ニューウェーブの先駆的雑誌へ(9)

 「宝島」1987年6月号、「バンドやろうぜ!!」という特集のタイトルは、そのまま、インディーズに熱狂する若者たちへの強烈なメッセージになった。 そして「聴く、観るバンド・ブーム」から、「自分たちでやるバンド・ブーム」へのスイッチ役となった。 このブームは89年(平成元年)、「イカすバンド天国」(通称:イカ天)という深夜番組の登場で、社会現象となるまでにブレイクする。 「実は番組の企画段階から、本当にこんな番組が成立するかどうかから含め、テレビ側スタッフからいろいろ相談を受けていました。 番組が始まってからは、僕も電話審査委員の一人でしたよ」と語るのは、当時「宝島」編集部のキーマン(後に編集長)だった新井浩志である。

 「イカ天」は、ロック、パンク、ポップスなどジャンルに関係なく、全国からインディーズ・バンドを募集し、 見事数週勝ち抜けばメジャー・デビューが待っているという番組だった。 今思えばそれは、既に「宝島」では盛り上がり切った感のあるインディーズ・ブームを、テレビでメジャー化させることで一気に消費し尽くすという皮肉な構造だったといえよう。

 こんな話もあった。当時すごい人気を誇っていたジュン・スカイウォーカーズというバンド。 彼らがまったくの無名の頃から、オリコン・ロングセラーチャートの常連にまで育てたのは宝島系の「キャプテン・レーベル」だった。 しかし人気が爆発し、いざメジャー・デビューとなると、彼らは大手のレコード会社にさらわれて行った。 悲しいかな、圧倒的な資金力の前に、「キャプテン」はなす術もなかった。

バブルと共に走り去った「イカ天バンド」ブーム。賛否両論、宝島の劇的な裏切りがいよいよ始まる…

 数多くのインディーズ・バンドを有名にし、音楽業界に旋風を起こした「キャプテン」は、その後、92年にそのマストを降ろす。 しかしこのバンド・ブームにより、「宝島」への広告出稿量はうなぎ登りの激増を示した。90年1月号では何と306ページ中190ページが広告であった。 この過剰ともいえる広告出稿を機に、「宝島」は90年3月より月2回発行へと踏み切る。 しかし内情は、過熱ぎみのバンド・ブームに対する危機感打破の意味合いが強かった。 実際、「バンドだバンドだ!」と世間では騒がれながら、当の仕掛け人である「宝島」の売り上げには、早くも陰りが見え始めていたのだ。 急激に持ち上げられたブームほど、消費されるのも早い。「宝島」のその読みは、良くも悪くも的中した。 まさにバブルの崩壊と足並みを揃えるかのように、「いか天」に象徴されたバンド・ブームは一気に縮小へと向かった。 停滞しかかった時にこそ次の手を打つのが「宝島」の真骨頂である。しかしこれよ り後、92年にこの雑誌が出した一手は、あまりにも衝撃的なものであった。(つづく)

文・前田知巳(コピーライター)


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