二

 マリアに割り当てられた私室は十畳ほどで、中央に箱詰めされた私物が置いてあった。
 家具は部屋のサイズに合った新品で、衣装箪笥から机までひと通り揃っていた。
 荷解きは面倒だが、もともとマリアはそれほど私物が多くないので、そこまで時間は取られないだろう。彼女たちは魔術の勉強が忙しくて趣味にも乏しい。
 自分よりも、アリスは魔術書が多いので大変そうだった。本を借り受けることも多いので、マリアは手伝うつもりだったが、紙は意外と重いので億劫だ。
 手荷物を運び入れた後、リビングに移動したマリアはアリスと膝を並べてソファーに腰掛けていた。何か会話でもすべきなのだろうが、キョロキョロと新居を確認する。
 リビングは結構広い。台所と繋がっているが、合わせれば学校の教室くらいの面積がある。ソファーが三つコの字の形で並べられ、何も載っていないガラスのテーブルが中央にある。最新式のブラウン管テレビまであった。
 奥の台所では相変わらず熊の着ぐるみ姿の義兄が何か作業をしている。あれはどんな冗談なのか分からないが、一回くらい魔術でぶっ飛ばしても許される気がする。
「ごめんごめん、意外と手間取ったよ。準備しておいたんだけどね」
 そして、紅茶と茶菓子(マドレーヌだった)を運んだ幸太郎が、彼女たちと向かい合うようにしてソファーに座った。着ぐるみはまだ脱がないようだ。
「お腹空いたでしょ。遠慮せずに食べてね」
 幸太郎に勧められたが、正直、マリアに食欲はなかった。
 甘いものは大好きだが、彼女は緊張で朝からほとんど食事が喉を通っていない。
 それはアリスも同様らしく、隣で青い顔をしている。
 だからこそ、マリアは無理をして平然とお菓子に手を伸ばし、咀嚼する。
「あ……美味しい……」
 ほとんど意地になっていたが、食べてみると意外なほど美味しかった。
 思わず漏れたマリアの本音だったが、幸太郎は「良かったよ」と胸を撫で下ろす。
「美味しくないって言われたらどうしようか悩んでたんだ」
「……もしかして、これ、アンタの手作りなの?」
「うん。まぁね」
 料理はそれなりにできるらしい。そういえば、義兄はずっとひとり暮らしをしているから家事は得意なのかもしれない。
 マリアが二個目に手を伸ばすと、隣でアリスも恐る恐るマドレーヌを手に取った。妹も食欲がわいたようで、すこし安心する。口の中がパサパサするので飲んだ紅茶は、いわゆるロイヤルミルクティーだった。砂糖とミルクがたっぷりでこちらも美味しい。
 マリアは空腹が満たされ、紅茶で喉を潤してからふと思う。
 リビングでお茶をする双子姉妹に、それを見守る熊の着ぐるみ。どんだけシュールな光景なのか。何なのだ、この状況は。マッド・ティーパーティーすぎる。
 マリアが思わず笑うと、アリスも似たようなことを考えていたのか笑い出した。
 それは快活と呼ぶにはほど遠いものだったが、両親が死んでから姉妹の間に生まれた初めての笑顔だった。
 幸太郎は二人の笑いが止まったのを確認してから言う。
「さて、じゃあ、今後についてすこしお話しようか」
 完全に虚を突かれた、とマリアは思った。先ほどまで張り詰めていたのに、その反動で思考が弛緩している。これを幸太郎が狙っていたとするのであれば、策士だ。
「……うん」
「……はい、お願いします。お義兄さま」
 とりあえず、マリアは姿勢を正し、アリスも息を細く絞った。
 幸太郎はゆっくりと話し始める。
「これから君たちはしばらくの間、夢野の名を離れて平凡な女子中学生として生活する。転校先はこの家から歩いて十分ほどの近所の中学校だよ。一学年一クラスという田舎の学校だね。それでダミーの戸籍も用意したんだけど、『烏丸(からすま)』が君たちの新しい苗字になる。しばらくの間、僕の庇護下に置かれるから」
 淡々と告げられた内容をマリアは咀嚼する。内容は理解できるが、感情は納得できなかった。どうしてこんなことをする必要があるのか?
「ねぇ、アンタ、質問は受けつけている?」
「うん。でも、先に言っておくけど、どんな質問でも答えは変わらないからね」
「では、お義兄様、その答えとは何なのですか?」
「うん。『申し訳ないけど、決まったことだから受け入れて欲しい』だね」
 決まったこと。それを決めたのは誰なのか、マリアは考えてみた。幸太郎だけではないはずだ。ここまで運んだのが敬心の秘書だったから、義祖父も関わっているのだろう。
 アリスはすこし思案してから質問する。
「……では、どうしてそうなったかは質問しません。ただ、ダミーの戸籍など用意しても無意味だと思います」
「それはどうして?」
「アタシたちが『銀髪』だからです。これは十万人に一人の才能の証ですよ。お義兄さまは小さな田舎の中学校とおっしゃいましたが、アタシたちのような存在が転校するということ事態異常なのです。平凡な生活など送れるわけがありません」
 マリアはアリスの言葉に内心で大きく頷く。確かに、それは彼女たちでどうにかできる問題ではない。最初から破綻している指示なら受け入れる必要などない。
 が、幸太郎は「その点についてはクリアしているよ」とあっさりと答えた。
「え……?」
 幸太郎は用意していたのだろう、白い錠剤の入った瓶を取り出した。
「これは僕が精製した魔薬だよ。効果は魔力の減衰。大体、服用してから二十四時間、魔力量が制限されるんだ。二人は今後、毎日この薬を飲んで貰うね。君たちの魔力量でも、これを飲めば千分の一――灰色髪くらいになるはずだよ」
 マリアは目を剥いて立ち上がっていた。
「そ、そんなもの! あるわけないし!」
 魔術士とは体内で生み出した魔力を、脳内で構築した術式と合わせることで、魔術として現実に干渉する能力者のことだ。そして、魔力量でその効果は大きく左右する。魔力量が少なければ行使できる魔術は弱小だし、逆に魔力量が多ければ行使できる魔術も強大になる。属性による相関関係はあるが、魔力量が魔術士の格を表していると言えた。
 そして、個人の魔力量は先天的に定められている。
 それは病気などの一部の例外を除き、生まれてから死ぬまでほぼ変化しない。
 少なくともマリアは魔力量を変化させるような薬など聞いたことがない。
 もしも、そんなものが本当にあるのなら、それは歴史に刻まれるレベルの発明である。
 何故ならば、今の魔術文明社会を真っ向から否定するような代物だからだ。
「嘘だと思うのは構わないけど、飲めば一発だからね。そんな無駄な嘘はつかないよ」
 幸太郎が主張するかのような声高な調子であればマリアは疑っただろう。
 しかし、あまりにも平静な応答は信ぴょう性を保証しているようだった。
 では、その魔薬は本当に魔力量を制限するのだろう。
 ――と、マリアはふと一つ思いついたことがあったので、思わず笑ってしまった。
「なーんだ。そもそも、別にこんな話し合いする必要ないじゃん」
 アリスが怪訝そうな顔で見てきたので、マリアは不敵に笑いかける。
「だってさ、コイツは所詮黒髪なんだよ? 魔術なんて使えないんだから、ボクらの敵じゃないし。どうせ後ろで糸を引いているのはじーちゃんでしょ? コイツぶっ飛ばして直談判しようよ。そっちの方がよっぽど話が早いよ」
 アリスが「なるほど……冷静さを欠いていたね、アタシたち」と頷いた。
 アリスの言葉があったので、マリアは調子に乗った。
「フフン。でしょ? じーちゃんが何言ったってもう関係ないよ。病気で耄碌しちゃったのかもしれないし、どう考えてもおかしいもん。京二叔父さん辺りに話持って行こ。天食学園に戻らせて貰えば良い――」
 マリアの言葉が終わるかどうか、というタイミングだった。
「マリアちゃん、君は本気で言ってるのかい」
 幸太郎の声はそれほど大きくなかったのに、凄まじい圧力が込められていた。
 マリアは目を見開き、無意識的に腰を落として身構える。正直、気圧されていた。
 隣のアリスも石のように固まって怯えている。
 何が逆鱗に触れたのかは不明だが、義兄は間違いなく怒っていた。
 ――と、すぐに幸太郎の空気が緩み、苦笑した。ごめんね、と。
「オッケー。できると思うのであれば、そうすれば良い。ただし、先に忠告しておくよ。そんなことしても無駄だからね」
 マリアは本当に幸太郎を魔術で攻撃するつもりなどなかった。言葉での交渉術でしかなく、非魔術士の義兄は無抵抗に終わるだろうと期待していた。アリスも同様だろう。
 マリアは確かに短気だが、そこまで分別がないわけではない。
 だからこそ、今のその挑発を無視することができない。それは『お前の魔術など効かない』という意味であり、引いてはマリアの十三年の努力を根本から否定するに等しかった。
「……分かったよ。ちょっと痛い目見て貰うからね! しばらく入院して貰うけど、今更謝ったって遅いんだからね!」
「マリアちゃん、ダメだよ!」
 アリスが止めようとするが、もう遅い。
 マリアの術式構築時間は妹より若干だが速かった。
 直接は当てないが、幸太郎の三十センチ眼前の空間を爆燃させる。爆圧で吹っ飛ぶだろうが、着ぐるみで包まれているのだから多少転んだところで大怪我などしないだろう。
 速やかに魔術を発動させた――そのはずだった。
「…………………………あれ?」と、不思議そうにマリア。
「…………………………んん?」と、不可解そうにアリス。
 何も起きなかった。
 爆風どころか、そよ風さえ発生しない。
 マリアは呆然としながらアリスに問いかける。
「ねぇ、アリス。ボクの術式おかしかった? 魔力だってちゃんと注いでいたよね?」
「えっと……アタシの見る限り完璧だったよ。魔術は、でも、発動してないね……」
 姉妹で思考停止に陥っていると、幸太郎が鷹揚に頷きながら口を挟む。
「こういうことだよ。ね、無駄だったでしょ?」
 何が起きたのかマリアはサッパリ理解できなかった。
 そう言えば忘れていたが、幸太郎に不可解な点があるから警戒していたのだ。そう、マリアは葬式に何をされたのかも分からなかったのだ――。
「さて、父さんたちが殺された件についてもすこし触れておくね」
 幸太郎は混乱するマリアたちへ、更に思考を乱す話題を提供してきた。
「犯行グループは『平等教』の過激派だ。反差別主義者(アンチレイシスト)による自爆テロだね。現在のところ関係者は全て死んでるけど、残党がいるかもしれない状況。だから、君たちは安全のためにここへやって来たんだ」
 マリアは幸太郎の言葉で、驚きつつも納得していた。
 反差別宗教団体『平等教』の過激派は異常者たちの集まりだ。
『優れた人間が人の上に立つことで秩序は維持されるべきだ』という差別主義が世間的には普通だが、それを真っ向から否定しようとしている。
 現在、世界は魔術文明全盛の時代である。科学文明もそれに追いつこうと努力しているが、まだまだ背中を捕らえたとは言えない。魔術の万能性が科学の進歩を阻害していた。
 だから、日ノ本国内に限定しても、魔術士と非魔術士で収入格差は明らかだ。
 初級魔術士で非魔術士の約二倍で、上級魔術士になると十倍に達する。
 そもそも、魔術士人口は全人口の一%程度(日ノ本国の全人口が八千万強だから約八十万人)なので単純に比較することはできないが、違いがあるのは明白だった。
 その中でも魔力値百万超(マリアたちクラス)の魔術士は更なる特権が与えられている。
 免税や多妻、多夫。禁止区域の立ち入り制限緩和など、様々な権利が保障されている。
 優秀な魔術士に多夫多妻などの権利を与えているのは、魔力量が遺伝によって大きく左右されるからだ。優秀な魔術士の子どもは、やはり優秀な魔術士であるケースが多い。
 強い魔術士になれるかどうかは、生まれた時――いや、下手すると生まれる前から定められてしまう。そこにある差は覆せないほど大きい。
 だからこそ、強い魔術士は多くの子孫を残そうとする。
 義父――敬太郎ほどの魔術士で、実子が幸太郎一人というのは非常に珍しいのだ。
 保護することで国家は魔術士の比率を増やそうとしていた。事実、その企みはある程度成功しており、数百年前に比べれば、魔術士の質、量ともに向上している。
 ただし、権利には同じ大きさの責任も伴う。現在の社会システムは、権利に等しいだけの義務を魔術士へ負わせることで、バランスを取ろうとしているのだ。
 それに対して、異を唱えているのは『平等教』を代表とした反差別主義者だ。
 彼らの理念は単純で『人は生まれながらにして差などない』という立場だ。
 魔力量の差が生まれつき髪色に現れている現実を考えると滑稽な主張だが、彼らはそれを信じ行動している。科学文明の発達に力を注ぐなど前向きな者ばかりであれば実に素晴らしいのだが、人間はそれほど綺麗なものでできていない。
 例えば『平等教』の過激派は差別をなくすという目的で、魔術士を殺す。
 しかも、ただ殺すのではなく自爆するのだ。
 殺す相手と等しく、自分の命も粗末にすることで信念を示しているらしい。
 死は魔術士、非魔術士関係なく等しいものの一つだ。
 マリアは理解できないが、彼らの中では釣り合いが取れているのだろう。
 幸太郎は説明を続ける。
「ほら、二人は夢野のお屋敷からこの家まで車で来たはずだけど、時間がやけにかかったとは思わない? 二百キロ程度を半日もかけたのは追手を撒いたりしていたからだよ」
 言われてみれば、途中、やたらと狭い道を通ってきた記憶が蘇る。が、マリアはここに来るのが嫌で憂鬱だったから、車の経路なんて気にしていなかった。
 アリスが青い顔をして問いかける。
「……あの、お義兄さま。一つよろしいでしょうか?」
「うん、ただ、父さんたちの事件についてなら、僕も十分な情報はないよ。今、敬心たちが調べている最中だからね」
「あ、いえ、その件ではなくて、いえ、その件についても聞きたいことはあるのですが、そうではなくてですね」
 アリスは言葉に迷っていた。マリアが助け舟を出す。
「アリス、言いたいことはハッキリ言った方が良いよ」
「ええ。お義兄さま、そんな危険なテロリストが夢野家を未だに狙っているかもしれないのですよね? それでしたら、魔力減衰薬などアタシは飲みたくありません。身を守ることができませんから」
「そ、そうだよ! もし、その万が一があったらどうするのさ!」
 幸太郎は苦しげな声音で言う。
「……あまり不安にさせるようなことを言いたくはないけど、テロリストたちの手口が不明なんだ。もちろん、自爆という殺害方法は分かってるけど、その程度で父さんたちが殺されたという点が不可解でね。だって、父さんならテロに対する備えは万全だったに決まってるから」
 確かに、言われてみるとおかしかった。母も優秀な魔術士ではあったが、義父に至っては国内屈指の魔術士だったのだ。簡単に殺されるなんて信じられない。
「だからこそ、普通ではない状況の方が安全だと僕たちは考えてるんだ。この魔力減衰薬のことを知ってる人間はごくごく限られてるからね。髪色と戸籍が変われば、二人は全然違った人物として扱われるだろう。狙われ拉致される危険性と抵抗して殺されるかもしれない危険性を天秤にかけての判断だね」
 言っていることは一理ある気がするが、マリアとしては不安で仕方ない。
「そんなの……でも、やっぱり、反撃する手段がなくなるとか納得できないし……」
「だから、君たちは僕のところに来たんだよ」
「え……?」「は……?」
 幸太郎は言葉に力を込めて言った。

「僕は君たちを守る。生命(いのち)に代えてもね。だから、二人は戦う必要なんてないんだ」

 時間が止まったかと思った。
 下手な冗談として笑い出すべきかもしれないが、マリアは律儀に反論する。
「……黒髪のアンタが? 魔術士でもないんだよね。何を無謀なこと言っているのさ」
「そもそも、お義兄さまはどうしてそんなことをしてくれるのです?」
「血が繋がらないとはいえ兄だから――じゃあ、二人とも納得できないよね」
 幸太郎が着ぐるみの頭部に手をかけ(ようやく脱ぐのか)とマリアは思った。
 幸太郎が頭を脱ぐと、本体があるべき場所に何もなかった。虚空だけがあった。
 中身は空っぽで、幸太郎の肉体はどこにも存在していなかった。
「はへ……?」「おや……?」
 さきほどから混乱しっぱなしだったが、これはとびっきりの飛び道具だった。マリアはあまりにも予想外すぎて笑いの発作がこみ上げてきたが、すぐに落ち着いて悲しくなる。
 幸太郎は頭部を戻してから言う。
「こういうわけ。現在の僕は魂をこの着ぐるみに転写してるんだ。確かに僕は黒髪だ。でも、二人も薄々気づいてるとは思うけど、ちょっと普通じゃない。そして、敵も僕みたいにちょっと普通じゃない可能性がある。状況としてはそんな感じ」
 魂の転写――またも超魔術である。敬心は生物・無生物拘わらず使役する術に長けているが、その関連魔術かもしれない。いや、とてもマリアは信じられない。

 もう、二人のキャパシティは決壊寸前だった。
 他に行くアテもないので、マリアたちは幸太郎と一緒に暮らすことを承諾するしかなかった。そもそも、最初から選択肢などなかったのだと思う。

     *

 幸太郎との話し合いが終わり、マリアは自室を片づけてからアリスの部屋の整理を手伝っていた。憎たらしいことにアリスの部屋の方が本棚は多い。よく調べてある。
 そして、本棚を整理しながら、彼女たちは静かに涙を流していた。
 今、二人の髪は灰色へと変化していた。
 早速魔力減衰薬を飲んで、その効果が現れたのだ。
 マリアは世界が色褪せる感覚というやつを生まれて初めて味わった。凡人たちが世界をどうやって見ているのか知り、今まで魔力がどれだけ身近にあったのかも理解できた。魔力の強さは認識力に依ると聞いたことがあるが、身を以てその正しさを知った。
 試しにマリアは魔術を使おうとしてみたが無理だった。
 そもそも、術式構築の時点で失敗だったのだから、この薬の効果は絶大であった。
 そして、灰色髪という情けない状態を鏡越しに確認してからずっと泣いていた。
 幸太郎に見られないよう隠れたが、気づかれている気がする。
 二人はお互いに言葉をかけることなく、黙々と整理していたが、ひと通り終わる。
 マリアは鼻声にならないよう気をつけながら、アリスに問いかける。
「……ねぇ、アリス。アイツのことどう思う?」
「……分からないよ。ただ、嘘はついてないと思う。でも、まだ信用はできないかな」
「同感。多分、アイツ、まだ何か隠しているもん」
 ボソボソとマリアたちが声を潜めているのは、幸太郎の魂という状態がどんなだか理解できなかったからだ。案外、簡単に幽体離脱して、今の二人も覗き見している可能性がある。そこまではしてないと願いたいが、とにかく、不気味だった。
 親戚たちに悪く言われていたのは、こういう得体の知れない部分のせいかもしれない。
 アリスは疲れたのだろう、重いため息をついてから言う。
「ねぇ、マリアちゃん、アタシ、一つ恐ろしいことを考えちゃった。
 この薬のせいで、お義父さまとお母さまは殺されたんじゃないかしら。魔力が制限されていたら、お義父さまたちでもどうしようもないもの」
「……実はボクも同じようなことを考えていた。じゃなきゃ、パパたちが殺されたなんて信じられないもんね」
 正確にはマリアは更に恐ろしい想像をしていた。
 義兄は夢野家から放逐されたことを恨んでいて、犯行に及んだ。
 実行犯は『平等教』に任せ、自分は魔薬を提供するだけの安全圏にいるから疑われない。
 そして、夢野家へ復讐するために人質として双子を引き取る。
 筋が通っている気がするその恐ろしい考えをマリアは振り払う。親戚の心象と状況から類推できるだけで、何の証拠もないのだ。疑い始めるとキリがない。
 彼女は自分に言い聞かせるようにしながら言う。
「とりあえず、今は雌伏の時だよ。いつか絶対にアイツの尻尾を掴んでやる」
「ええ、そうね。それまでは大人しく様子見が一番でしょうね」
 二人は同時に重いため息をついた。
 明日から新しい学校生活がもう始まる。それが憂鬱で仕方なかった。

     三

 マリアは想像を下回った事態に困惑していた。
 アリスは現状をキチンと認識して、静かに怒っていた。

 転校初日、二人は四時間目の数学の授業を大人しく受けていた。座席は最後尾で廊下側からマリア・アリスの順で並んでおり、小柄な彼女たちは黒板がやや見えにくい。
 しかし、そんなことは問題にならないほど授業内容が低レベルだった。
 一度、それぞれ教師に指名され答えを板書したが、一瞥だけで頭を使う必要さえなかった。文字式の計算など、彼女たちは天食学園の初等部三年には通り過ぎていたからだ。
 サイズの合っていない硬い椅子はちょっと身動ぎしただけでガタガタうるさい。
 全体的に酷使されている教室も、誰だか分からない相合傘が彫刻刀で刻まれた机も、教師ののんびりとした語り口さえもが彼女たちにとって不満の対象だった。
 田舎なので校庭だけは無駄に広いが、三学年合わせて百人に満たないこの中学の生徒数では宝の持ち腐れである。ただ、どうやら隣接している小学校の児童たちが休憩時間に遊び目的で使用しているらしい。キャイキャイという甲高い笑い声が、本日は比較的暖かいので開けられていた窓から飛び込んできた。
 ここは動物園なのかしら、がアリスの正直な感想だった。
 マリアは天食学園とのギャップに思考が停止していた。
 ありとあらゆる違いが、二人の精神を蝕んでいた。
 そして、五十分間の授業が終わり、昼休憩になった。

     *

 敬護屋(けいごや)中学校は田舎の小さな中学校である。彼女たちの住む家から徒歩十分ほどの距離にあり、整備された車道に沿っているので迷うことはなかった。
 三階建ての校舎が二つ並び、渡り廊下で繋がっているが、体育館には一度外履きへ替えなければ行けない。無駄に広い校庭は野球のグラウンドを二面取っても、まだ余った。
 授業は一日六時間の週休二日制。魔術理論や実践魔術などの専門科目は存在せず、国語数学理科社会外国語に音楽、家庭科、保健体育、美術の基礎教養しかなかった。
 放課後には部活動を推奨しており、全員入部が強制されている。双子はどこにするか悩んでいるが、選択肢はほとんどなかった。陸上部・野球部・バレー部・音楽部の四つしかないからだ。とりあえず、現在保留中。
 教師の数も少ない。正確な数を二人は知らないが、十人前後しかいない。当然のように非魔術士ばかりで、それは生徒も似たようなものだった。クラスに一人だけ赤髪がいたが、残りは全員黒・茶・灰しかいなかった。他の学年も似たようなものだろうが、現在の二人は灰色髪なので文句の言えた立場ではない。
 何から何まで、それまで通っていた天食学園とは違っていた。
 最城市にある天食学園は各地に七つある分校とは違う、いわゆる本校だ。分校に比べて規模が大きいし、講師や教師陣も優秀で有名な魔術士が多い。
 つまり、国内でも最優秀の才能ばかりが集められていた。
 保育部から大学部まで幅広い年代の児童生徒学生たちが、魔術士として大成するために切磋琢磨し合っている。一学年約一五〇名。つまり、大学部を除いた生徒だけでも二千人を超す巨大な学園だった(ちなみに、大学部は研究施設の意味合いが増え、規模も一気に拡大されるのでほぼ別組織だ)。大学部を除いても大規模魔術試技場など、施設や道具だってそれに相応しい最新のものが揃えられている。
 一日八時間授業で、週休一日。その一日も本当に休息として使うような人間はまずいない。魔術知識・魔力量から成績上位順にAからEの五つのクラス分けがされているので、競争意識が強いのだ。基礎教養の授業速度・内容・密度だって敬護屋中学の比ではない。部活動は肉体を鍛えるためや先輩後輩の関係を深めるためなど、いくつかの例外を除いてあくまでも趣味でしかなかった。実際、双子は無所属であった。
 生徒の魔力量の割合は百人ほどが赤黄から赤(魔力値約三万~七万)、四十人前後が赤紫から紫(魔力値約七万~十五万)。十人弱は青紫から青(魔力値約十五万~三十万)。マリアやアリスのような金・銀クラス(魔力値百万オーバー)は同学年でも彼女たち自身を含めて三人しかいなかった。他の学年も似たようなものである。
 わずか数時間で、今まで自分たちがどれだけ恵まれた環境下にあったか、マリアもアリスも痛感していた。人材・環境・才能全てが比較することさえおこがましい。
 そして、その感情は義兄への怒りに繋がった。
 帰ったら、絶対に罵詈雑言を浴びせてやると固く決意するほどだった。
 昼食時間になり、またそれまでとの違いを彼女たちは知る。
 弁当だったのだ。

 弁当を広げ始めたクラスメイトたちを見て、マリアとアリスは眉根にシワを寄せた。
「……弁当なんだ」
 マリアがポツリと独りごちたのは、学生食堂も寮食堂も外部参入のファーストフード店も、この学校にはないからだ。
 ちなみに、天食学園は中等部まで給食制だったので――余談だが、朝夕は『流星号』という食堂をよく利用していた――マリアたちは昼食を用意していない。
 幸太郎もそのことは失念していたのだが、二人ともそんなことは知らないので『帰ったらこのことでも文句を言ってやる』と心中の罵倒のバリエーションが増えていた。
 二人で困り果てていると、一人の少女が話しかけてきた。
「烏丸さん……だと、二人どっちか分からないか。アリスちゃん、マリアちゃん、もしかして、お弁当忘れたの?」
「う、うん。そうだよ。弁当持参だなんて聞いてなかったんだ」
「あー、もしかして、前の学校って給食だったの? 都会だね!」
 ケラケラと人懐っこく笑う少女はそのまま続ける。
「うちね、給食とかないんだ。弁当ない子は朝のうちにパン注文するの。注文票に記入してお金と一緒に係へ渡すシステムなんだよ。運が悪かったね。お腹空いたでしょ? お弁当すこし分けたげるから、こっちに来て一緒に食べよ」
 その屈託ない少女の様子にマリアは若干戸惑い、アリスは警戒する。
 だが、二人ともほぼ同時に、自分の髪色を思い出してその考えを打ち消した。
 これは打算ではない善意だ。
 彼女たちは恵まれた才能が故に、無条件の善意を信用しにくい。何か目的があって近づいてきたのではないか、と考えてしまうのだ。今までそういう人間を多く見てきた。
 だから、その後の展開も、瞠目すべきものだった。
「あ、トキちゃん、烏丸さんたちともう仲良くなったんだ」
「うん。でさ、二人、今日お弁当忘れたんだって。みんなも分けてあげてよっ」
 少女の一声で、ぞろぞろとクラスメイトたちが集まってきた。
 マリアとアリスはお弁当箱の蓋を手渡され、その上におにぎりやベーコンのアスパラ巻き、玉子焼きやプチトマトなどをそれぞれ載せられた。「あ、オレ、職員室から割り箸貰ってくるよ!」と走り出す男子生徒がいた。その背中に「わたしのお茶あげるから、紙コップも貰ってきてよ!」と叫ぶ女子生徒がいた。
 ワイワイがやがやと祭りのような騒ぎに発展し、二人は驚いて固まる。
 どうして、この人たちはこんなに良くしてくれるのだろう、とマリアは考えた。
 アリスは疑心暗鬼になり、目を左右に泳がせて震える。
 そして、最初に声をかけてきたトキちゃんが言う。
「ね、二人ともどこから来たんだっけ? いろいろお話しようよ!」

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