ヘアヌード維新(2)

 1992年秋、「宝島」は日本の雑誌史上初めて、ヘアヌードの掲載へと踏み切った。 それまでこの雑誌は、ニューウェーブ音楽やストリート・ファッションの信者に、ポップ・カルチャーメディアの代表として支持されていたのだから、 当時の読者の混乱振りは想像がつくというものである。

 当時の背景として、篠山紀信撮影・樋口可南子のヘアヌード写真集「ウォーターフルーツ」が大きな反響を呼んでいたし、さらにそれを遡ぼること84年から、 宝島社自ら、かの世界的写真家ロバート・メープルソープによるヘアヌード写真集「Ladyリサ・ライオン」を発売し、話題を集めた。 限られた数のとっぽい若者たちから、より不特定多数読者への拡大を図っていた「宝島」にとって、ヘアヌード掲載は確信犯的な仕業であったといえる。 それゆえに、行き場を失ったそれまでの愛読者からの反発には物凄いものがあった。 「じゃあ私たちは、一体これから何を読めばいいの?」そういう人々を指して、「宝島難民」という言葉が生まれたほどである。

 ヘア路線に反発したのは読者だけではない。それまでのポップ・カルチャー路線を支えてきた編集スタッフも、女性を中心に次々と「宝島」を去った。 それどころか、スコラやドリブなど、ヌードを目玉にしていた他の男性誌からさえ「ヘアなんか掲載して大丈夫なの?」という冷たい視線を浴びる始末だった。 いくら確信犯的にヘアヌード掲載に踏み切ったとはいえ、そういう四面楚歌な状況の中、編集部が戸惑わないわけがなかった。 一歩間違えば、「宝島」はそのまま、どっちつかずの迷走状態に陥っていたかもしれない。しかしそこに、絶妙のアドバイスを与える一人の人物が現れた。 当時から「ねるとん紅鯨団」や「元気が出るテレビ」などヒット番組を手掛けていたTVディレクター・テリー伊藤である。

突然のヘアヌード掲載に、読者は猛反発。四面楚歌の編集部にテリー伊藤が放った一言とは…

 「その頃、たまたまテリーさんに、宝島は『ヤングアサ芸(アサヒ芸能)』にすべきだ、って言われて、目からウロコだったんですよね」と語るのは、現・宝島社取締役の関川誠である。 テリー伊藤本人も、当時を振り返って次のように語っている。
「たぶんその頃はね、もはや『先端情報を手にしたヤツがカッコイイ』って基準が、ズレてきてた時代ですよ。 そういうええカッコしいの方がカッコ悪い、みたいなね。それよりも『見たいもん見て何が悪い!』って本能に正直な方が、よっぽどピンと来てた。 まさに『アサヒ芸能』のノリだよね」。
まさにこの一言で、関川は「宝島」が切った舵取りの方向は間違いないはずだと確信した。 また時を同じくして、特集した「テレクラ情報」がヒット記事になった(これがテレクラブームの始まりである)。 これより宝島は「風俗の水平線」を目指して本格的に乗り出していく。(つづく)

文・前田知巳(コピーライター)


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