ヘアヌード維新(3)
「1980年当時のニューウェーブ路線への転向期と同様、やはり92年以降のエロ化がきっかけで、愛読者層はほぼ100%変わっているはずです」。
前出の法政大学・稲増龍夫教授がそう語るとおり、日本雑誌界初のヘアヌード掲載に対して、それまでのポップ・カルチャー路線を支持した読者からは猛反発を浴びた。
「宝島」内部のスタッフも次々と離脱した。それら非常事態になるのは半ば覚悟の上だったとしても、編集部が大混乱に陥らないはずはなかった。
しかし逆の見地から言えば、「宝島」が目指す新路線の性格を、まだ見ぬ新たな読者たちにアピールするためには、
「ヘアヌード」ほど強烈でしかもわかりやすい信号はなかったであろう。
その証拠に、その後特集された「テレクラ情報」は早くも大きな反響を巻き起こした。
実はテレクラ自体は、それまでにもごく一部の人々が愛好するアングラ的な趣味として存在していた。
90年代、性別・年齢を問わず日本中に広がったテレクラブームは、まさにこの時の掲載がスイッチになったといえる。
TVディレクター・テリー伊藤による「今、ヤング版の『アサ芸(アサヒ芸能)』みたいな雑誌があったら絶対に当たる!」という助言とも重なって、
93年春ごろから、「宝島」は本格的な「革新的エロ路線」を爆進しはじめる。
「初めてヘアを載せた時には『あの宝島がヌードなんて』と冷笑した大手出版社の週刊誌まで、気付いてみたら臆面もなくヘアヌード花盛りになっていました」
宝島社社長・蓮見清一はそう語っているが、「宝島」の路線が意外や莫大なマーケットを触発しつつあることを、他誌も目敏く嗅ぎ取ったのであろう。
テレクラ、ブルセラ、イメクラ…「革新的エロ路線」を爆走する宝島。だがそこに避けられない横波が…
しかし、自らの歩む方向性を確信した時の「宝島」ほど怖いものはない。
テレクラ再生の次はブルセラ、さらにはイメクラと(このふたつは、もはやゲンダイの読者諸氏に解説の必要はありますまい)、
風俗の新たなる可能性を次々と提示し、メジャー化させていった。
「宝島社社員へのサービスは倍、濃くせよ」と言ってもいいほど、結果として風俗業界にも多大な貢献を果たしたのは間違いない。
かくも戦闘モードに入った「宝島」を指して、自ら数々のヒット雑誌を放っている渋谷陽一(ロッキング・オン代表)は次のように語っている。
「何ていうかもう、ヤケクソな思想ありきだよね。いや、思想っていうより、エネルギー前提とでもいうか。
とにかく既成のシステムに対して、いつもケンカ状態。その必要以上のエネルギーには感心します」。
1994年、ついに発行部数は20万部を突破。エロの海原をひたすら突き進む「宝島」だったが、
しかしそこへ来て、編集陣の頭の隅にずっと居座っていた心配事が現実になる。「ヘアの巨匠」カメラマン・加納典明の逮捕劇である。(つづく)
文・前田知巳(コピーライター)
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