ヘアヌード維新(1)
「あれだけ時代と密着した雑誌っていうのは、変化する時代と共に心中していくのが普通なんですけどね」と語るのは、「宝島」に詳しい、法政大学教授の稲増達夫氏である。
確かに、70年代から80年代にかけての「宝島」の変貌には、旧時代とあっさり別離し、さっさと新時代に乗り換えるしたたかさがあった。
ヒッピー文化を色濃く反映したカルト的なサブカルチャー誌から、ロック、パンク、ファッションなど様々なニューウェーブの最先端を提供するポップ・カルチャー誌への転向。
80年代を通して、「宝島」は男女問わず多くの若者から支持を集める一大メジャー誌へと成長した。
そして1992年11月9日号。「宝島」はヘアヌードを掲載。あまりにも突然、かつ日本の雑誌史上初めてのことである。
この唐突な事態に、女性が半分以上を占めていた当時の読者は大混乱に陥った。
それ以上に、「宝島」に関わっていたライター、アーティスト、その他もろもろの業界関係者は、後頭部をバットで叩かれたような衝撃を受けた。
80年代への節目に発揮された「日本一の裏切り雑誌」としての遺伝子は、やはり生きていた。
しかし当の作り手たちにとって、この「暴挙」はある種、必然的な成り行きだったのかもしれない。
まず、バブルの崩壊と合わせるように、あれだけ盛り上がっていたバンド・ブームがあっさりと終焉を迎えた。
それどころか、「宝島」をニューウェーブ音楽誌として支持していた読者は、本誌からのれん分けした月刊誌「バンドやろうぜ!!」に流れていた。
もう一方の屋台骨であったストリートファッション誌としての側面でも、やはり「宝島」から独立した女性ファッション誌「CUTiE」が読者を次々に吸収していた。
本家「宝島」は、行き場を失い、やせ細るばかりだったのである。
「停滞しかかったらすぐに次の手を打つ」。社長である蓮見清一の変化至上主義が、この状況に沈黙しているわけがなかった。
天下の朝日もNHKも動かす「マン州事変」発生!?1992年、雑誌史上初のヘアヌードが掲載された
「それまでの『宝島』は、いくらポップ・カルチャー誌としてメジャーになったとはいえ、所詮は特定の少数読者のオタク的ブームに乗っかり、
ブームの浮き沈みに一喜一憂するしかなかったのです。これからは不特定多数読者を見据え、確固たるマーケティング戦略に基づいた大衆路線への転換を図るべきだと。
それには編集体質自体の根本的な改革が必要でした」蓮見は当時をそう振り返る。
雑誌初のヘアヌード掲載は、その「マーケティングに根ざした大衆化」へと突入する先制ミサイル役を意味していたのである。
前例がないだけに、掲載は逮捕覚悟でのことだった。この大事件は即座に朝日新聞の「青鉛筆」に採り上げられ、
NHKニュースをはじめ各マスコミからも問い合わせが殺到することになる。(つづく)
文・前田知巳(コピーライター)
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