「宝島」嵐の船出(1)

 「よし、買おう!」蓮見清一(現・宝島社社長)は、部下である石井慎二(現・洋泉社社長)と、仕事場にしていた新小川町の雑居ビルの一階にある焼き鳥屋で飲みながら、そう一言叫んだ。いったい何を買うのか。それはオンナでも、クルマでも、土地でも、株でもなかった。「先鋭的なカルチャー雑誌」を謳いつつも、創刊後、わずか6号で休刊となったある雑誌の版権である。その雑誌の名を「宝島」という。1974年のことであった。

 宝島は1973年、「ワンダーランド」という誌名で創刊、巻頭に「キャロル特集」(※キャロルはボーカルに矢沢永吉を抱く、当時としてはまさに先鋭的なロック・バンドであった)を組むなど、ある種今でいうカルト的な記事を集めて作られた雑誌であった。売上の見通しなどあったものではない、ある種「めくら打ち」的な編集方針であり、そういう意味では創刊時から何号で休刊するかは時間の問題だったといえる。ちなみに当時の編集主幹にあたる人物としては高平哲郎(現演出家)がいた。そこへ来て初期「宝島」の命運に止めを刺したのが、あの石油ショックである。「トイレットペーパー騒動」が象徴するように、紙の値段の急騰が、当時の弱小雑誌をあっという間に踏み潰してしまった。

 「宝島」復刊当時の発行部数、実にたったの7000部。出版界の常識で考えれば、生まれては消え去る雑誌群の中の、単なる小さな一粒で終わる存在に過ぎなかった。振り返ってみても、当時このような出版界における有象無象の存在、いわば「底辺」に位置していた雑誌が、今では発行部数40万部を売り上げるという成り上がり振りを見せた例は、きっと古今未曾有のことであろう。しかも、ご存知の読者も多いことと思うが、音楽界の代表誌・ファッション界の代表誌・ヘアヌード界(?)の代表誌と、これほど劇的な変遷を遂げながら、その都度、数多くの読者から愛され、数多くの読者を裏切ってきた存在の雑誌もないだろう。

出版史に類を見ない「日本一の裏切り雑誌」。それは26年前、焼き鳥屋から生まれた

 そしてこの春、3月。勢いに乗じた宝島は、最近の不況続きの出版界にとっては稀なトピックである「週刊化」を、ついに果たすことになる。実に復刊以来26年という歳月を経ての週刊化。いったい、宝島がこれほどの成長を遂げた理由は何か?果たしてどのような経緯を辿ってきたのか?未だ出口の見えない低迷した日本社会、そして日本のサラリーマン諸氏に、参考になりそうでならない破天荒な「宝島」という雑誌の歴史を、これから一ヶ月の連載でじっくりと検証していこうと思う。乞う、ご期待である。(つづく)

文・前田知巳(コピーライター)


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