「宝島」嵐の船出(2)
さて1974年、蓮見清一(現・宝島社社長)が焼き鳥屋で一杯やりながら、「宝島」出版権の電撃買収を決めたその翌日。蓮見の命を受けた部下の石井慎二(現・洋泉社社長)は即座に当時「宝島」の発行元だった晶文社に高平哲郎を介して出向き、その場で版権譲渡の合意を取り付けてしまった。
先鋭的なサブカルチャー(音楽・文学や風俗などで、マイナーだが一部の人々から圧倒的な支持を集める文化)雑誌を謳いながら、創刊以来わずか6号で休刊になっていた「宝島」が、
ここに復活したのである。それまでもっぱら自治体向けのPR誌づくりを主力事業にしてきた蓮見にとっては、これが出版分野進出への礎となる第一歩であった。
ちなみにこの年といえば、世は石油ショックの嵐が吹き荒れ、またアメリカではニクソン、日本では田中角栄という巨頭が政界トップの座から降りた時期である。
編集部は、青山のカナダ大使館脇の二軒長屋みたいなボロ民家に置かれていたが、編集スタッフ陣は今から振り返っても実にそうそうたる面々である。
まさに花形文化人の代表格だった故・植草甚一を責任編集者に、片岡義男、津野海太郎、平野甲賀、
高平哲郎、北山耕平など、今ならきっと「出版界のドリームチーム」と言われるだろうビッグ・ネームが連なっていたのである。
「宝島」復刊イベントはあの矢沢永吉が
シャウトして大成功。しかしその影で…
同時に「宝島復刊イベント」も華々しく打ち上げられた。共立講堂において、当時人気絶頂だったロックバンド「キャロル」の単独コンサートを敢行。
言わずもがな、ボーカルはあの矢沢永吉である。大盛況を集めたことは言うまでもない。ちなみに、コンサートの舞台監督を務めたのは、当時まだ無名だった故・景山民夫であった。
ここで景山については、興味深い後日談がある。当時すでに「宝島」の主要編集メンバーとして活躍していた高平、そしてまだ無名も無名の根無し草であった景山は、
のちに売れっ子放送作家として共にしのぎを削ることになるのだが、先に名を上げた高平と下積み時代が長かった景山の間には、長い間深い確執が続いたという。
この復刊イベントがその確執の発火点であったかどうかは、もはや誰も知る由もないが。
それはさておき、押しも押されぬ豪華編集陣そして話題を集めた復刊イベント、こうして新生「宝島」はまさに順風満帆な船出を遂げるかに見えた。
しかし出版の女神は皮肉なもの、「宝島」は復刊早々、次々と大波を被ることになる。しかも沈没を引き起こしかねない原因は他でもない、
「宝島」の内部にあろうとは、その時誰も予測できなかった。(つづく)
文・前田知巳(コピーライター)
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