガサの連れ子だ。つまり、彼の義妹になる。
 幸太郎が家を出た後、夢野家へ一族入りしたので顔を合わせたことはない。写真で顔を確認したことはあるが、逆に言えばそれだけなので、感情的には赤の他人に等しかった。
 双子の義妹たちはとても可愛らしい容姿をしていた。
 柔らかそうな白い頬。長いまつげにパッチリとした二重。涙で腫れていたが、愛らしい瞳。現在も十分美少女だが、成長に従ってなお一層輝くだろう。
 今年で二人とも魔術の名門、天食(てんじき)学園中等部の一年生になるはずだ。誕生日は四月だったので十三歳。そう考えると、年齢に比して小柄かもしれない。
 そして、二人の容姿以上に目を引くのは、魔力値の高い者に特有である銀髪だ。
 魔力量と髪色には密接な関係がある。
 髪色から判断して二人の魔力値は百万を軽く超えている。魔術士としての素養は正に出色。父や祖父と同じ十万人に一人の才能の持ち主だ。そもそも、彼女たちは正に、、それを望まれて、黒髪の幸太郎の代わりに夢野家の養子になったのだ。
 今、彼に向けられている双子の視線は、好意的とは呼べないものだった。
 敵愾心を隠そうともしていない二人に対して、幸太郎はなるべく友好的に挨拶をした。
「ああ、はじめまして。アリスちゃんにマリアちゃん。よろしくね」
 二人は幸太郎の全力の笑顔を無視した。
 アリスが穏やかな口調で言う。
「幸太郎お義兄さまは今日、一体、何をしに来られたのですか?」
 慇懃無礼の見本として展示したいくらい分かりやすい皮肉だった。
 幸太郎は差し出した手を引っ込めて、苦笑しながら言い返す。
「いや、両親の葬式には普通参加するものじゃないかな?」
「逃げ出した無能な負け犬が何言っているのよ。アンタ、学校にも通ってない引きこもりらしいじゃん。どうせお金の無心でしょ? 生きていて恥ずかしくないの?」
 アリスは丁寧な口調の中に毒を秘め、マリアは打撃練習しているスラッガーのようなテンポ良い罵倒を繰り返す。どちらにせよ、幸太郎へ向けられるのは敵意だったが、やや異なる種類なので心構えは二重に必要だった。
 以前から嫌悪されてきた幸太郎だが、親戚連中の白眼視の意味を理解する。
 遺産目的に参列したと思われている。夢野家の重責に耐えられず、努力することさえ辛くて逃げ出した無能な黒髪が困窮している――こんなところだろう。
 黒髪は魔力値が数百程度しかない。魔術が発動する最低レベルの一万(黄髪クラス)をはるかに下回っている。ただし、人類の大多数の髪色は黒、灰、茶である。そのいずれも魔力値一万に満たず、先天的に魔術の才に欠けている。
 魔術士の資格が得られる人間は百人に一人ほどしかいない。
 つまり、黒髪は生まれつき魔術士になれない象徴とでも言うべき色なのだ。
 天才である二人が見下した態度を取るのも仕方ない、と幸太郎は諦める。
 事実、幸太郎は三年ほど前に家を出奔しているし、学校にも通っていない。
 その経緯については親戚筋による虐め的なものもあったのだが、彼女たちにとってはどうでも良いことだろう。どんな理由であれ、名門夢野家を捨てた――幸太郎にとっては捨てられただが――ことに変わりないのだ。
 的外れではない罵倒なので幸太郎は腹も立たなかったが、疑問を解消すべく質問する。
「それ誰から聞いたの?」
「京二(きょうじ)叔父さまを中心とした親戚の総意です。正確にはもっと酷い言葉でしたが」
 火のないところに煙は立たないとばかりのアリスの言い様だった。
 二人が京二たちの言葉を疑わなかったのは、父――敬太郎(けいたろう)が暴言を咎めなかったからか。
「一方だけの意見を鵜呑みにするのは問題だと思うよ」
「じゃあ、何しに来たのさ。言ってみなよ」
「……ま、確かに僕は親戚たちと折り合いは良くないけどね」
「やっぱり、答えられないんじゃないっ!」
 今、幸太郎たちが立ち話をしているのは本邸内の廊下だった。だから、人通りは少なくない。そして、その多くは夢野の親戚か、その関係者である。
 こんな人目の多いところで言い争いをすれば、彼女たちにどんな不利益があるか分からない。ただでさえ、今は父たちが亡くなり微妙な時期なのだ。目立つのは避けたい。
 幸太郎は可能な限り無難に矛を収めようとしたが、マリアは叫ぶ。
「ハッキリ言えば? パパたちの遺産目当てなんでしょ! 本当に最低!」
 そこで幸太郎は義妹たちが人目のある場所で彼を呼び止めたのか理解する。正にその人目を利用するためなのだ。良心や外聞を刺激して幸太郎を追い込もうとしている。
「そういう人も多いとは思うけど、僕は違うよ。相続については放棄する予定だし」
 実の所、幸太郎は特殊なアルバイトをしているのでお金に困ってない。
 しかし、そんな事情など知るわけもないマリアたちは一方的にヒートアップする。
「嘘だ! そうじゃなきゃ、わざわざお葬式に来るわけないし!」
「お義兄さま。正直に言ってください。アタシはどれだけお義兄さまが品性下劣な企みを抱いていても軽蔑はしません。ただの人間ですもの」
「ボクは存分に軽蔑するけどね! そもそもさ、親戚と仲が悪い? ボクらだってパパと血が繋がらないからスゴく苦労しているんだからね! 天食学園はただでさえ授業大変なのに、毎日睡眠時間を削って魔術の勉強をしているんだ! お前なんかには想像できないほど厳しいんだからな!」
「マリアちゃん、それは言っても仕方ないよ。お義兄さまは才能がないのですから」
 問題を起こした場合、加害者だけが白い目で見られるとは限らない。被害者も同類と見なされることがある。被害者側に原因があったから加害者が行動に移したと考える人間は意外と少なくない。今の状況もそれに当てはまった。
 両親の葬式があり、血の繋がらないとはいえ兄妹が騒ぎを起こしている。
 まだ小さな女の子とはいえ、銀髪の天才が無力な黒髪を二人で責めている。
 義妹たちクラスの魔力量になると、一撃で高層ビルをぶち壊すことも可能なのだ。それを見た他者がどう思うか、想像に難くない。
 髪色でその人の魔力量が分かると容姿や性別、年齢を飛び越えた価値基準になる。
 幸太郎が二人を宥める手段を黙考していると、無視されたと感じたのか、マリアが涙目になりながら叫ぶ。
「こっちを見ろ、この黒髪! バカ! 禿げちゃえ!」
 禿げろ――つまり、魔力を失えという意味だ。
 それは『死ね』と同義であり、決して人前で口にしてはならない禁句(タブー)の一つだった。
 実際、周囲の人間は葬式の場でそんな発言をするマリアに白眼視を向けていた。
 ある程度冷静さを保っているアリスが「マリアちゃん、言い過ぎだよ……っ」と諌めるが、マリアは頭に血が上っているのか、明らかに聞こえていない。
 これはマズイ、と幸太郎は思う。
 親を亡くしたばかりの子どもでも許されない一線を越えようとしていた。
 だから、不本意ながら強硬手段で速やかに場を収める。
「そんなこと言っちゃダメだよ」
 幸太郎が指を鳴らした瞬間、マリアの視線が一瞬だけフラフラと揺れる。
 そして、正常に戻った後、彼女は幸太郎に向けて頭を下げた。
「ごめんなさい……ボク、パパとママが殺されて……その、動転していたの……許してください……本当にごめんなさい……」
「うん、気にしてないから大丈夫だよ。誰だってイライラする時はあるからね」
 ニコニコと笑いながら幸太郎が許すと、マリアは「うぇぇぇん」と涙を流し始めた。
 マリアのその反応で、好奇や侮蔑、詮索などの視線を送っていた周囲の人間たちも、気まずそうに顔を逸らした。人の行き来が足早になる。
 マリアの隣にいたアリスが目を丸くした。
「マリアちゃんっ!? どうしたのっ。お、お義兄さま? 今、何をされたのですか?」
 アリスは分からないにしろ、どうやら何かを感じ取れたらしい。
 やはり天才だなぁ、と幸太郎は感心する。義母も上級魔術士で優秀な研究者だったが、その才はより磨かれて受け継がれているようだ。
 幸太郎は笑って応える。
「別に何もしてないよ。ただね、安易に敵を作ることは止めた方が良いよ」
「え……?」と不思議そうなアリス。マリアは未だにグズグズと泣いている。
「じゃあね」
 幸太郎は二人の頭を優しく撫で、その場を後にした。

 幸太郎は一つ安心していることがあった。
 ひとり暮らしをしている間、彼は何もせず引きこもっていたわけではない。
 その間、幸太郎は魔力制御の研究をしていた。
 それは表面的には『髪を染める』研究であり、その成果はかなりのレベルまで出ていた。
 もしも、義妹たちがそれを知っていた場合、罵倒はあの程度で済まなかっただろう。
 何と言っても、現時点での成果とは――魔力を減衰させる薬の精製だったのだから。

     二

 夢野家は標高四九七メートルになる山を丸ごと買い取っている。
 そして、下水道から送魔線まで様々なインフラ整備を行い、本邸一つに離れが三つと計四棟の屋敷を建てていた。それだけの財力があったし、多くの親族を抱えている。実際、幸太郎も在野に下ってから知ったことだが、地元民は『夢野城』なんて呼んでいるらしい。
 祖父の敬心(けいしん)に呼び出され、面会したのは夢野家の離れである別館の一室だった。
 広さは八畳ほどで、可動式のベッド以外はテーブル一つと椅子が二つしかないシンプルな造りだ。部屋に据えられているのは高級な家具だったが、どこか病室のようだった。
 外観以上に、臭いが病院と似ている。
 実際、部屋に一人で待つ敬心は病人にしか見えない。幸太郎に鋭い視線を向けているが顔色は悪いし、幸太郎の記憶より十キロは痩せている。実年齢の七十一よりも老けて見えた。枯れ木のような腕など、ちょっと触れただけで折れてしまいそうだ。
 敬心はわずかに微笑んで言う。
「久しぶりだ、幸太郎。大きくなったな」
「はい、お久しぶりです」
 幸太郎は深く頭を下げながら驚いていた。敬心の声は掠れ、力がない。
 本邸では葬式が終わったばかりで、それなりに騒がしいはずなのにこの部屋までは届かない。静かなのは防音処理がなされているからだろうが、物音がしないからこそ敬心の声の弱々しさが幸太郎にもよく分かった。
「……体調はよろしいのですか?」
「病気でな。門蔵(かどくら)の小倅には、三ヶ月前に余命三ヶ月と宣告されたよ。そう考えれば絶好調だな」
 カカッと敬心は笑うが、やはり弱々しい。
 死体よりはマシという冗談なのだろうが、幸太郎はとても笑えない。
 敬心は灰の混じった金髪で、やはり国内屈指の魔術士として有名だった。顔立ちは父の敬太郎に似ているので、自然と孫の幸太郎とも似ている。ただ、性格はやはりそれぞれ全然違う。どちらかと言えば、悲観主義の敬太郎や幸太郎に対して祖父は楽観主義者だ。
「それは……その、大変ですね」
 幸太郎は敬心に何か気の利いた言葉を返そうとしたが、思いつかなかった。
 門蔵家は魔術医として国内最高の腕を持っている一門だ。その見立てだから、もう本当に長くないはずである。死に行く人へかける言葉は本当に難しい。
 敬心は「そうだな」と短く首肯する。
 やはり自身の病気に加えて、テロで自慢の息子を殺されたばかりなので、心労が重なっているのだろう。楽観主義で乗り越えられる限度を遥かに超えているに決まっていた。
 優秀な魔術士として名を馳せた祖父だが、今はただの老人に見える。
「積もる話もあるが、先に必要なことを話しておこう。重要なのは今後のことだ」
 敬心はため息をついて続ける。
「まさか、敬太郎とアガサさんが一度に殺されるとは思わなかったからな。現在、夢野家の業務をキチンと把握できている人間は俺しかいない。正確にはその役割の意味を把握、だがな。その俺も棺桶に半分足を突っ込んでいる状態だ」
「このままであれば、どうするのですか?」
「京二が夢野の看板を背負うことになるだろうな。もしくは、マリアかアリスを当主として、京二がその補佐かもしれないが……どちらにせよ、ろくなことにならんだろう」
 幸太郎は車椅子に乗った叔父のことを考える。
 紫髪(魔力値十万オーバー)で上級魔術士の資格を有している京二は確かに優秀な人物だ。が、身体的ハンデを度外視しても、国内屈指と謳われた父や祖父に比べると力不足の感は否めない。
 その点、義妹二人はどちらも魔力量については合格点だが、まだ幼すぎる。
「二人とも素晴らしい才能の持ち主に見えました。そう酷いことにはならないのでは?」
「幼いだけじゃなく、あの娘たちはすこし優し過ぎる」
「僕はいきなり罵倒されましたけどね」
「何があったか知らんが、あの子たちの優しさは付き合ってみればすぐ分かるさ」
「そんな機会永遠になさそうですけどね。あの態度から考えると」
 敬心は「義理とは言え、兄だろ? そんな寂しいこと言うなよ」と苦笑する。
「二人は、まだまだ経験不足で他者に付け込まれやすい。矢面に立つには不向きで、利用されるだけで終わるだろう。京二の手に余る才能を腐らせるだけだ」
 実の息子に対してしん辛らつ辣な言い草だが、幸太郎も敬心の見立ては正しいと思った。
 クジラは地上では自重で死んでしまう。大きすぎる権力は相応しい器がなければ、壊れるだけなのだ。つまり、夢野家はかなり危機的な状況にあるということだった。
 せめて、この状況が五年後であれば、全然話は違っただろう。
「今は応急処置的に各々に指示を出しているが、すぐ瓦解するだろう。夢野家が綺麗に解体されれば良いが、このままではそうはならない。間違いなく過剰な負担を強いられ、追い詰められる人間が出るはずだ」
「…………」
「……幸太郎、帰ってくる気はないのか?」
 敬心はその言葉を、遠くへ視線を結んで言った。
 だから、幸太郎は柔らかく首を横に振る。
「その気はありませんよ。家を出された僕が跡を継いだとしたら、自然瓦解どころの騒ぎではありませんから。親戚筋が暴動を起こしますよ」
 親戚に嫌われている黒髪の幸太郎ではとても夢野家は継げない。現在、重要なポジションにある親戚は誰一人認めないはずだ。反発を招き、人死さえ出るかもしれない。
 マリアやアリスの態度は、あれでもまだ直接文句を言うだけマシなのだ。
 元から期待していなかったのだろう、敬心は「そうか」と呟いた。
 そう要請されると見越していた幸太郎は、代わりの提案を用意していた。
 それを提示すると、敬心は笑った。
「――幸太郎、お前、本気で言っているのか?」
「ええ、まぁ」
 敬心は何かを考え込んでいる。トントンとこめかみ付近を人差し指で叩きながら、もう一度確認するように「本気、だな?」と言った。
「はい」と幸太郎は迅速に頷く。
「そうか……では、こういう提案、受け入れるか?」

 幸太郎は敬心の提案を交渉の末、受け入れた。
 その瞬間、祖父の浮かべた表情が幸太郎にとって印象的だった。
 それは枯れた老人が浮かべるものではなく、飢えた虎が三日月の下で人間を発見した時のそれに似ていた。

     一

 葬式の二日後、半日ほど車に揺られ、双子が連れられたのは田舎街の一軒家だった。
 二階建てで五十坪ほどだろうか、特徴のない民家である。
 アリスたちがそれまで住んでいた最城市からずいぶん離れていて、どうしてこんな場所まで引っ越さなければならないのか、アリスは全く理解できなかった。
 昨日の朝、いきなり義祖父の秘書という男に伝言を告げられたのだ。
 幸太郎(義兄)と一緒に暮らせ。身元引受人は彼で転校の手続きも済んだから、と。
 アリスはそんなバカな、と思った。
 夢野家の親戚は多かったので、もっと相応しい人物はいるはずなのだ。それこそ、義祖父の敬心でも構わない。そもそも、平日は移動時間を考慮して天食学園の寮で暮らしていたので、わざわざ二人が転校しなければならない意味も理由も分からなかった。
 葬式で会っただけの義兄に任せるなんて、理解に苦しむ決断でしかない。
 それなのに、アリスたちの要求は一分の考慮もなくその場で却下された。
 まるで、彼女たちがそう言い出すと分かっていたかのような反応で、話の直後、アリスたちの居室から私物が速やかに運び出されてしまった。見事な手際で問答無用だった。
 あまりにも唐突な不条理は家族の死も相まって彼女たちを打ちのめした。
 どうしてこんなひどい目に遭うのだろうか? 何が悪かったのか?
 アリスは移動中、そんなことをずっと考えていた。
 隣にいた姉も暗い顔で黙っていたので、車内は駆動音とため息しかなかった。
 そして、停車した後、秘書の男性はアリスたちの手荷物を車から下ろすと「それでは」と頭を下げて、あっという間に去って行った。ビジネスライクというか、玄関を開けてあいさつをしてくれるという心遣いは皆無らしかった。
 困ったアリスは玄関扉を前にして竦んだように佇む。それはマリアも変わらなかった。
 十月も半ばを過ぎると、夜はもう肌寒い。
 新しく来たこの高良市は最城市より二百キロほど南下し、海に面しているので比較的温暖だ。しかし、体感的にはそんなこと全くなく、足元からひどく凍える。
 玄関脇から見える狭い庭の若木は紅葉から落葉の途中で、葉っぱがヒラヒラと風に舞って地面に落ちた。つまり、アリスたちは体が冷え、落葉を目撃するほど立ち呆けていた。
 その間、彼女が姉の裾を掴んで離せなかったのは怖かったからだ。
 今、家の中には人の気配がある。間違いなく幸太郎がいるのだろう。
 しかし、それで安心できるなんてことは欠片もなく、むしろ、玄関が地獄の門と化している理由の一つだった。
 涙が零れそうな感情を押し殺し、オズオズと彼女は呟く。
「ねぇ、マリアちゃん。幸太郎お義兄さまに、どうあいさつしようか……?」
「分かんないよっ! ボクはどんな顔して会えば良いかも分からないんだよ!」
 マリアの語気が荒いのは不安の裏返しだろう。もしかしたら、姉はアリス以上に怯えているのかもしれない。気持ちはアリスにもよく分かった。
 あの葬式の日、あんな喧嘩腰で話しかけなければ良かったのに、とアリスは後悔していた。もうすこし友好的に接していれば、ここまで躊躇することはなかったはずだ。
 アリスたちはそれほど義兄のことを知っているわけではない。
 年齢は十六歳。黒髪で魔術士の素養がないこと。何か問題を起こし、家を放逐されたこと。義父も息子について話題にせず、禁忌のように触れようとしなかったこと。
 多少は興味があって調べてみたが、屋敷にまともな記録は何一つ残っておらず、口の軽い親戚から仕入れたエピソードで判断すると、良い印象は受けなかった。というか、悪評しか聞けなかった。怠惰で傲慢。わがままかつ粗暴だったらしい。
 そもそも、夢野家の当主の息子が黒髪だったのだ。多少は言われるのも仕方ないが、それを差し引いたとしても悪口ばかりなのは、やはり問題があったからに違いない。
 あの優秀な義父の血を引いているとはとても信じられなかった。
 ただ、それ以上にアリスは懸念していることがあった。
 葬式での一幕だ。
 幸太郎は彼女たちの前から去る直前、マリアに『何か』をした。だが、すぐ傍で見ていたのにアリスは何をしたのか分からなかった。それは何かされたマリアも同様だった。
 ただし、魔術ではなかったと思う。
 根拠は二つで、何らかの魔術を行使したのであれば、銀の彼女たちに分からないわけがなかったから。もう一つは黒髪の幸太郎が魔術を使えるなんてありえないから。
 だからこそ、余計に不気味だった。
 幸太郎が何かをしたのは確実なのに、それが何なのか分からないのだ。
 人間が闇を恐れるのは、そこに不定形の怪物を想像するからだが、これも同じだった。
 つまり、アリスたちが動けないのは警戒心の発露なのだ。
 しかし、このまま案山子をしていても事態は進まない。アリスは決心する。
「ね、マリアちゃん。怖いけど、中に入ろうか」
「……別に怖くなんてないし。ちょっと気合を入れているだけだし!」
 マリアはゴクリとつばを飲み込んだ。緊張は肩の震えからも伺える。
 気合を入れないと動けないのは、明らかにアリスよりも怖がっている。
 アリスは裾から手を離し、マリアの手を掴んだ。緊張のせいで、汗がジットリと滲んでいる。それはお互い様だったが、何となくおかしかった。
「ね、マリアちゃん? 一緒にチャイム押そうか」
「……仕方ないわね」
 明らかにマリアの肩から力が抜ける。
 姉が安心したことで、アリスも気が楽になった。
 二人でドアベルに手をのばそうとした瞬間――ガチャリとタイミング良く玄関が開いた。
「ひゃぃ!?」「わぁぅ!?」
 姉妹仲良く同じタイミングで後ろへ飛びすさ退った。
 暗がりに長いこといたせいか、室内光が目に入って眩しい。
 アリスは手を目の前にかざし、眇めた視線で奇妙なシルエットを目撃した。気がした。
「やぁ、遅かったね。おかえりなさい」
 そのどこかのんびりした喋り方は葬式で聞いたものとよく似ていた。
 ただし、マスクでもしているのか、若干くぐもっていた。
 逆光に目を瞑っていたマリアが、まなじりを決して叫ぶ。
「いきなり開けるなんて危ない……で、しょ……っ?」
 その勢いが減じたのは彼女も目撃してしまったからだろう。その意味不明の姿を。
 葬式で会った時の幸太郎は細身の、平均的な少年に見えた。
 だが、現在の彼はずんぐりと倍くらい横に広がっていた。
 というか、熊の着ぐるみ姿だった。
 熊の着ぐるみがアリスたちを出迎えてくれたのだ。
 おそらく、その中に幸太郎は入っているのだろうが、意味不明すぎる行動だった。
 最初疑ったのは自身の目で、次に疑ったのは義兄の頭だった。
 一応、第三の可能性としてアリスのストレス性失認も考えたが、熊の着ぐるみは現実だった。隣でマリアが阿呆のように大口を開けているから間違いない。
 もしかしたら、これが彼にとっては普段着なのかもしれないが、だとすればなおさら理解不能である。正直、あまり近づきたくない類の文化だ。
 おそらく義兄であろう熊の着ぐるみが言う。
「長い時間移動して疲れたでしょ? 食事は済ませたかな? 簡単なものだったら作れるけど、リクエストはある? とりあえず、アレルギーはないって聞いてるよ」
 平然と会話を続ける義兄のメンタルもアリスの理解を軽く超越していたが、案外、彼女の反応がオーバーなのかもしれない。もしかしたら、リラックスさせようとしてくれている可能性もあるが、余計な配慮だった。どんな顔をすべきか誰か教えて欲しい。
 自然と渇いていた喉が水分を欲し、つばを呑み込んだ。アリスは質問する。
「あの、お義兄様。一つよろしいでしょうか?」
「うん、何でも構わないよ」
「はい、その着ぐるみは何ですか?」
 あまりにも意表をつかれたから、逆にすんなりと質問ができた。ついでに、毒気とか警戒心もどこかに失せていた。
 幸太郎は忘れていたとばかりに大仰に頷いた。
「ああ、この姿は……んー、まぁ、詳しく説明するからとりあえず中に入ろうか。寒いでしょ。あ、荷物は僕が運ぶね。君たち二人の部屋は二階になるからついてきて」
 アリスはぼんやりと荷物を手渡しながら、これからどうなるんだろうと不安で仕方なかった。隣で手荷物を渡したがらないマリアが義兄に向ける剣呑な眼差しも、不安を増長させる要因の一つだった。

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