北宇治吹部だより北宇治吹部だより

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2014.10.18第1回 北宇治高校吹奏楽部の日常

ユーフォニューム(Euphonium)
金管楽器の一種。ピストン・バルブの装備された変ロ調のチューバを指す。
低音部が広く、しかもやわらかい音を出すため愛用される。     ブリタニカ国際大百科事典

 電子辞書を指先で弄びながら、久美子は液晶画面を覗き込んだ。その足元には先端を床に突き立てるようにして、金色の管楽器が置かれている。通称ユーフォと呼ばれるこの金管楽器のフルネームは、ユーフォニアムだったりユーフォニウムだったりと様々な説がある。果たしてどちらが正しいのだろう。そうふと疑問に思って辞書を引けば、なんとユーフォニュームと書かれている。まさかの第三候補の登場に、久美子は思わず溜息を吐いた。一体どれが正解なのだろう。
「休憩時間やのになんで辞書なんていじくってんの?」
 不意に視界に陰が広がる。振り返ると、葉月が少し呆れたようにこちらを覗き込んでいた。久美子は音もなく辞書を閉じると、向き合うように彼女の方へと身体を向ける。セーラー服のスカートから覗く膝小僧が、柔らかに葉月の脚とぶつかった。
「いや、ユーフォの正式名称が気になって」
「あー、例のUFOな。はいはい」
「だから、UFOじゃなくてユーフォだってば」
 そんな言葉を返しながら、久美子は葉月の手に支えられたチューバを一瞥する。久美子の担当しているユーフォニアムをそのまま拡大したかのようなこの楽器は、金管楽器最大のサイズを誇る。かなりの肺活量を要する楽器のため、初心者である葉月にはなかなかに難しいかもしれない。そんなことを考えながら、久美子は窓の外へと視線を遣った。

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 久美子が進学した京都府立北宇治高校は、かつては吹奏楽部の強豪校だった。関西大会の常連校で、全国大会にだって出場したことがある。しかし当時の顧問が別の学校に移ったことで吹奏楽部は一気に弱体化し、ここ十年の間は大した結果を残せていなかった。
 中学時代から吹奏楽部に入っていた久美子であるが、別に吹奏楽部をやるためにこの高校に進学したというわけではない。そもそも、久美子はこの学校が昔は強豪校であったことなどこれっぽっちも知らなかった。高校生になったら他の部に入って、新しいことを始めてもいいかもしれない。そんな風にも考えていたのだが、同じクラスになった葉月達の勢いに押され、いつの間にか再び吹奏楽部に入ることになっていたのだ。
「わー、なんか面白そうな話してる! 緑も入れてー!」
 随分とけたたましい声で会話に乱入してきたのは、くるんと跳ねる猫っ毛が愛らしい緑輝だった。ちなみに、緑輝と書いてサファイアと読む。彼女は自分の名前が嫌いらしく、他人に自身のことを緑と呼ばせている。超強豪校である聖女中等学園出身の彼女の担当楽器は、バイオリンを何倍にも大きくしたような弦楽器、コントラバスである。
「別に面白くはないけどね?」
 久美子が曖昧な微笑を浮かべると、緑輝はコントラバスの弓を片手に、拗ねるように唇を尖らせた。
「せっかくのパート練習やのに、今日は先輩達がいはらんくて退屈やねんもん。休憩時間ぐらい一緒に喋ろうよー」
「先輩らは何か会議やってはるらしいしなー」
 緑輝の言葉に同意を示すように、葉月は何度か首を縦に振った。
 パート練習とはその名の通り、少人数のパートに分かれて練習することを指す。トランペット、サックス、フルート……など、基本的には担当している楽器ごとにパート分けされるのだが、チューバ・ユーフォ・コントラバスはそれぞれ楽器が異なっているものの、人数が少ないせいか低音パートという一つのパートとして扱われている。
「それにしても葉月ちゃん! 吹き始めてもう三日ぐらい経つけど、楽器には慣れた?」
「いやあ、それがなかなか難しいな。まずうまいこと出したい音を出せへんし」
 緑輝の問いに、葉月が少し照れたように返答する。うっすらと日に焼けた彼女の肌が、仄かに朱に染まるのが見えた。久美子は床に置かれたチューバへと、視線を投げ掛ける。学校の所持品であるチューバはなかなかに年季を感じさせる見た目をしていた。その表面には、いくつもの軽い凹みが残っている。
「最初は難しいもん、仕方ないんちゃうかなあ」
 そう言って、緑輝はにっこりと笑って見せる。しかしその答えが葉月は気に入らなかったらしい。彼女の眉間に僅かに皺が寄る。
「でもさ、久美子とかめっちゃ簡単そうに吹くやんか」
「慣れだよ慣れ。葉月も来週辺りにはスラスラ吹けるようになってるんじゃない?」
「えー、ほんまかなあ」
 葉月が胡散臭そうにこちらを見た。その指が、銀色のマウスピースを静かに引き抜く。
「大体さあ、なんやコイツ。ラッパって普通息吹き込んだら音出るもんちゃうん? リコーダーみたいにさあ」
「確かに、緑も金管はさっぱり吹けへんなあ。あのブルブルが難しいねんなあ」
「緑も難しいと思うやろ? やっぱさ、そもそもが難しすぎんのよ」
 うんうんと頷き合う二人に、久美子は思わず苦笑する。
「金管は唇の振動を通じて音を出すから、リコーダーとは全然勝手が違うんだよね。慣れないと音出ないし、私も最初は音出なかったよ」
「ほんま?」
「ほんとほんと」
 そう久美子が言葉を発した直後、スライド式の扉が勢いよく開かれた。バシン、と騒々しい音が響く。三人の視線が一気に音の方向へと注がれた。
「どうやらお悩みのようですね!」
 そう颯爽と登場したのは、我が低音パートのパートリーダーである田中あすかだった。長い黒髪が動きに合わせてさらりと揺れる。赤フレームの眼鏡を指先でクイと持ち上げ、彼女はどこか得意げな顔つきでこちらへと歩み寄ってきた。
「一年生諸君、もし悩みがあればこの田中あすかがなんでも教えてあげましょう!」
 そう誇らしげに宣言し、彼女はずいっと顔を近付けた。その距離の近さに、頬が自然と蒸気する。長い睫毛に縁どられた夜色の瞳。滑らかな白い肌に、艶めいた唇。レンズ越しにでも、溢れんばかりの彼女の美貌は確かに伝わってくる。
 あすかの薄桃色の唇が、大きく動いた。
「もしも聞きたいことがないというならば、これからユーフォニアムの楽器の成り立ちを講演してもいいですけど! 二時間くらい!」
 その言葉に、久美子達は一斉に首を横に振った。吹奏楽オタクのあすかは話し出すと止まらないのだ。
「あー……、二時間はいいです」
 葉月がややげんなりした顔で応える。その隣で、緑輝が無邪気に告げた。
「先輩、久美子ちゃんが聞きたいことがあるみたいです」
「えっ、私?」
 突然の指名に、久美子は思わず飛び上がった。緑輝があすかには見えないよう、人差し指をこっそりと電子辞書へと向ける。そこでようやく彼女の意図を掴み、久美子はあすかが口を開く前に慌てて言葉を発した。
「あの、くだらないことなんですけど、さっきユーフォの正式名称ってユーフォニアムなのか、ユーフォニュームなのか、それともユーフォニウムなのかどれなんだろうって話をしてて……」
「そんなん発音の問題なんやからなんでもいい! 重要なのはその名前の意味!」
「は、はあ。意味ですか?」
「そう。楽器にはきちんと名前の由来ってもんがあるわけよ。例えばこのユーフォ、」
 あすかはそこで床に置きっぱなしの楽器を指差した。金色の表面に、彼女の顔が映し出される。
「もともとこの楽器の名前の由来はギリシア語のeuphonos、『いい響き』に由来してるって言われてる。その名前の通り、めっちゃ深い響きやろ? もう聞けば聞くほどユーフォ最高って感じちゃう?」
「確かにユーフォってすっごい音が響きますもんね」
 感心しているのか、緑輝が素直に頷いている。その隣で、葉月が不思議そうに首を捻った。
「ユーフォがいい響きって意味だったら、チューバはどういう意味があるんです?」
「ん? あれはラテン語で『管』って意味」
「くだ?」
「えっ、そのまんますぎません?」
 緑輝と葉月が思い思いの言葉を口にする。あすかがその口端を釣り上げた。
「そもそも『チューバ』って言葉が今のチューバのことを指すようになったのは最近やからね。古代ギリシャ・ローマの時代やと青銅製の管楽器の名前としても用いられてたし、その後は『ラッパ』全般を指す言葉として使われるようになった。発明者のモーリツは、ラッパの低音楽器だという意味で 『バス・チューバ』と命名したってわけよ」
「ひえー、先輩詳しいですね」
 葉月の台詞に気を良くしたのか、あすかがその目を弧に細める。
「もっと詳しく聞きたいなら語ってあげるけど?」
「あ、それは結構です」
「うわー、葉月ちゃん真顔だー」
 緑輝が茶化すように言う。久美子は時計をちらりと一瞥すると、それから小さく首を捻った。
「というか、先輩なんでこんなところにいるんですか? 今って会議の時間じゃ」
 その問いに、あすかは軽く肩を竦めて見せた。胸元の白いリボンがちらりと揺れる。
「初心者の一年生がいるパートは三年が教えることになってな。葉月ちゃんまだまだ吹けへんやろうし、ちょびっと手助けに来たってわけ」
 というわけで、と彼女は言葉を続けた。
「休憩時間もそろそろ終わりやし、これから基礎練習に入ります。解説多めになるから経験者の緑ちゃんと久美子ちゃんは退屈に感じるかもしれんけど、まあしっかりやってな」
「はい」
「それじゃ、楽器構えて」
 あすかの指示に、三人はあわてて動き出す。久美子は立て掛けてあったユーフォニアムを膝に乗せると、それからマウスピースを通じて管の中に息を吹き込んだ。ピストンに指を乗せ、軽く動かしてみる。
「まずはロングトーンをやります。楽譜通り一音ずつあげていってや」
 そう言って、あすかが拍子に合わせて手を叩き始める。白い手のひらが打ち合う度に、パチパチと乾いた音が響く。
「一、二、三、四、」
 久美子は大きく息を吸い込むと、楽器へ鋭く吹き込んだ。マウスピースに唇を触れさせたまま、細かに振動させる。低音が管を通じてベルから吐き出される。それを八拍ずつ伸ばし、次の音へと移していく。音は徐々に高いものへと変化していき、あまりにも高音になると上手く音を出すことすら出来ない。限界の音域に達すると、再び音を下げていく。
 初心者である葉月は何度か音を外していた。金管楽器はピストンを押すだけでは狙った音は出ない。三本しかないピストンで全ての音階を区別するのが不可能だからだ。そのため、同じ指のまま唇の形や息の吹き込み方で違う音を出さなければならなくなる。言葉で聞くだけでは簡単に聞こえるのだが、実際にやってみるとこれがなかなか難しいのである。
「先輩―、高いドが何度やってもソになります」
「それは腹筋で支えきれてないからやと思うよ。音伸ばしてみ」
 その指示に従い、葉月は素直に音を発する。端々が掠れかかっているのは彼女がまだ不慣れだからだろう。指導を受ける様子を見守りながら、久美子はそっと目を伏せる。自分が始めて楽器を始めたときも同じようなものだった。思ったとおりに吹けなくて、不機嫌になったことを覚えている。だけどいつの間にか吹けるのが当たり前になっていて、あの時に感じたもどかしさや焦りは随分と遠いものになってしまった。
 チューバから吐き出される音が、徐々に安定したものへと変化していく。どっしりとした低音が教室の机をビリビリと震わせた。待っているだけでは退屈なので、久美子は脳内でB♭の音を思い描いてみる。一番美しい音。理想的な音はどれか。それに自分の音が少しでも近づくよう、意識しながら吹いてみる。そうするとただ音を伸ばすだけのロングトーンも、なかなかに楽しくなってくる。
「オッケー。じゃあ葉月ちゃんも慣れてきたみたいやし、簡単な曲吹いてみようか。『きらきら星』やろう」
 そう言ってあすかがコツンと机を叩く。葉月は目を見開き、それから頬をうっすらと赤らめた。その指先が楽譜ファイルをいそいそと捲り、基礎練習用のページを開く。
「うち、曲吹くの初めてです」
「ずっと音出すのに四苦八苦してたもんね」
 緑輝がニコニコと葉月に笑いかけた。久美子は自身の手元にあるファイルへと視線を落としてみる。シンプルなこの楽譜は、北宇治高校で代々基礎練習に使われているものだ。難易度がかなり低いため、演奏に慣れてくると物足りなさを感じる。
「じゃ、三人で合わせんで」
 そう言って、あすかの手が再び拍子を刻み始める。彼女の声に合わせ、久美子達は演奏を始めた。チューバ、ユーフォ、コントラバス。三つの音が重なったり離れたりを繰り返す。あまりの退屈さに欠伸が出そうだけれども、久美子は楽譜を視線で追う。ゆったりとしたテンポでメロディーが進み、そしてあっという間に終わりを迎える。基礎練習用だけあって、短めに作られているのだ。
「おおー、みんなで吹くのってめっちゃ楽しいね」
 吹き終えてから、葉月がやや興奮した様子で言った。その瞳は興奮した様子でキラキラと輝いている。
「よかったね、葉月ちゃん」
 緑輝が弓を持ったままパチパチと手を打ち鳴らした。小柄な彼女の手は久美子のそれよりずっと華奢な造りをしている。久美子はそっと息を吐き出すと、葉月から思わず視線を逸した。
 初めての合奏は、確か自分もあんな風に感じていたような気がする。小学生の時は吹いているだけで楽しくて。みんなで一つの音楽を作る、それだけで満足出来ていた。だけど中学生になって、吹奏楽が楽しいだけのものではないことを知った。

 アンタは悔しくないわけ?

 脳内で、あの日の友人の台詞が蘇る。高坂麗奈。彼女のあの眩いほどの真っ直ぐな視線が、久美子の心臓を何度も貫く。瞼の裏に浮かぶ記憶。中学校生活最後のコンクール。懐かしい学校名の横に刻まれた、『金賞』の二文字。
 吹奏楽コンクールに詳しくない人には、金賞という言葉がなんとも素晴らしいものに思えるかもしれない。銀賞銅賞ですら立派なものに聞こえるだろう。しかし、吹奏楽部員達にとっては、それらの言葉が持つ意味は全く異なっている。
 吹奏楽コンクールでは、それぞれの大会ですべての学校が金、銀、銅の三つに分けられる。次の大会に進めるのは金賞を取った学校の内の、そのまたひと握りの学校だけしかない。次の大会へと進めないただの金賞は、ダメ金と呼ばれる。久美子達が通う中学も全国大会進出を目標に掲げながら、結局ダメ金止まりだった。
 あの時、久美子はほっとした。金賞を取れたならまあいいか。そんなことを考えた。それを見透かしたような麗奈の台詞に、久美子はギクリとさせられたのだ。まるで詰られているように感じて、何だかひどく息苦しく思ったのを今でもはっきりと覚えている。
「でも、久美子みたいにスラスラーっていろんな曲吹けたら、めっちゃ楽しいんやろうな」
 突如出された自身の名に、久美子はハッとして我に返った。見遣ると、葉月が羨ましげな顔をしてこちらを見ている。うん、楽しいよ。そう言い掛けて、久美子はしかし口を閉じた。何故だか声が喉に詰まった。
 あすかが唇を弧に歪める。
「そのためにはいっぱい練習せんとね、夏にはコンクールもあるし」
「おお! コンクールですか」
「緑、全国行けるよう頑張ります!」
 緑輝がそう言って天に腕を突き上げる。その小動物のようなくりくりとした瞳がこちらへと向けられた。視線と視線が交わる。一瞬、久美子は息を呑んだ。こちらの心情を汲み取ったのか、緑輝はニッと白い歯を覗かせると、久美子の方へと手をぶんぶんと振ってみせた。
「久美子ちゃんも頑張ろうね。どうせやるなら本気でやりたいし」
「あ、うん」
 彼女の勢いに圧されたように、久美子は思わず首を縦に振る。脳裏で麗奈の姿が一瞬だけちらついた。それを掻き消すように、久美子ははっきりと言葉を紡ぐ。
「私も、頑張りたいとは思ってるよ」
 その台詞に、あすかが満足げな笑みを浮かべる。長い睫毛がレンズ越しに大きく上下したのが見えた。その腕の中にあるユーフォニアムが、蛍光灯の光を浴びて無邪気に輝いている。
「今年のコンクールはどうなるか楽しみやね」
 彼女の言葉に、久美子は思わず自身のユーフォニアムを抱き締めた。期待と不安を綯交ぜにしたような感情が、胸の奥でぐるぐると渦を巻いている。それを誤魔化すように、久美子は大きく息を吸い込んだ。
 不安がっていても仕方ない。高校生活は、まだ始まったばかりなのだから。
「先輩! もう一回きらきら星吹きたいです!」
 久美子の正面に座っていた葉月が、勢いよく手を上げる。それに釣られるように、久美子もまた手を上げた。
「わ、私も吹きたいです」
「緑も吹きたーい」
 あすかは一年生の顔をぐるりと見回すと、それから仰々しく腕を組んで見せた。その口端がニヤリと持ち上がる。
「その意気や良し。それじゃ、もう一回やってみよな」
「はい!」
 久美子は慌てて楽器を構える。金色のユーフォニアムに、自身の顔が映りこんだ。それが何故だかくすぐったくて、久美子はマウスピースへと唇を押し付ける。ベルは一度大きく震え、それから柔らかな音を紡ぎ出した。

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2014.10.31第2回「科学準備室の京子さん」

「なあなあ知ってる? 科学準備室の京子さんの話」
 昼食中。母の作った弁当の中身を久美子が箸でつついていると、緑輝は嬉々としてそんなことを語りだした。その隣では葉月が売店で買った焼きそばパンを頬張っている。
「京子さん?」
「そ! 京子さん!」
 久美子の問いに、緑輝がぶんぶんと首を縦に振る。動きに合わせて柔らかな髪が上下に震えた。陽に透けて明るく輝くそれを一瞥し、久美子は首を傾げた。
「誰それ? 葉月知ってる?」
「知らんなあ、有名人?」
 葉月の質問に、緑輝が首を捻りながら応える。
「有名人っていうか……お化け?」
「はあ?」
 突拍子もないその台詞に、葉月が胡乱げな視線を送る。彼女の内心を察したのか、葉月が口を開く前に緑輝は勢いよく捲し立てた。
「緑だってほんまには信じてないよ? でも、みんな見たって言ってるんやもん。もしかしたらほんまに京子さんはいるかもしれんやん」
「いやいや、いるかいないか以前にそもそもその京子さんとやらが何者か知らんから」
「どういう噂話なの?」

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 時計に視線を送りながら、久美子は尋ねる。昼休み終了まであと残り十五分もある。どうせやることもないのだから、他愛ない噂話に付き合うのもいいだろう。
 興味を持たれたことが嬉しかったのか、緑輝がその口元を綻ばせた。
「これはね、サックスの先輩が言ってはった話やねんけどね。夜に先輩の友達が北校舎を歩いていたら、なんか青白い光がぼわーって見えたんやって。ほんで、その光が気になってそっちに向かって行ったら、なんと科学準備室から変な光が漏れてるの! それでドアの隙間からそろーって教室を覗き込んだら、いきなり髪の長い女の子がこっちを見下ろして、『次はお前だー!』って、いきなり叫んできたんだって」
「へえー、それでどうなったん?」
 葉月の問いに、緑輝がキョトンとした顔をする。
「え? これで終わりやけど」
「ええ? その先輩はそっからどうしはったんさ」
「なんか怖くなってそのまま走って逃げたんやって。緑もただの噂だと思ったんやけど、目撃してる人が結構いるみたい」
「その叫んだ女の人が京子さん?」
「そう。胸元に名札つけてたらしいよ」
「名札って……」
 葉月が呆れたように頬を掻いた。本来北宇治高校の校則では、プラスチック製の名札を胸元に付けることになっている。しかしそのデザインがあまりにもダサいため、実際につけている生徒はほとんどいない。
「なんでまたお化けが几帳面に名札つけてんの」
「きっと生前は真面目な生徒やったんやろうね、若いのに死んじゃって可哀想」
「いやいや、まだお化けって確定してないから」
 大体、久美子はお化けなどという非科学的な存在は信じないことにしている。というか、信じたくない。小学生の時に井戸からお化けが出てくる映画を見て以降、久美子はホラーの類が苦手なのだった。怖いテレビ番組を見てしまった日などは、背後に気配を感じる気がしてなかなかシャワーを浴びられない。
「でもでも、そんな時間に学校いるって不思議でしょ? お化けやなかったら何者なんかなー」
「うーん、学校に紛れ込んだ不審者とか」
「そっちのほうがお化けの百倍怖いわ」
 久美子の推理に、葉月が呆れた様子で言う。緑輝は腕を組みながらうんうんと唸っていたが、何かを閃いたように突然その手をポンと打ち鳴らした。
「ねえねえ、せっかくやし京子さんについて調査してみようよ」
「調査?」
 葉月は怪訝そうに緑輝の方を見る。また妙なことを言い出したわ、とでも考えているのだろう。自身の考えに興奮しているのか、緑輝の瞳が大きく見開かれる。
「そう! 自主練習って確か夜までOKやったよね。何時ぐらいまでセーフなんやったっけ?」
「確か今の時期は特例で八時までは良かった気がする」
本来ならば規定の部活動の終了時間を守らなければならないのだが、吹奏楽部はサンフェスの本番が近いために特別に夜までの自主練習が許可されていた。
 久美子の言葉に、緑輝が笑みを深める。
「よーし! 今日の夜、みんなでその科学準備室に行ってみいひん?」
「えー、めんどくさ」
 いつもならこういうイベントに乗り気なはずの葉月が、今日は珍しく消極的だった。緑輝が首を傾げる。
「もしかして、葉月ちゃんお化け怖いの?」
 図星だったのか、葉月の顔が一瞬にして朱に染まる。
「こ、怖ないわ! あほなこと言わんといて」
「じゃあ決まりね。久美子ちゃんも来てくれるやんな?」
 そう言ってにっこりと笑顔を見せられては、断れるはずもない。久美子は緑輝のこの顔に弱いのだ。
「う、うん。分かった」
「やったー! それじゃ、今日決行やからね!」
 緑輝が勢いよく両手を振り上げた時、ちょうど昼休みを終えるチャイムが鳴った。葉月が慌てて手に残っていた焼きそばパンの残りを口に放り込んでいる。それを横目で見ながら、久美子は思った。これは随分とやっかいなことになってしまったな、と。

 放課後の部活の活動時間が終わり、校舎はしんと静まり返っていた。教師たちもとっくに帰っており、灯りが点いているのは吹奏楽部の部室である音楽室ぐらいだろうか。
 八時近くになるとさすがに残っている部員はほとんどおらず、音楽室はひっそりとしていた。授業形態へと戻された教室の、その一番奥の席に座り、久美子はユーフォニアムに息を吹き込んだ。
「うーん、やっぱり夜になると人がいないねえ」
 コントラバスの弦を指で弾きながら、緑輝がこちらへと話し掛けてきた。外は既に暗く、どこからか虫の鳴き声が聞こえてくる。窓の隙間から吹き込む生ぬるい風が、カーテンを不気味に揺らしていった。
「ほんまに行くつもりなん?」
 露骨に嫌そうな顔をして、葉月が尋ねる。その腕に抱えられたチューバには、大きく伸びた彼女の姿がくっきりと映し出されていた。緑輝がにこにこと笑顔をまき散らしながら、大きく首を縦に振る。
「ここまで来たら行くに決まってるやん。ね、久美子ちゃん」
「う、うん」
 同意を求められ、久美子は思わず頷いてしまった。葉月が恨みがましい目でこちらを見てくる。久美子は楽器を床に立て掛けると、葉月の肩を軽く叩いた。
「緑がここまでノリ気なんだし、観念しなよ」
 その言葉に、葉月はがっくしと肩を落とした。

 校舎は暗く、あちこちで非常口を示す誘導灯が緑色に燃えている。久美子達は足音を殺し、静かに夜の学校を進んでいく。周りをキョロキョロと見回す葉月とは対照的に、緑輝の足取りに一切の迷いはない。
「科学準備室って遠いねんなー」
「音楽室からは離れてるからね」
 窓に映り込む自分の姿すらなんとなく不気味に感じる。久美子は無意識の内に自身のセーラー服の袖を握り締めた。
「あ、そういえばうちトイレ行きたかってん」
 そう言って、葉月が女子トイレの前で足を止めた。前を歩いていた緑輝が振り返る。
「それやったら外で待ってるね」
「いやいや、そんな薄情なこと言わんといて。中までついてきてよ」
「もう、しょうがないなー」
 緑輝が肩を竦める。その視線が久美子の方へと向けられた。
「久美子ちゃんはどうする?」
「私は外で待ってるよ」
 夜の学校のトイレなんて、怖くて入りたくないし。そんなことを内心で考えながら、久美子は緑輝へと笑いかける。
「じゃあ、久美子ちゃんはここで待っててね」
「うん、分かった」
 ひらりと手を振る久美子の前を青い顔をした葉月が通り過ぎていく。
「夜のトイレってなんか不気味やんかー、嫌やわー」
「はいはい、ついてってあげるから文句いわない」
 二人が女子トイレへと消えていくと、辺りは急に静まり返った。しんとした静寂が空気の中に溶けている。廊下の向こう側は暗く、暗闇がぽっかりと口を開けているように見えた。何だか一人で立っているのか心細くなって、久美子は意味もなく自身の袖を指先で引っ張ったりしてみる。その時、不意に耳が微かな音を拾い上げた。
カツン、カツン
 耳を澄ますと、その音はどんどんとこちらへと近付いて来ているのが分かった。唾を呑み込み、久美子はじっとその方向を凝視する。
「……誰ですか」
 意を決して、暗闇に向かって声を投げかけてみる。すると、ぴたりとその足音が止まった。窓から漏れる僅かな光、そこにほっそりとした足が現れる。誰かいる。そう、久美子は確信した。しかし暗いせいで、その上半身はさっぱり見えない。紺色のスカートが微かに揺れる。短めの白いソックス。間違いない、この学校の制服だ。緊張のせいか、口の中がやけに乾いていた。久美子はそこに縫い付けられたかのように立ち尽くしたまま、ただ恐る恐る声を発する。
「あの、京子さんですか」
 その問いに、少女は答えない。ただ、よくよく耳を澄ましてみると、彼女が漏らす吐息に啜り泣く音が混じっていることに気が付いた。
「あの、」
 久美子がそう声を掛けた瞬間、背後からがたんと大きな物音が鳴り響いた。ハッとして、咄嗟に久美子は振り返る。
「もう、葉月ちゃん怖がりすぎやって」
「だって怖いねんもん、しゃあないやん」
 どうやら先ほどの音はトイレの扉が開いた音だったらしい。ハンカチで手を擦りながら、葉月と緑輝がこちらへとやって来る。
「お待たせー」
「久美子、どうしたん怖い顔して」
「いや、さっき女の子が――」
 そう言って先ほどの方向へと指をさすが、そこにはもう何もいなかった。もう、と葉月が頬を膨らませる。
「なんもないやんか。久美子ったらうちを怖がらせる気やな?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
「あかんよ久美子ちゃん! そんな冗談言ったら葉月ちゃん泣いちゃうから」
「泣かへんわ!」
 どうやら完全に冗談だと思われているようだ。久美子は自身の目を擦ってみる。確かに、そこにはもう誰もいない。もしかしたら何かの見間違いだったのかもしれない。じっとりと手のひらにかいた汗をスカートにこすりつけ、久美子は静かに息を吸った。
「さ、今度こそ科学準備室へゴー!」
 緑輝はそう言って、意気揚々と歩き出す。葉月と久美子は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。

 科学準備室へとたどり着くと、確かにその窓からぼんやりと青白い光が漏れていた。
「噂は本当やったみたいやね」
 緑輝は興奮した様子で目をキラキラさせている。
「えー、もうやめようや」
 怖気ついたのか、葉月が緑輝のセーラー服の裾を引っ張っている。久美子は先ほど見た女子生徒のことを思い出す。やっぱり、あれが噂の京子さんだったのだろうか。噂話は本当なのか。
 科学準備室の扉はきっちりと締め切られている。耳を澄ますと、中から何やらゴソゴソと物音が聞こえてきた。間違いない、誰かいる。
「これ絶対やばいって、やめとこう」
 葉月の顔色はあからさまに悪い。しかしそんな彼女の制止も耳に入ってこないのか、緑輝は嬉しそうな顔で扉の方を指差した。
「ねえねえ、開けてみていい?」
「嫌やって」
「ここまで来たんやもん、このまま帰るなんてもったいないやん」
 そう言って、緑輝は扉の取っ手へと手をかけた。彼女が力を込めようとしたその刹那、扉が独りでに動き出した。突然、中から人影が飛び出してくる。
「次はお前だー!」
 ギャーっと、甲高い悲鳴を上げたのは葉月だった。咄嗟のことで、久美子はただ息を呑むしかない。すっかり取り乱す二人とは対照的に、緑輝が興奮した様子で叫んだ。
「あー! 京子さんだ!」
 その台詞に、久美子は恐る恐る目の前の人物へと視線を送る。そこに立っていたのは、一風変わった容姿をした少女だった。まず目に付いたのは、ボサボサの長い髪だ。フレームのない丸い分厚い眼鏡に、長いスカート。履いているカラフルなソックスは、右と左でデザインが異なっている。その胸元には、白いプラスチック製の名札が付けられている。確かに、そこには木山京子と刻まれていた。
 顔色は確かに健康的とは言えないが、足もしっかりあるし幽霊であるとは思えない。どうやら奇妙な噂話の原因はこの人物にあるようだ。
 京子はじろりとこちらを見下ろすと、その髪を大げさな動きで掻きむしってみせた。
「あー? なにちんたらつったってんだ? お前らも採寸に来たんやろ?」
「採寸?」
 思いもしない単語に、思わず久美子達は顔を見合わせた。
「もう、京子ったら何やってるん?」
 京子の背後から、聞き慣れた声が聞こえてきた。その人物に、緑輝がはしゃいだような声を漏らす。
「香織先輩!」
 香織はこちらを見ると、驚いたように目を見開いた。彼女はトランペット担当の三年生だ。その美しい容貌と優しい性格で、部員みんなから愛されている。
「低音の子達やね? どうしたん? こんな時間に」
「先輩こそどうしたんですか?」
 久美子がそう尋ねると、香織はにこりと目を細めて見せた。
「今、サンフェスの衣装どうするか決めてたの」
 ほら、そう言って香織は教室の中を指さした。そこにあったのは、巨大なプロジェクターだった。青白い画面には、いくつかの衣装パターンの画像が映し出されている。窓から漏れていた光はこの画面のものだったようだ。薄暗い教室の中では数人の先輩達がパンフレットを見ながら、ああでもないこうでもないと話し込んでいる。
「なんで教室をこんなに暗くしてるんですか?」
「明るいとプロジェクターが見にくいでしょう?」
「それにしてもここまで暗くせんでも」
 葉月が呆れたように呟いた。
 その隣で、緑輝が勢いよく手を上げる。
「あの、この京子さんというのは一体誰なんですか?」
「あー?」
 京子はじろりと緑輝の方を睨みつける。いや、もしかしたら睨んでいるわけではなく、ただ単に目つきが悪いだけかもしれない。
「サックスの先輩から聞いたんです! 科学準備室の京子さんの噂!」
 緑輝の言葉に、香織が苦笑した。
「またあの子たち後輩をからかって遊んでたんやね」
「えー! 緑からかわれたんですか?」
「ふふ、そうみたいね」
 香織は笑みを零すと、それから京子の方へと手の先を向けた。
「この子は演劇部の副部長なの。衣装作りが得意やから、協力してもらってる」
「試作品やら何やらを作ってあげとんねん。お前ら一年は感謝しろよ!」
 そう言ってキメ顔を披露され、久美子は曖昧な笑みを浮かべた。
「は、はあ。ありがとうございます」
 その台詞に満足したのか、京子はフンと鼻を鳴らした。緑輝が感心したように手を打ち鳴らした。
「それにしても、衣装ってこうやって決めてるんですね」
「まあ、うちは予算も全然ないからね。元々ある衣装とか、あるいは安いところで衣装を買って、それを自分たちでアレンジしてる。毎年衣装をどうするかは三年生がこうやって何日も掛けて決めることになってるの」
「へえ、見ても良いですか?」
 そう嬉々として尋ねた緑輝の鼻先を、京子が指で弾く。
「あかん! こういうのは配るまでお楽しみなんや!」
「えー」
 唇を尖らせる緑輝に、香織はくすくすと笑い声を漏らした。
「ほら、一年生はもう帰ろうな」
 その言葉に、葉月が緑輝の腕を肘でつつく。
「京子さんの謎も解明できたし、もうええやろ」
「うん、結局おばけはいなかったんやね。ちょっとがっかりだけど、でも謎が解けて満足したよー」
 好奇心が満たされたのか、緑輝はあっさりと頷いた。葉月と久美子は同時に胸をなでおろす。これでようやく家に帰れるようだ。久美子はほっとして京子へと笑いかけた。
「でも、さっきトイレのところにいた人って先輩だったんですね。一瞬お化けかと思ってドキドキしちゃいました」
「は?」
 京子は怪訝そうな表情で、ぐりんと首を傾げてみせた。
「オレはここからずっと離れてねえぞ、なに言ってんだ?」
「え」
 久美子は思わず京子の方を凝視した。その脳内に、先ほど見掛けた光景が鮮明に蘇る。薄暗い廊下。窓から差し込む光。照らし出される足元――と、そこまで思い出したところで、久美子は自身の背筋がぞぞっと粟立つのを感じた。そうだ、あの少女の靴下は白だった。目の前の京子のそれとは全然違う。
「じゃ、じゃあ、あれは誰だったんでしょう」
「知らん。大体、今の時期にこんな夜遅くまで残ってるやつ、吹部しかおらんやろ」
「でも、衣装会議に参加してる三年生は全員ここにいるやんな。うーん、誰を見たんやろうね」
 京子と香織が不思議そうに首を傾げている。どうやら、冗談を言っている様子ではないようだ。そう久美子が考えていると、突然袖を引っ張られた。見ると、葉月が半泣きでこちらを見ている。
「ちょっと、変なこと言いださんといてよ」
「でも、見たんだもん」
「じゃあじゃあ! それが本物のお化けってことやんな!」
 突如元気よく宣言した緑輝に、皆の視線が集中する。彼女はかなり興奮した様子で、その拳を握り締めた。
「よーし、それじゃあ緑たちがそのお化けを見つけよう!」
「はー、またなんかアホなこと言い出した」
「緑、もう満足したんじゃなかったの?」
 その問い掛けに、緑輝は満面の笑みで答えてみせる。
「新しい謎が出てきたんもん、これは解明しなきゃ! 行くよ! 久美子ちゃん、葉月ちゃん」
 力強い台詞と共に、緑輝は勢いよく駆け出した。ちょっと待ってよ、と葉月は慌ててその後を追う。こうなった緑輝は、もう誰にも止められないのだ。呆気にとられている香織に、久美子は小さく会釈する。
「すみません、大騒ぎしちゃって」
 何が可笑しいのか、京子はゲラゲラと笑い声をあげた。
「いやあ、あすかといいあの子といい、吹部はなかなかの変人揃いやな。これは退屈せんわ」
 この人、自分も変人だって自覚あるのかな。そんなことを考えながらも、久美子は二人の後を追おうと足を一歩踏み出す。その背後で、香織がくすくすと笑いながら言った。
「ふふ、低音パートってほんとに楽しそうやね」
 その言葉に、久美子は一度足をとめ、彼女の方に振り返る。
「はい! 楽しいです!」
 香織は少し驚いたように目を見開き、それからふとその目を細めた。その桃色の唇から、本音混じりの呟きが漏れる。
「いいなあ、低音は」
 久美子は一度口を開き、けれど結局なにも言わないことにした。聞こえていないフリをするのが、一番だと思ったから。
「衣装、楽しみにしてろよ!」
 京子はそう言って、ニヤリと口端を持ち上げて見せる。その自信に溢れた表情を見ていたら、久美子は自身の中に何だかわくわくした感情が湧き上がってきたのを感じるのだった。

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2014.11.14第3回「あの子には才能がある」

 自分は天才なのだと思っていた。小学校でも中学校でも、通知表はいつだって5ばかりだった。府内屈指の進学校を受験したのも、自分の中では当然の選択だった。だって、他の子と違って自分には才能がある。部活をしていても成績優秀だし、学校の先生だってみんな受かると言ってくれていた。大丈夫。自分は絶対合格する。そう、根拠もなく思い込んでいた。だから、本命の高校に落ちた時にはひどく落ち込んだ。滑り止めの高校には合格したけど、それでもかなりショックだった。普通の子でも受かるような、大して賢くもない北宇治高校に行かなければならないだなんて。でも、それでも現実を受け入れるために、無理やり理屈をこねて自分を納得させた。この高校でトップになれば、そこそこ優秀な大学に行ける。ライバルもいないし、進学校に無理して通って落ちこぼれになるよりは良かった。そう、これは正しい選択だったのだ。悔し紛れに近い台詞を、何度も口の中で反芻した。

 そして高校に進学し、斎藤葵は本物の天才に出会ってしまった。

 ピロティーからは今日も疎らなサックスの音が聞こえてくる。正直うるさい。葵は開いていた参考書から一度視線を離し、それから窓の外へと視線を落とした。コンクリート製の水飲み場の近くでサックスパートの数人が練習をしている。紺色のセーラー服が風を受けてひらりと翻る。太陽の光を浴びて、楽器の表面がキラリと瞬いた。
「……あの子達、練習なんてしいひんタイプやったのに」
 無意識の内に独り言ちた言葉を、聞いている者はいなかった。放課後の教室に人影はなく、静寂を孕んだ空気はしっとりと重い。指先でページの端を弄りながら、葵は再び自身の参考書へと目を向ける。
 葵が入学した当初、北宇治高校吹奏楽部はあまり熱心な部活ではなかった。休みも多かったし、練習も本気でしている部員は少なかった。そんな部の空気を一変させたのが、あの滝という教師だった。今年からこの学校にやって来た彼は、みるみるうちに部活の空気を変えてしまった。

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 コンクール曲の練習だろう、外から流れてくる音楽は葵でも耳にしたことがあるものだった。イーストコーストの風景。サックスパートはどんな演奏をしているんだろう。誰がAのメンバーに出るのだろうか。そんな事を考えて、しかし葵はそこでハッと我に返った。自然と口元に苦々しい笑みが浮かぶ。部活を辞めてしまった自分には、なんの関係もない話じゃないか。なんで今更気にしているのだろう。肺に沈む重苦しい感情を吐き出そうと、葵は一度溜息を吐き出した。
 部活を熱心にやるということは素晴らしいことだと思う。全国大会出場が目標、それだって大いに結構だ。だけど、今年やらなくてもいいじゃないか。そうついつい思ってしまうのは、自分勝手すぎるだろうか。
 ただでさえ吹奏楽部は引退が遅い。府大会でも八月の前半、関西大会だと八月の後半。まして全国大会出場となると、引退時期は十月後半になってしまう。他の受験生たちが勉強している間に、部員たちはどんどんと差がつけられてしまう。
 みんな、なんにも分かってない。吹奏楽で大学には行けないのに。
 参考書を捲る。何度も解いた問題が、葵を待ち構えている。微分、積分、二次関数。チェックをつけて、自分なりに解説を書き込んで。馬鹿正直な自分は、こうしてコツコツと努力することしか出来ない。こんなに頑張っているのに。それでも、自分はあの子には勝てない。
「あれ、葵まだ残ってたんや」
 脳裏に思い描いた人物の声が、教室にやけに大きく響いた。驚いて、葵は咄嗟に顔を上げる。見ると、楽譜ファイルを抱えたあすかがこちらにひらりと手を振っていた。彼女と葵は同じクラスなのだ。
「どうしたん? 忘れ物?」
 平常心を装い、葵は小さく首を傾げてみせた。視線はあすかに固定したまま、素早く参考書を閉じる。あすかはその動作に一瞬だけ目を細め、それからその口端を釣り上げた。
「いやあ、筆箱忘れてさあ。慌てて取りに来たってわけ」
 そう言いながら、あすかはさりげない動きで葵の前の席に腰掛けた。予想外の動きに困惑しながらも、葵は何気なさを繕い尋ねる。
「部活、行かへんの?」
「行く行く」
 そう答えながらも、あすかは動こうとはしない。なんとはなしに気まずさを感じ、葵はついつい視線を下へと落とす。机の上に置かれた、ほっそりとした彼女の長い指。顔の輪郭を沿うように伸びる長い黒髪は艷やかで、彼女の白い肌によく映えた。まるでモデルみたいだ。初めてあすかを見たときも、葵はそんな感想を抱いた。入学式のとき、新入生代表として壇上に上がった彼女は、明らかに他の生徒とは異なっていた。もしもこの世界がテレビドラマだったとしたら、彼女は明らかに主役で、そして自分は生徒Cだ。いてもいなくても誰も気にならない、ただのモブ。選ばれし人間とはこういう人間のことを指すのだと、葵は痛感させられた。あすかは特別だ。間違いなく、自分とは違う。
「……部活、なんで辞めたん?」
 あすかがこちらを見る。闇色の瞳が、真っ直ぐに自分を捕らえる。そのあまりの美しさに、葵はいつもぞっとする。彼女はとても美しい。だからこそ、気味が悪い。まるで現実の人間ではないみたいで。
「まあ、受験やしね」
 そう言って、葵はぎこちない笑みを浮かべる。ふうん、とあすかは僅かに目を細めた。
「晴香が結構落ち込んでた」
「あの子、部長で色々大変やもんね。悪いことしたなとは思ってるよ」
「別に思わんでいいよ。葵は悪くないし」
 あすかはそう言って肩を竦めた。窓の外からは未だに下手くそなサックスの音が聞こえる。
「大体、晴香って何でもかんでも気にしすぎやねん。もっと肩の力抜けばええのにさ」
「まあ、部長やしね」
 そう相槌を打ちながらも、葵は心の中だけで反論する。晴香だって、もしも副部長があすかでなければもっとのびのびとやれていただろう。隣にいる人間があまりにも優秀すぎるから、晴香はつい自分を卑下してしまうのだ。
「あすかはさ、何で部長にならへんかったん?」
「そんなん普通に考えたら分かるやん。ほら、うちって部長の器やないしさ」
 茶化すような彼女の台詞に、葵は眉間に皺を寄せる。
「そんなわけないやんか。三年生会議の時も、みんなあすかが部長になるべきやって言ってた。あすかが部長で晴香が副部長やったら、全部うまいこといったんちゃうん。それやのになんで部長の役を晴香に押し付けたん?」
 彼女は頬杖をついたまま、小さく笑った。窓から差し込む光がその輪郭を照らし出す。無防備に晒された喉が、意思を示すように強く震えた。
「面倒やから」
「は?」
「だってさ、部長とかめっちゃめんどいやんか。普通にやりたくないって」
 そう言って、あすかは葵の方を見た。葵は握っていたシャープペンシルを離すと、意味もなく拳を握ったり離したりを繰り返した。唇を噛み、葵は息と一緒に言葉を吐き出す。
「それ、ちょっと無責任ちゃう?」
「なんで?」
「だってさ、あすかには部長としての適正があんのに」
「適正があったら全部やらなあかんわけ?」
 彼女の表情は笑顔のままだったけれど、その声はいやに鋭かった。葵は思わず唾を呑み込む。
「そういうわけちゃうけど……」
 続く反論が見つからなくて、葵はそのまま口ごもった。沈黙が場を支配する。あすかはじっとこちらを見つめていたが、数秒の間の後、呆れたように溜息を吐いた。
「葵にはうちがどう見えてるか知らんけど、そんな凄い奴ちゃうで。買いかぶりすぎ」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあるある」
 そう言って、あすかはくすりと笑みを零す。その指先が葵の参考書へと向けられた。
「勉強の方の調子はどうなん?」
 するりと話題を変えられ、葵は少し拍子抜けした。張り詰めていた緊張が、少しだけ解ける。
「まあまあって感じ。あすかは予備校行ってないんでしょ?」
「だって予備校って高いやんか。うちにそんな金ないし」
 冗談とも本気とも取れない台詞を吐き、あすかはケラケラと笑った。赤い眼鏡フレームがキラリと瞬く。
「私ずっと不思議に思っててんけど、なんであすかって北宇治に来たん?」
 あすかならもっといい学校行けたでしょ? その問いに、彼女はなんでもないように答える。
「普通に、ここが一番家に近かったから」
「理由って、それだけ?」
「うん、それだけ。大体、勉強なんてどこに高校に行ったってやること同じやし。それやったら家から近い方が通うの楽やん」
 彼女の考え方は合理的でシンプルだ。だからこそ、葵はいつも彼女に劣等感を覚えてしまう。自分はそんな風には割り切れない。もっと上に行きたい。じゃないと、周りに馬鹿にされるから。
「……あすかはいいよね」
「何が?」
「だって、頭いいし」
「はは、まあ確かに他人よりは成績はいいかもね。でも、葵だって優秀やんか。この前の模試、校内順位やと十位以内に入ってたし」
 でも、あすかは入学してからずっと一位やんか。込み上げてきた台詞を、なんとか喉元で押し込める。こんな事を言ったら、まるで自分があすかをライバル視しているみたいではないか。彼女にそう思われてしまうことが、葵はひどく恥ずかしかった。だって、あすかは全くこちらのことを気にしていないのだから。
「校内順位が良くても、合格判定が微妙やから」
「あと半年はあんねんからさ、そんなん気にせんでもええって。これからバリバリ勉強したらぐんぐん伸びるやろうし」
「……あすかは不安ちゃうの? 部活やりながら受験って」
 その問いに、あすかは仰々しい動きで腕を組んで見せた。うーん、とわざとらしく悩んでいるフリをする。
「勉強時間取れへんのは確かに厳しいけど、ま、うちなら大丈夫やろって感じ」
「でも、あすかが受けるとこってめちゃくちゃ頭いいやんか。他の子が一生懸命勉強してる時に自分だけ部活してるって、なんか焦らへん?」
「その程度の時間の差で、自分が他の奴らに負けるとは思わんから」
 ハッキリと言い放たれたその台詞に、葵はぐっと息を呑んだ。他の人間が同じ台詞を言ったならば、自分はソイツをきっと軽蔑するだろう。受験を舐めすぎだ。そう内心でせせら笑う。だけど、あすかは違う。彼女の言葉は真実であり、これが現実なのだ。あすかが多くの時間を部活に捧げようと、自分はきっと彼女に勝てない。だって、持って生まれたものが違う。あすかは天才なのだから。
「……ずるいよね」
 ぽつりと、本音が零れおちた。それは無意識の内に葵の喉を震わせ、情けない感情を相手に晒した。あすかが驚いたように目を見開く。
「ずるいって?」
「私も、あすかみたいに賢かったら良かったのに」
 あすかの長い指が、不意にこちらへと伸びてきた。何も塗られていない薄桃色の爪が一瞬だけ視界に入る。葵がびくりと身を震わすと、あすかは愉快げに喉を鳴らし、柔らかな動きで葵の髪に指を滑らせた。何だか甘い匂いがする。距離の近さに、脳味噌がクラクラした。彼女の赤い唇から、揶揄混じりの声が漏れる。
「それはないものねだりってやつ」
「あすかにないものなんてある?」
「いっぱいある。けど、隠すのが得意やねん」
 そう言って、あすかは立ち上がった。指が離れ、距離が開く。彼女は指先で眼鏡のフレームを軽く持ち上げると、それから笑った。
「そろそろ部活に戻るわ。パートリーダーがサボるとあかんし」
 彼女はそう言って、自身の机から細身のペンケースを取り出した。彼女はノートをとる時も赤ペンとシャープペンシルしか使わない。無駄なものを持ち歩かない主義らしい。
「あすか、」
 教室から出ていこうとする後ろ姿に、葵は思わず声を掛けていた。ん? と彼女がこちらを振り向く。その拍子に、長い黒髪がさらりと揺れた。肺の奥に溜め込んでいたもやもやとした感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「私、部活辞めて悪かったなってホントは思ってるの。晴香に迷惑掛けたのもそうやけど、コンクール前に三年生が抜けるなんてダメやって分かってた。でも、どうしても受験で受かりたくて――」
「大丈夫やって」
 まるで懺悔するみたいに捲し立てる葵の言葉を、あすかはあっさりと遮った。彼女はにこやかに微笑むと、無邪気に告げる。
「オーボエとかファゴットの子が辞めたんやったら困るけど、テナーサックスっていっぱいいるから。一人ぐらいいなくなっても全然問題ないよ」
 心臓が止まるかと思った。頭をガンと殴られたような衝撃。葵は息を呑み、それからあすかの方を見た。レンズ越しの彼女の瞳は、感情の読めない色をしていた。まるでなんでもないことのように、あすかは言う。
「やからさ、葵が気にする必要なんて全くないから。勉強、頑張ってな」
 うん。そう応えるしか、葵に選択肢は無かった。それじゃ。そう言って、あすかが軽やかな動きで教室を出て行く。足音が遠ざかり、静寂が狭い空間に広がった。葵は目の前の参考書を開き、だけど結局一問も解かずに再び閉じた。指が震えていた。瞼の裏がやけに熱い。
 自分は何て言ってもらいたかったんだろう。葵がいないとやっぱり無理だよ、戻って来て。そんな言葉を期待していたのだろうか。
「……馬鹿みたい」
 自分から部活を捨てたくせに、捨てられたように感じるなんて。葵は大きく息を吐き出すと、それから参考書を鞄に詰め込み始めた。今日はもう帰ろう。ここにいても、勉強出来る気がしない。
 筆箱を鞄に詰めながら、葵は窓の外へと視線を落とす。サックスを首から提げた少女達が、ピロティーから離れていくのが見えた。今から音楽室にでも向かうのだろうか。少し前までは、自分もあの中にいたのに。そんな女々しいことを考える自分が嫌になって、葵は意味もなく筆箱を鞄の奥へとぎゅうぎゅうに押し込めた。
 太陽は既に沈もうとしている。あれだけうるさかったサックスの音は、もう全く聞こえやしなかった。

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2014.11.28第4回「少女漫画ごっこ」

「あー、いいなあ。壁ドンって」
「はあ?」
 昨日のドラマの話をしている内に、ふと思いついた言葉が口から漏れた。葉月が怪訝そうな顔でこちらを見る。緑輝は箸を動かすのを止めると、ふう、と小さく息を吐き出す。お弁当には中途半端に啄いたハンバーグがまだ残っていた。
 部活の休日練習のとき、緑輝達はいつも昼食をパート練習の教室で食べていた。教室の左端の方では梨子と夏紀が二人で食事をしており、その右端の方では卓也が他のパートの男子生徒と無言でお弁当を食べ進めている。パートリーダーのあすかはいつもトランペットパートの教室で香織と共に食事するため、この教室にはいなかった。
「葉月ちゃんも壁ドンいいなあって思わへん?」
 その問いかけに、彼女は不可解そうに首を捻る。
「そもそも壁ドンって憧れるようなもんちゃうくない? うるさくしてたら隣からどんどん叩かれるやつやろ?」
「そっちの壁ドンちゃうよー!」
 思わず叫んだ緑輝に、隣に座っていた久美子がくすくすと笑い声をあげた。彼女は菓子パンを一口サイズにちぎりながら、葉月へと視線を向ける。
「よく少女漫画に出てくる方の壁ドンのことだよね。男の子が女の子を壁際に追い詰めて、ドンって突くやつ」
「そうそう! 壁にドンするやつ」
 うんうんと勢いよく頷いた緑輝に、葉月はますます困惑した表情を浮かべた。
「いや、それ犯罪やん。そんなんされたら引くわー」
「引かないよー!」
「引くって。普通にドン引きやって」
「そんなことないってば!」
 力強く言い切った緑輝に、久美子がパンを咀嚼しながら苦笑した。彼女の今食べているクリームパンは、駅前のパン屋さんの看板商品だ。

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「そういえば、緑って少女漫画好きだよね」
「うん。めっちゃ好き」
 緑輝にとって、少女漫画は人生のバイブルである。小学校、中学校と私立の女子校に通っていた緑輝には、異性との出会いがさっぱりなかった。そんな時に友達と一緒によく読んでいたのが少女漫画なのだ。
「あんな風な生活を送ってみたいなあって、ずっと思っててん」
 緑輝は女子校でも友達が多い方だった。小学校でも中学校でも周りにいる人たちはみんな優しくて、学校に対して不満を抱いたことなんて一度もない。それなのにどうして緑輝がエスカレーター式の私立校から公立の北宇治高校へと進学したかというと、とある一作の映画がきっかけだった。少女漫画が原作のその映画は高校生の甘酸っぱい青春を描いたもので、当時女性の間で爆発的ヒットを記録した。緑輝も友人と一緒に三度は劇場へと足を運んだ。パンフレットも買ったし、DVDも買った。こんな風な学園生活を自分も送りたい! そう思った緑輝は、中学三年生の春に突如として外部へ進学することに決めたのだ。正直なところ、共学の学校ならどこでも良かったのだが、制服が可愛かったので北宇治高校に行くことにした。
「うちは少女漫画ってあんま好きちゃうねんなあ。小っ恥ずかしくなるし」
 葉月はそう言って肩を竦める。その台詞を聞いて、久美子が笑みを零した。
「確かに、葉月ってよく少年漫画読んでるもんね」
「やっぱな、燃える展開がいいわけよ。少女漫画ってなんかずっとぐだぐだやってるやんか」
「でもでも、めっちゃ面白いんやって。葉月ちゃんだって少女漫画読んだら絶対、こんな恋愛したいなあって思うよ」
「えー、ほんまかなあ」
「ほんとほんと!」
 緑輝は激しく首を縦に振る。
「葉月ちゃんも久美子ちゃんも想像してみてよ。自分の好きな男の子が壁ドンしてきたら、胸がキュンってするでしょ?」
 その言葉に、葉月は腕を組んで考え込んだ。うーん、と呻き声に近い声を漏らすと、彼女は眉間に微かな皺を寄せた。
「そもそも、壁ドンがよう分からんからうまく想像出来ひんわ」
「えー! じゃあじゃあ、久美子ちゃんは?」
 そう言って久美子の方を見れば、彼女は曖昧な微笑を浮かべた。柔らかな髪がふわりと揺れる。
「私も好きな人いないからあんまり分からないなぁ」
 その言葉を聞いて、緑輝は拳を固く握り締めた。お弁当箱を机へと乗せ、思わず立ち上がる。
「あかんよ二人とも!」
「へ?」
「何が?」
 キョトンとした顔でこちらを見る二人に、緑輝は高らかに告げる。
「女子高生たるもの、壁ドンの魅力ぐらい理解しなきゃ!」
 その台詞に、葉月があからさまに呆れた表情を浮かべる。コイツは何を言い出すんだ。そう言いたげな顔をしていた。
 緑輝はぎゅっと自身の拳を握り直すと、それから勢いよく振り返った。視界の中に、静かに食事を進める先輩達の姿が入る。緑輝は満面の笑みを浮かべ、梨子の方へと視線を向けた。
「ということで、梨子先輩! 後藤先輩! お手本見せてください!」
「えぇっ」
 思わず、といった具合に梨子が悲鳴を上げる。その反対側の席で、卓也が動揺を隠せない様子で咳き込んだ。
「うわー、半端ない無茶ぶりやな」
 梨子の隣でゼリーを食べていた夏紀が、ケラケラと愉快げな笑い声を上げる。梨子は顔を真っ赤にしたまま、ブンブンと首を横に振った。ふっくらとした頬が朱に染まっている。
「そんなん無理やって」
「ええやん、可愛い後輩の頼みやろ? やってやれば?」
 からかい混じりの夏紀に、梨子は恨めしそうな視線を送った。卓也の隣に座る二年生が、ニヤニヤした顔で彼の肩を肘でつついた。
「俺も見たいし、やってや」
 卓也は眉間に皺を寄せ、小さく首を横に振る。
「……嫌だ」
「ええやん、低音パートのベストカップルやねんからさ。ここらで一発かましてやりぃな」
 笑いを堪えるような夏紀の声は、いつもより少し高かった。完全にからかっているのだろう。緑輝は梨子の前に立つと、そのまま彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「先輩、お願いします!」
 ぺこりと頭を下げると、頭上からうーん、と悩む声が聞こえた。ややあって、梨子が溜め息混じりに呟く。
「まあ、そこまで緑ちゃんが言うなら……」
「やったー!」
 緑輝は思わず両手を振り上げた。その背後で、久美子と葉月が感心と呆れが入り混じったような表情を浮かべている。
 卓也と梨子が壁際に立ち、その周りを囲むように緑輝達は立ち並んだ。壁ドンとか引くわー、などと言っていた葉月も、興味津々な様子で二人の様子を窺っていた。緑輝は期待に目を輝かせながら、梨子の様子を見つめる。好きな人にこんな風にされるのって、一体どんな感じなのだろう!
「……じゃあ、やるから」
 卓也が神妙な面持ちで手を伸ばす。その右手が一瞬だけ梨子の髪に触れた。
「う、うん」
 梨子は緊張した面持ちで頷いた。卓也の腕が梨子の肩の上に突き出される。至近距離で見つめ合う二人に、周りは一瞬だけ息を呑んだ。緑輝は興奮で顔を赤くしながら、声を少し潜めて尋ねる。
「梨子先輩、あの、どんな感じですか?」
 その問いに、梨子は少し照れたように頬を掻いた。その頬はうっすらと蒸気しているけれど、予想よりはずっと普段通りの顔をしている。
「うーん……最初はドキッとしたけど、あんまりかなあ」
「えー!」
 期待していた反応ではなく、緑輝はガッカリした。心なしか、卓也もショックを受けているように見える。
「やっぱり漫画みたいに上手くいかんへんのかなあ」
 緑輝がそう呟いた直後、いきなり教室の扉が音を立てて開いた。皆の視線がそちらに向かう。そこに立っていたのは、お弁当箱を手に提げたあすかだった。彼女は至近距離で見つめ合っている梨子と卓也の姿を一瞥し、あらま、と小さく声を漏らした。
「いつの間にか低音パートの性が乱れてる! あかんで後藤、まだ昼間やねんから!」
 叫んだあすかの台詞に、卓也と梨子が一気に顔を赤くした。
「ち、違いますよ!」
 珍しく大声で叫ぶと、卓也は慌てた動きで梨子から離れた。あすかは大股でこちらへと近づいてくると、胡散臭げな視線を彼に送る。
「怪しいなあ、非常に怪しい」
 指の先端で眼鏡のフレームを押し上げ、あすかは僅かに目を細めた。緑輝は慌てて口を開いた。
「違うんですよ、先輩。緑が壁ドンが見たいってお願いしたんです!」
 その言葉に、あすかは不思議そうな顔で首を捻った。
「壁ドン? 近隣住民からクレームが来るときのやつ? なんでまたそんな変なもん見たいん?」
「そっちの壁ドンじゃなくて、少女漫画とかに出てくる方の」
「ふーん? ようわからんけどなんやおもろそうやね」
 あすかは弁当箱を机の上に置くと、それから考え込むように腕を組んだ。緑輝の視界の端の方で、久美子と葉月が何やら言いたげに顔を見合わせている。ややあって、あすかは勢いよく自身の両手を打ち鳴らした。
「よし! うちもやってみるわ。さっきの後藤みたいにしたら良いねんな?」
 そう言うなり、彼女は梨子の方へと腕を突き出した。あすかの整った横顔が、梨子の顔へと近付いていく。
「え、え、」
 梨子は狼狽えた様子で視線を彷徨わせ、茹でダコのように顔中を真っ赤にさせた。明らかに卓也の時とは反応が違う。
「あの、先輩、」
「ん?」
「……勘弁してください」
 そう言って顔を両手ですっかり覆ってしまった梨子に、あすかは一歩下がって距離を取った。力が抜けたのか、梨子はそのままへなへなと座り込む。耳まで赤くした目の前の後輩の顔を覗き込み、あすかは無邪気に尋ねた。
「で、どう? 梨子ちゃん。面白かった?」
 問いかけに、梨子からの返事はなかった。どうやら意識をどこかに飛ばしているようだ。完全に惚けている。
「……納得いかない」
 隣で卓也が憮然とした様子で呟いた。その肩を夏紀が茶化すように叩く。
「いやいや、アンタがあすか先輩に勝つとか無理やから」
「中川、うるさい」
 少し顔を赤くした卓也を、隣にいる友人が慰めている。あすかは興味深そうに梨子の様子を観察していたが、急に何かを閃いたようにポンと手を打ち鳴らした。
「これ、香織にやらせよう。優子ちゃんとかにやってもらったらめっちゃおもろいことになりそう」
「いやいやいや、そんなことしたら優子先輩喜びすぎて死にますよ」
 葉月は焦った様子で止めに入る。しかしそんな制止もあすかの耳にはこれっぽっちも入っていないようだった。
「練習開始までには戻ってくるわ」
 彼女はそう言って、随分と軽やかな足取りで再び教室を後にした。新しいおもちゃを見付けた子供みたいだ。
「……うーん、現実じゃあなかなか少女漫画みたいにはならないんだねえ」
 緑輝はしょんぼりと肩を落とすと、葉月と久美子の傍らへと並んだ。久美子はこちらを見下ろすと、そうだね、と少し寂しげに目を細めた。
「やっぱり、漫画と現実は違うよね」
「大体、少女漫画なんて美少女とイケメンがいちゃいちゃするだけやしな」
「もう、葉月ちゃんったら夢がないなー」
 不満を示すように、緑輝はぷっくりと頬を膨らました。葉月がからかうように、指先でその膨らみをつつく。
「でも、梨子先輩と卓也先輩みたいに、ああやって仲良く出来るのって素敵だと思うな」
 未だ固まっている梨子に、卓也が何やら話しかけている。そんな二人に視線を固定しながら、久美子が苦笑混じりに告げた。その表情があまりにも大人びていたものだから、緑輝は一瞬息が詰まった。何だか胸の奥がジリジリする。
「まあ確かに、あの二人はなんだかんだ言って付き合ってから長いわな」
 退屈そうにしていた夏紀が、葉月の肩に肘をついた。欠伸を噛み殺そうともせず、彼女は少し呆れた様子で肩を竦めた。
「正直なところ、一年がおらんとこではあいつら結構いちゃついてんねん。この前は相合傘して帰っとったしな」
「ほんまですか?」
 その一言で、緑輝のテンションは急上昇した。瞳が一気に輝き始める。
「やっぱり高校生って凄い! ほんまに少女漫画みたいなことやってるんですね!」
 だとすると、自分もあの映画みたいにいつか好きな人が出来るかもしれない。素敵な恋人と一緒に学校から帰って、部活の演奏会とかにも見に来てねって誘えちゃうかも! 一緒に自転車とか乗って、相手の背中に抱きついちゃったりして!
 膨らむ妄想に、緑輝はきゃーと両手で顔を覆った。
「緑、好きな人作るの頑張ります! 目指せカップルで自転車二人乗り!」
 そう高らかに拳を振り上げる緑輝の隣で、葉月が真顔で呟いた。
「いや、自転車の二人乗りは道路交通法違反やから」

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2014.12.12第5回「好きな人の好きな人(前)」

 葉月は恋愛が苦手だ。恋とか愛とか、そういうチャラチャラしたものが好きじゃない。友人達は少女漫画だとか恋愛ドラマだとかそういうものが好きらしいけれど、少なくとも葉月はそれを好んで見ようとは思わない。家族と一緒に居間にいるときにそういうドラマが流れていると、何だか気恥ずかしくなってしまう。本屋で少女漫画を買うのも恥ずかしくて出来ない。勿論、自分のことを誰かが気にしているとは思わない。本屋の店員も、女子高生が少女漫画を買ったくらいで何かを思うはずもない。そんなことは分かっている。だが、恥ずかしいものは仕方ない。そういう性分なのだから。

「でもでも、好きな人が出来たらきっと幸せやろうなって思うけどなあ」
 緑輝がそう言って、いつものように無邪気に微笑む。
 学校からの帰り道。二人でのんびり駅へと向かいながら、葉月と緑輝はそんな話をしていた。緑輝は葉月とは対照的に、恋愛話が大好きだ。
「そんなん言っても、緑だって好きな人いたことないんやろ?」
「なーいーけーどー、でも、そういうもんやんか」
「そうなん?」
 胡散臭げな視線を送る葉月に、緑輝は拗ねたように唇を尖らせた。
「そうやって。漫画ではみんなそうやもん」
「漫画の世界だけやろ」
「そうかもしれんけどー、そう思いたくないっていうんが乙女心ってやつやんかー」
「ふうん、まあそういうもんなんか」
「そういうもんなんやって」

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 力強く言い切られ、葉月は渋々納得することにした。緑輝はスクールバッグをぎゅっと抱きしめると、うっとりとした口調で言った。
「緑ね、中学の頃は女子校やったから。今みたいに普通に男の子と同じクラスにいるだけで、なんかちょっとドキドキしちゃう」
「えー、アンタ普通に馴染んでるやんか。隣の男子とかとも喋りまくってるし」
「普通に見えてるだけやって。ほんまはめっちゃ緊張してるの」
「へー」
「うわ、リアクション薄っ!」
 こちらの反応が不満だったのか、緑輝は頬を膨らませる。葉月は苦笑しながら、足を一歩先へと進めた。緑輝は背が小さい。小さな歩幅で一生懸命こちらに並ぼうとするその姿は、小動物を連想させて何だか愛らしい。

「で、緑は好きな人出来そうなん? 話すだけでドキドキするんやろ?」
 葉月の問いに、緑輝考え込むようにバッグごと腕を組んだ。
「それがね、なーんかピンとこうへんねんなあ」
「なんやそれ」
 呆れた葉月に、緑輝は「だってー」と言い訳めいた言葉を発している。
「緑、実際どうなるかなんて全然わからへんねんもん。こういうのは多分、人生の先輩に聞いたほうがええよ! あすか先輩とか」
「えー、あの人が恋愛してるとことか想像出来ひん」
「というか、なんか色んな人をはべらせてそうやね」
 一体何を想像したのか、緑輝の顔がいきなり赤く茹で上がった。ころころと目まぐるしく表情が変わるため、彼女の顔は見ていて飽きない。葉月はククっと喉を鳴らし、緑輝の背中を軽く叩いた。
「緑もあすか先輩みたいなんを目指せば?」
「無理やって。だってなんか、あすか先輩ってあだるてぃーな感じするもん」
「確かに」
 あすかが時たま放つあの妖艶な空気は、葉月の苦手とするところだった。なんというか、蛇に睨まれた蛙のような気分になるのだ。とって食われそうというか、呑み込まれそうというか。
 そうやなくてね、と緑輝が言葉を続ける。
「もっとピュアな恋がしたいの。一緒にいるだけで心臓がぎゅーってなって、うっかり手が重なってドキッ! みたいな」
 そう夢見心地で語る緑輝に、葉月は呆れ顔で告げた。
「……アンタ、少女漫画の読みすぎなんちゃう?」

 ――そう、そんなことは少女漫画の世界の中だけなのだと、葉月はその瞬間まで思っていたのだ。
「加藤、それ一人やと重ない?」
 チューバ入りの楽器ケースを一人で抱え込んでいると、階段前で塚本に声を掛けられた。葉月は顔を上げ、声の主へと視線を送る。塚本秀一。彼は中学時代から吹奏楽部に所属しており、一年生ながらトロンボーンパートで活躍している。噂によると、かなり演奏が上手いらしい。
 サンフェスに向けての練習のため、部員達は皆中庭へと楽器を運ぶのに忙しかった。葉月自身は初心者のため本番で演奏はしないが、これからのことを考えて楽器を持って動く練習はやるらしかった。初心者は初心者だけでまとまって練習するからな、という二年生の指導係の言葉を思い出す。
 目の前の同級生は、先輩達に混じって練習するのだろう。久美子も、緑輝もそう。自分とは違って、どんどんと先へ進んでいく。
「いや、大丈夫やで。ゴロゴロついてるし」
 葉月はそう答えて、彼の申し入れを柔らかに拒絶した。チューバの楽器ケースの端にはキャリーバッグのように小さな車輪が付いている。平地を進むときは、ケースを傾けて動かすのだ。
「うちはいいから、他の人のとこ手伝ってやってよ」
「いやあ、それがもうほとんど運ぶもんなくてさ」
 それに、と塚本は平気な顔で言葉を続ける。
「階段じゃゴロゴロは使えへんやんか。持つよ」
 至極正論を告げられ、葉月は断る理由を失った。本当のことを言うと、葉月は人を頼るのが苦手だ。自分は他の女子よりも力があるし、頼るよりは頼られたい。そう常日頃から考えている葉月にとって、塚本の申し入れは何だか胸をざわつかせるものだった。
「じゃあ、下の方持ってくれる?」
「りょーかい」
 葉月の言葉に、塚本は素直に従った。楽器ケースを横にごろんと倒し、その両端を二人で持つ。正直なところ、塚本なら一人でも楽器を運ぶのは容易いだろう。しかし自身の楽器を完全に他人任せにするのは、葉月の気持ちが許さなかった。
「加藤って高校から吹部入ったんやろ? チューバってキツない?」
 階段を慎重に下りながら、塚本が尋ねてくる。
「最初はトランペットが良かってんけど、今は結構おもろいなって感じるようになったかな。塚本はずっとトロンボーン?」
「いや、中学時代はホルンやったから。トロンボーンは高校からやで」
「えっ、そうなん?」
 驚いて、葉月は思わず足を止めた。動きに釣られ、塚本もまた足を止める。
「高校からやのにめっちゃ上手いな。うち、久美子みたいにずっと同じ楽器やってたんやと思ってた」
「昔からトロンボーンやりたくってさ。俺、ジャズトロンボーン好きやから」
 そう言って人懐っこい笑みを浮かべる塚本に、葉月の心臓がギクリと跳ねた。何故だか急に暑くなってきた。火照る頬を隠そうと、葉月は何気なさを装って楽器ケースを凝視する。
 あ、こんなところに傷が出来てる。どっかにぶつけたんかな。
「そこ、段差あるし気ぃつけや」
「あ、うん」
 塚本に言われ、葉月は慌てて辺りを見回す。その行動が可笑しかったのか、彼は口許に小さく笑みを浮かべた。
「ほい、お疲れ」
 ようやく階段を降り終わり、塚本は楽器ケースを立つようにして置いた。その拍子に、彼の指が微かに葉月の指へと重なった。皮膚と皮膚が接触する。その瞬間、葉月は反射的に手を引っ込めていた。全身の血が顔に集まっているような気がする。込み上げてきた羞恥心を振り切るように、葉月はわざと声を張り上げた。
「手伝ってくれてありがとな!」
 突如叫んだ葉月に、塚本は少し驚いたような表情を浮かべた。
「いや、別にこれぐらいどうってことないけど」
「めっちゃ助かった」
 なら良かった。そう言って、塚本はへらりと笑ってみせた。
「おーい、塚本。飯食おうぜ」
 廊下の端から男子部員がひらひらとこちらに手を振っている。彼は手を挙げることでそれに応えると、「それじゃ」とそのまま向こう側へと駆けて行ってしまった。
 小さくなる彼の後ろ姿が見えなくなるまで、葉月はそこに立ち尽くしていた。

 サンフェスも終わり、部活は本格的にコンクールを目標に見据えて活動を開始していた。A編成のメンバーをオーディションで決めると滝が言ったとき、教室はひどい騒ぎとなった。葉月は隅の方でそれを淡々と眺めていた。正直、Aのメンバーだとか全国だとか、自分には全く無関係な話だ。そういうのは上手い人が頑張ればいい。そんなことを考えていたものだから、葵が退部すると言い出したのには驚いた。葵といえばサックスパートではそこそこ人望のある人物で、演奏の技術も優れていた。
 この人、ほんまに部活辞めてしまうんやろうか。もったいない。
 そんなことを考えていると、出て行った葵を追って、部長と久美子まで教室を後にしたものだから驚いた。久美子ってば、一体なにやってるんや。そう心の中で呟いたつもりだったのだが、どうやら声に出ていたらしい。緑輝がこちらを見て首を捻った。
 残された部員達は、互いに顔を見合わせて動揺を隠せないでいる。ざわざわと揺れた音楽室内の空気を一変させたのは、やはり副部長のあすかだった。彼女は音楽室の正面に立つと、軽く両手を打ち合わせた。それだけで、教室が一気に静まり返る。皆の視線があすかの方へと向けられた。その様子を、滝が感心したように眺めている。
「はーい、集中集中。みんな気になるのはわかるけど、とりあえず今日はこれで解散な。一年の教室で保護者向けの学校説明会してはるから、今日は音出し禁止やで。明日からはオーディションに向けてばっちり練習するようにしてな」
「はい」
 三年生達の中には不満を持つ者も多いだろうに、それでも皆がしっかりと返事をした。最初の頃の態度とは大違いだ。葉月は滝の方へと視線を送る。やはり、ここまで変わったのは顧問の力が大きいのだろうか。彼はあすかと何やら話し込むと、そのまま教室を後にした。その背中が少し急いているようにも見えて、葉月は首を傾げた。何か急用でもあるのだろうか。
 部長が戻らないまま、今日の部活動は解散となった。解散の指示を受けてもなお、音楽室はざわついている。あすかがそのまま教室を出て行ってしまったため、葉月はどうしていいか分からず緑輝の方を見た。彼女は考え込むように、うーんと首を捻っている。
「久美子ちゃん、葵先輩と仲良かったやんな。確か」
「ああ、そういやサンフェスの練習の時もなんか喋っとったな」
「そうやから追っかけて行ったんかなあ。戻ってくるまで待っといたほうがいいやろうか」
「いつ戻ってくるか分からんしなあ」
 時計を一瞥し、葉月は溜息を吐いた。もしかしたら込み入った話をしているのかもしれない。手紙でも残して帰るべきか、それとも待っておくべきか。
「あの子なら今日は別の子と帰るから、先帰っててもいいよ」
 唐突に会話に割り込まれ、葉月は面食らった。見ると、声を掛けてきたのはトランペットパートの高坂麗奈だった。入学式では新入生代表として壇上に立っており、楽器もプロ級に上手い、完璧美少女だという噂だ。
「あの子って、久美子ちゃんのこと?」
 緑輝の問いに、麗奈が頷く。彼女は僅かに目を細めると、音楽室の入口へと視線を向けた。狭い扉は、帰宅する部員達で混雑している。その中には談笑している塚本の姿もあった。
「そ。先約があるらしいから」
「そうやったんやあ。ありがとう、高坂さん」
 緑輝がにっこりと屈託のない笑みを浮かべる。麗奈はつんとした表情のまま、別に、とだけ言った。長い黒髪がさらりと揺れる。彼女は表情ひとつ変えず、そのまま二人の元を立ち去った。歩き方一つにしても、何だか威圧感がある。
「高坂さんっていい人やねえ!」
 隣にいた緑輝が無邪気に言葉を発する。そうかあ? と葉月は何だか毒づきたくなった。
「なんかおっかないやんか」
「そんなことないって。絶対いい子やと思う。久美子ちゃんの友達なんやし」
「あぁ、まあ、うん。そうかもな」
 真っ直ぐな瞳で見つめられ、葉月は内心で舌打ちしたくなった。緑輝といると、時折自身の狭量さを突きつけられているかのように感じる。
「じゃ、今日はひとまず帰ろうっか。久美子ちゃんには明日はなし聞こ」
 そう言って、緑輝が葉月の腕を取る。それに引きずられるようにして、葉月は音楽室を後にした。

 通学路を歩いていると、急に緑輝が駅前のベンチへと駆け寄っていった。彼女は木製のベンチに座り込むと、ぐっと大きく伸びをする。紺色のスカートから、ほっそりとした太腿が僅かに覗いている。
「ちょっと喋ってから帰ろーよ」
「えー」
「いいやんかー。早く帰っても退屈なんやもん」
 そう言って、緑輝はぶらぶらと足を揺らす。仕方なく、葉月もまたその隣へと腰掛けた。緑色の電車が颯爽とホームへ滑り込んでいく。それをぼんやりと眺めながら、葉月はバッグからペットボトルを取り出した。今日の朝、わざわざ麦茶を詰めてきたのだ。
「ねえ、葉月ちゃん」
 お茶を飲んでいると、妙に真面目な顔をした緑輝がこちらを覗き込んでくる。口が塞がっているため、葉月は視線だけで返事する。彼女は一瞬ためらうように口を噤み、それから意を決したように尋ねた。
「葉月ちゃん、好きな人出来たよね?」
 その台詞に、葉月は思わず咳き込んだ。ペットボトルが手の中で狼狽えたように揺れている。葉月は大きく深呼吸することでなんとか咳を抑えると、それからゆっくりと緑輝へと尋ねた。
「なんなん、いきなり」
 彼女は少し興奮している様子だった。頬がほんのり赤らんでいる。
「だって、葉月ちゃん変わったもん。鏡で前髪とか気にするようになったし」
「そんなん前からやし」
「ヘアピンとかも可愛くなってるし」
「たまたま買い物に行ったときに買っただけやし」
「しょっちゅう六組の前通ってるし」
「そ、それは……ほら、六組の子に用事があるからってだけやし」
 我ながら苦しい言い訳だった。緑輝があからさまに胡散臭そうにこちらを見ている。
「その友達ってだあれ?」
「あー、いやあー、えっとー……」
 言葉を詰まらせた葉月に、緑輝が呆れたように溜息を吐いた。
「もう、嘘つくならもっと上手にやらなあかんよ」
 その言葉に、葉月は唇を尖らせる。
「そんなん、緑輝が意地悪するからやで。見逃してくれてもええのに」
「あー! サファイアって言ったー! あかんって言ってるのに」
「別に、名前で呼んだだけやんか」
「うっそだー、今の嫌がらせでしょ!」
 緑輝はそう言って、ぶんぶんと足を揺らした。爛々と輝くその瞳からは、強い好奇心を感じる。これはどうやら、誤魔化されてはくれないみたいだ。葉月は観念したように息を吐くと、それから緑輝の方に向き合った。
「好きかどうかは分からんけど、でも、まあ、気になる人ならいる」
「えー、うっそ! 誰?」
「えっ、それも言わなあかんの?」
「勿論!」
 何だか顔から火が出そうだ。こんな話題、さっさと終わらせてしまいたい。思わず目を逸した葉月に、緑輝がニンマリと楽しげな笑みを浮かべる。
「珍しいなー、葉月ちゃんが照れるやなんて」
「照れてへんわ、あほか」
「あほちゃうもーん。あ、待って。自分で推理してみるから」
「推理って……」
 何だか完全に遊ばれているような気もする。緑輝はうんうんと考え込むと、それからひどく真剣な顔で言った。
「もしかして、後藤先輩とか」
「そんなわけないやん」
「えー、じゃあ、西岡くん」
「誰やねんソイツ」
「葉月ちゃん知らないの? 二組の図書委員だよ」
「いや、マジで知らんわ。むしろなんでソイツやと思ったん?」
「そうやったら面白いから!」
 あまりにも無邪気にそう告げられ、葉月は返す言葉を失った。そもそも恋愛に関する話で、緑輝に冷静な対応を求める方が間違っているのかもしれない。冷やかされそうだし、相手はしっかり隠しておこう。そう葉月は心の中で決意している隣で、緑輝が「あ、」と短い声を漏らした。
「あれ、久美子ちゃんや。葵先輩との話は終わったんかな」
 その言葉に、葉月もまた顔を上げる。そこにあったのは、何やら楽しそうげに会話をしている久美子と塚本の姿だった。二人はこちらには全く気付いていない様子で、駅のホームへと向かっていく。
「先客って塚本くんのことやったんやね」
 緑輝が驚いたように言った。
「あの二人、付き合ってるんかなあ。久美子ちゃんってばひどい、全然そんな話してくれへんかったのに」
「……」
「それにしても、塚本くんって背ぇ高いやんなあ。前はそこまで高くなかった気もするけど、伸びてるんかな」
「……」
「トロンボーンかあ。緑も一回吹くタイプの楽器やってみたいなあ」
「……」
「ちょっとー、葉月ちゃん?」
 ぺちぺちと緑輝に頬を叩かれ、葉月はそこで我に返った。駅から視線を無理やり引き剥がし、なんとか目の前の少女の方を向く。
「あ、ごめん。聞いてへんかった」
「えー!」
 緑輝は呆れたように溜息を吐き、それから何かを閃いたかのようにいきなり自身の口を手で塞いだ。元々大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。突然の行動に、葉月は驚いて一瞬だけ身を引いた。
「葉月ちゃん、」
 緑輝は飛びつくように葉月の肩へと手を置くと、それからゴクリと唾を呑み込んだ。いつもとは違う友人の様子に、葉月もまた緊張で息を呑む。緑輝は葉月の瞳をじっと見つめたまま、静かな声で尋ねた。
「もしかして、葉月ちゃんの気になる人って……塚本くんなん?」
 その言葉に、葉月は身を硬くした。返事はしていないものの、その反応が答えだった。
緑輝は一度駅へと視線を送ると、それから大きく息を吐いた。なんともいたたまれない顔をして、彼女は歯切れの悪い言葉を紡ぐ。
「あー、そうやったんかあ。うん、それは、その、うん。そっか……」
「そういう反応止めてや。うちだって今の今まで久美子が塚本と仲良いとか知らんかってんから」
「そ、そうやんなあ」
 先ほどまでのテンションはどこへやら、緑輝は妙に大人しくなってこちらを労わるような表情を浮かべている。先ほどの二人の姿を瞼の裏に思い返し、葉月は大きく溜息を吐いた。あの二人、何だかすごく親密そうだった。少なくとも、ただの友人だとは思えない。
 あからさまに落ち込んだこちらの反応を見てか、緑輝が唐突に拳を握る。彼女は勢いよく立ち上がると、葉月の方へ叫んだ。
「あかんよ葉月ちゃん! 落ち込むのはまだ早い」
「早いとか言うけどさー、でもさー」
 思わず愚痴っぽくなってしまった葉月に、緑輝はブンブンと首を横に振った。茶色を帯びた髪がふわふわと揺れ動いている。
「パート練習のときに、久美子ちゃんに聞いてみよ! ほら、めっちゃ仲いい友達なだけかもしれへんしさ」
 そう言って、緑輝は葉月の手をギュッと握り締めた。葉月は俯きながらも、その手を握り返す。
「あー、まあ、そうやな。たまたま二人で帰ってただけかもしれへんし」
 そうは言いながらも、葉月の心の中では疑念がひょっこりと顔を出す。一緒に帰る約束をするような仲なのに、ただの友達なんてことはありえるのだろうか。それに、もし二人が付き合っていなかったとして、久美子も塚本を好きだったとしたらどうしよう。そうなった場合、
「これが三角関係ってやつかあ」
 こちらの思考を読み取ったように、緑輝がしみじみと呟く。その声はひどく落ち着いたものだったけれど、ほんの少しだけ好奇心が入り混じっているような気がした。

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2014.12.28第6回「第6回 好きな人の好きな人(後)」

 チューバという楽器を見つめてみる。開口部は非常に大きく、朝顔のような形をしている。金色の表面に、複雑になされた管の配置。ピストンを押す感触は他の楽器よりもズシリと重い。ベルから吐き出される音は低く、時折周りの物がビリリと震える。ソロやメロディーなどほとんどなく、全く目立たない。
「やけど、絶対に必要な楽器やで」
 そう言って、あすかがこちらに楽譜を手渡す。入部してすぐの頃、あすかはこうして直々に初心者用の楽譜を葉月へと手渡してくれていた。ヘ音記号が記された一枚の紙を、葉月は恐る恐る受け取る。セーラー服の袖口からあすかのほっそりとした手首が覗いた。
「そうなんですか?」
 初心者である葉月に、あすかは色々なことを教えてくれる。彼女の長い黒髪が肩からするりと流れるのをぼんやりと眺めながら、葉月は無意識の内に楽譜の端を握りこんだ。
「普段葉月ちゃんが意識してないだけで、いろんな曲でチューバは活躍してるよ。よくよく聞いてみ」
「ほんまですか?」
「ホンマホンマ」
 あすかはそう言って目を細めた。その長い指が、紙面をするりと撫でる。
「トランペットとかトロンボーンとか、確かに目立つ楽器は活躍が分かりやすい。やけど、楽器って自分が目立つために吹くわけやないからね」
「じゃあ、何のために吹くんですか」
 葉月の問いに、パートリーダーは軽い調子で答える。
「そりゃあ、音楽を作るためやろ」
 その言葉に、葉月は首を傾げた。彼女の言っている意味が、理解出来なかったのだ。
「音楽を作る? どういう意味です」
 あすかは笑った。
「別に、そのまんまの意味やで。いろんな奴がいろんな楽器使っていろんなフレーズを演奏して、そうやって一つの音楽が出来る。それってめっちゃおもろいと思わん? 楽器を吹くっていうのは、その大きなまとまりを構成する小さな歯車になるってことやとうちは勝手に思ってるけどね」
「歯車……」

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 その言葉に、葉月はあまり良い印象を持ってはいなかった。表情を曇らせたこちらの内心を察してか、あすかがそっと葉月の肩に手を置いた。
「チューバは目立たへんけど、重要な歯車やで。この楽器が欠けると、曲に深みがなくなるから」
 そう言って、彼女は僅かに目を細めた。まるで言い聞かせるように、その唇が言葉を紡ぐ。これだけは覚えておきや、と彼女は言った。
「目立つものだけが全てやないし、目立たへんからといって不要というわけでもない。むしろ、意識しいひんと気づかんような当たり前のもんが、意外に大事やったりするんやで」

 黒いアスファルト製の道路が、今日は何故か少しだけ広く感じた。未だ夕焼けの残る空に、仄白い月が漂っている。今日の会話を思いだし、葉月は意味もなく自身の手の平を握り締める。口から漏れる吐息はいつのまにか憂いを帯びていた。溜息と化したその息が吐き出されるのを、他人事のように自身の耳は聞き流している。
「でも、良かったね」
 隣を歩く緑輝が、ひどく無邪気な笑顔をこちらに向ける。葉月は彼女から視線を逸らし、ただ足元に広がる黒い地面を見つめていた。
「久美子ちゃんと塚本くん、ただの幼馴染やって。三角関係にならへんくてほんま良かった」
 休憩時間中での、久美子との会話を思い出す。確かに、彼女は二人の関係をそう説明していた。だけど、その言葉をどこまで信じていいのだろう。本当に彼女は塚本のことをなんとも思っていないのだろうか。
「葉月ちゃん、気にしてるの?」
 緑輝の台詞に、葉月は思わず足を止めた。彼女は大きな瞳でこちらを真っ直ぐに見据えている。その視線の真剣さに、葉月はぐっと息を呑んだ。
「気にしてるって、何が」
「久美子ちゃんのこと」
 葉月は言葉に詰まった。なんと返して良いか分からず、ただ途方に暮れたように緑輝の方を見遣る。彼女はじっとこちらを見ていた。まるで、葉月自身すら知らない感情を引きずりだそうとするみたいに。
「こういう時、どうしていいかわからへんねん」
 呟いた言葉は、葉月の本心だった。好きとか嫌いとか、そういうややこしい話が葉月は苦手だ。仲の良い友人同士が恋愛のせいであっという間に不仲になっていく様を、葉月はこれまで何度も見てきた。同じ人を好きになった。彼女がいるって知っているのに、その男子と仲良くした。葉月にとってはくだらない理由でも、友情というのは簡単に決裂するものなのだ。
 葉月は久美子が好きだ。ちょっとボケっとしているところも、少しばかりお人好しすぎるところも、みんな好き。もしも塚本と久美子を天秤に掛けるなら、葉月は間違いなく後者を選ぶ。だから、
「もし久美子が塚本のこと好きなんやとしたら、うちは諦めた方がええんやないかなって思ってる」
 その言葉に、緑輝は目を細めた。小さな指がぎゅっと鞄の取っ手を握り締める。彼女は不服げに頬を膨らませると、それから一歩だけ葉月の方へと歩み寄った。茶色を帯びた瞳に、葉月の不安げな顔が映り込む。彼女は威勢良く口を開いた。
「それ、久美子ちゃんに失礼やと思う」
 予想外の台詞に、葉月は目を見開いた。緑輝はどうやら怒っているらしく、その眉間には深く皺が寄っている。
「だって、それって単に久美子ちゃんを言い訳にしてるだけやん」
「いや、言い訳のつもりはないけど」
 そう言いながらも、ついつい口ごもってしまった。こちらの顔を覗き込むように、緑輝がずいと近付いてくる。
「葉月ちゃんは久美子ちゃんに気ぃ遣って塚本くんのこと諦めるって言ってるんやろ? そんなん、ただの自己満足やんか。もし緑が久美子ちゃんの立場やったら、友達にそんなんされんの絶対いや」
 緑輝がここまで言い切るのは珍しい。浮かぶ汗を拭うように、葉月は自身のスカートに手の平をこすりつけた。緑輝は続ける。
「大体、好きな人がかぶったって理由で久美子ちゃんが葉月ちゃんのこと嫌いになると思ってるの? 緑、それって久美子ちゃんにめちゃくちゃ失礼やと思う」
「でもさ、」
「塚本くんのこと、好きなんでしょ?」
 葉月の言葉を遮り、緑輝は問いを口にした。ストレートなその問い掛けに、葉月はぐっと唾を呑んだ。緑輝は目を逸らさない。真っ直ぐな視線が、葉月へと突き刺さる。
「だったらそれでいいやんか。葉月ちゃんは一体何を気にしてんの? 緑、恋愛とかよう分からへんけど、でも、他人を言い訳にすんのは絶対に間違ってると思う」
 そう一息に言い切って、緑輝はようやくそこで息を吐いた。視線が外され、葉月は僅かに脱力する。自身の口から大きく息が漏れ、葉月はそこで自分が息を止めていたことに気が付いた。
 先ほどの険しい表情はどこへやら、緑輝は顔を上げるとにこりといつものように笑ってみせた。茶色がかった髪がふわふわと揺れ動いている。彼女は踵を浮かせると、それからおもむろに腕を伸ばした。困惑している葉月の頬を、緑輝の小さな手の平が挟む。ぺちり、と間の抜けた音がした。
「大丈夫やって、どうなっても緑がついてるから」
 彼女の睫毛が柔らかに震える。その手は暖かく、春の陽だまりのようだった。葉月は目を伏せ、それから絞り出すような声で呟いた。
「……ありがと、緑」
 その言葉に、彼女はにこやかに微笑んだ。

 祭りに彼を誘おう。そんな風に決心するよう葉月の背を押したのが、あの時の緑輝の言葉だった。夕焼けに染まる廊下を、葉月は駆ける。部活の活動時間が終わり、部員達は皆一様に楽器室へと向かっていく。
 視界に彼の姿が映った瞬間、自身の心臓がどっと跳ねた。火照る頬を誤魔化すように、葉月は大きく息を吸い込む。
「あ、塚本!」
 塚本の背中越しには、麗奈と久美子の姿も見えた。久美子の表情はこちらからは影になっていてよく見えない。ただ、麗奈の腕を掴む彼女の指に、ぎゅっと力が込められたのが分かった。
「加藤?」
 塚本が少し驚いた様子で振り返る。短く切られた髪から、彼のやや大きめな耳が覗く。とてもじゃないが、正面からは顔を見られそうにない。ばくばくと暴れる心臓を気力でなんとか押さえ込み、葉月は彼に視線を向けないままその腕を掴んだ。
「ちょっと話あんねんけど、こっち来て」
「え? でも、いま久美子と話してんねんけど」
 頭上から、少し困惑した声が落ちてくる。それでも、葉月は顔を上げられなかった。恐ろしかったのだ。その表情の中に、嫌悪の感情を見つけるかもしれないことが。
 久美子が身じろぐ気配がした。
「私は大丈夫だよ? ほら、行ってきなって」
「行っていいのかよ」
「いいって言ってるじゃん」
 彼女の声は明るくて、普段となんら変わらないように葉月には思えた。廊下から差し込む光が自身の足元を赤く染め上げる。真っ直ぐに定規で引いたみたいに、影と日差しの境界がくっきりと別れた。それを踏み越えるようにして、葉月は塚本の腕を引いた。彼は何か言ったけれど、葉月にそれを聞き取ることは出来なかった。
「話って何?」
 塚本の問いに、葉月はぐっと言葉を詰まらせた。自身の焦りをかき消す様に、必死になって足を動かす。
「いや、ここでは話せへんのやけど」
「じゃあどこで話すん?」
「うーん、三階の階段前とか。あそこなら人おらんし」
 葉月の言葉に、塚本は黙って従った。多分、彼はもう気付いているのだろう。葉月の耳が赤いことや、平静を装う声がひどく震えていることを。それでも、彼は何も言わなかった。それが何を意味しているのか考えたくなくて、葉月はただひたすらに歩みを進めた。
「おぉ、ほんまに人おらんな」
 階段前まできた彼は、少し感心した様子で目を見張った。彼の唇から漏れる吐息には、微かに緊張の色が滲んでいた。これから何が起こるか、察しているのだろう。癖なのだろうか。少し大きめなスラックスに、塚本は自身の手の平を何度も擦りつけていた。
 葉月は掴んでいた腕を離すと、それから大きく深呼吸した。気を引き締めようと、自身の頬を両手で軽く叩く。突然の行動に、塚本は驚いた様子で葉月の方を見た。
「ど、どうしたん?」
「話があります」
 真剣な表情で告げる葉月に、塚本が唾を呑み込んだ。やや出っ張った喉仏がゴクリと上下する。
「五日のあがた祭り、うちと一緒に行ってくれませんか」
 恐ろしくて、葉月は顔を上げられなかった。ただひたすらに、自身の上履きを凝視する。影を踏みつけるようにして、葉月はそこに立っている。洗濯し過ぎたせいか、紺色のソックスはほんの少し色あせて見えた。
「あー、ごめん」
 恐る恐るという具合に、ひどく静かな声が落とされた。葉月はゆっくりと顔を上げる。塚本は少し困った様子で、眉尻を下げた。狼狽えているのか、その視線が所在無さげに宙を彷徨っている。
「俺、祭りには行くつもりないから」
「なんで?」
「なんでって……」
 葉月の問いに、塚本は気まずそうに口ごもった。しんとした静寂が辺りに漂う。夏だというのに、廊下は少し寒かった。ひんやりとした空気が葉月の首筋を撫でる。
「お願い。その時に、話したいことがあんの」
 葉月は言った。塚本は困惑げに首を振る。傷つけないように、彼が言葉を選んでいるのが分かる。
「いやでも、俺、そういうの、」
「お願い」
 その言葉を遮り、葉月は彼の腕を握り締めた。
「行くだけでいいから」
 吐き出した声はやけに切迫した響きを孕んでいた。塚本が動揺した様子で瞳を揺らす。彼の息を呑む音が、人気の無い廊下にぽつりと落ちた。
「……分かった」
 その言葉に、葉月は無意識の内に自身の口元を緩めていた。自身の前髪を掻き分け、葉月は意味もなく瞬きを繰り返す。
「ありがと、そう言ってくれて」
「いや、別に礼言われることとかしてへんし」
 言い訳のようにそう言って、塚本はこちらから目を逸した。その表情は決して明るいものではなかったけれど、葉月はそれでも満足だった。
「当日は、駅前に七時集合な」
 その言葉に、彼は静かに頷いた。

 葉月は恋愛が苦手だ。恋とか愛とか、そういうチャラチャラしたものが好きじゃない。だけど、それよりももっと苦手なのが、同じ状態をだらだらと続けることだった。好きという感情を抱き続けて、うだうだとしているのが嫌だ。だから、早く結果が知りたい。それがたとえ、どんなものでも。
「待たせた?」
「いや、全然」
 駅に着くと、塚本は既にそこに立っていた。いつもの制服と違い、今日の彼は青いチェックシャツと黒のジーンズを身に纏っていた。お世辞にもオシャレとは思わなかったが、とくだん落胆することもなかった。服に対して無頓着なのは、自分も同じだからだ。慣れないスカートの裾を指先で引っ張りながら、葉月は照れを隠すように笑みを零す。
「うち、あがたさんに男子と行くの初めてやわ」
 あがた祭りは宇治では有名な奇祭だった。あがた神社の近くにある小学校などは、祭りに合わせて授業が早めに終わったりする。小学生の頃から、葉月も友人と一緒によくこの祭りに参加した。ハズレくじばかりを引いて、あっという間に一文無しになってしまったのはいい思い出だ。
「俺も初めてやなあ。こういうの、あんま慣れてへんから」
 緊張しているのか、塚本の表情は普段より硬かった。彼に会うまではいっそ逃げてしまいたいと思うほど心臓が痛かったのだけれど、こうして会話をしていると身構えていた自分が何だか馬鹿らしくなってくるから不思議だ。普段通りでいいんだ。普段通りで。自分に言い聞かせるように、葉月は内心で同じ言葉を繰り返す。
 隣を歩く彼は、一体何を考えているのだろう。顔を見上げても、その表情からは何も掴めない。ぼんやりとその横顔を眺めていると、突如としてその視線がこちらに向いた。
「なんか食べたいもんある?」
「え、あ、一本漬け、とか」
 顔を見つめていたのがバレただろうか。動揺したせいか、返した声は語尾が裏返っていた。自身の顔が羞恥で火照っていることに、葉月は気付かないフリをする。
「あー、ええな。俺も食おうかな」
 塚本はそう言って、へらりと笑った。
 葉月達は人の流れに乗ると、そのまま屋台を見て回った。流水に冷やされた胡瓜を指差し、葉月は言った。
「あれ、買っていい?」
「もちろん」
 胡瓜の一本漬けは京都の祭りではよく見かける品だ。普段はあまり漬物を食べない葉月だが、この一本漬けだけは別物だった。
「すみませーん、一本ください」
「あいよー」
 店主は強面の男で、葉月は少々面食らった。彼は塚本を一瞥すると、愛想の良い笑みを浮かべる。
「彼氏さんは食べへんの? 特別にカップル割引してもええけど」
「いやいや、カップルやないんで」
 店主の言葉を、塚本がやんわりと否定した。膨らんだ高揚感に、ぶすりと針が刺さる。葉月は愛想笑いを繕いながら、店主から一本漬けを受け取る。持ち手の部分から、水滴が滴っている。
「自分、空気読めへんなってよう言われん?」
 店主が呆れたように言った。その台詞に、塚本は苦笑しただけだった。
 
 屋台の立ち並ぶ通りを抜けると、途端に人通りが少なくなる。外灯が立ち並ぶ夜道を、二人は無言で歩いた。わたあめ、フランクフルト、かき氷。先ほど食べたものを脳内で列挙しながら、葉月はゆっくりと足を進める。塚本は先ほど買ったベビーカステラを一つ一つ食べ進めていた。
「塚本さ、何で祭りに行くの嫌やったん?」
 葉月の問いに、塚本は誤魔化すように目を逸した。
「あー、いやー……」
「言いたくない?」
「いや、そういうわけでもないんやけど」
 塚本はそう言って肩を竦めた。ふーん、と葉月はそこで追求するのを止める。道の向かい側から、楽しげなカップルの声が聞こえる。それを聞き流しながら、葉月は白線を辿るようにして歩く。一時停止。道路に刻まれた文字が、なんとなく視界に入る。
 不意に、塚本が足を止める。釣られるようにして、葉月もまた足を止めた。彼の視線は、川を挟んだ向こう側へと向けられていた。長い黒髪が、真っ先に目に入る。麗奈と久美子だ。思わず、葉月は自身の手を握り締めた。彼女たちは何故か、屋台が並ぶ通りとは無関係なところから現れた。こちらには気付いていないのだろう。二人は何やら愉快げに話しながら、駅へと向かう人の流れへと合流した。人混みにかき消され、すぐに二人の姿は見えなくなる。
「……塚本?」
 呼びかけると、彼はハッとした様子でこちらを向いた。誤魔化すように、塚本は笑う。
「あぁ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
 彼が何を見ていたか。そんなの、考えなくともすぐに分かった。
「久美子のこと、気になる?」
 その問いに、塚本は明らかに動揺した。揺れる瞳を、葉月はじっと凝視する。
「別に、そういうんじゃないし」
 彼はそう言って、ベビーカステラを口に放り込む。何かに急き立てられるように、塚本はカステラを咀嚼した。葉月は唾を呑み、それから彼の方を見た。改まった態度に、塚本の眉間に皺が寄った。
「うちさ、アンタのこと好きやねんけど」
 そう言った途端、塚本は激しく咳き込んだ。慌てたようにペットボトルのキャップを捻ると、一気にそれを煽る。彼が一度落ち着くのを、葉月はただ黙って待っていた。
「あ、うん。いや、おう」
 混乱が収まらないのか、要領を得ない反応に葉月は頬を膨らませた。
「何その反応」
「いや、びっくりして」
「ほんまは分かってたくせに」
 葉月の言葉に、塚本は少し気まずそうに自身の頭を掻いた。
「いや、そうかもしれんとは思ってたけど、でも、勘違いやったらめっちゃ恥ずかしいなとも思ってて――」
「で、返事は?」
 彼の言葉を遮り、葉月は言った。正直、これ以上ドキドキしたままでいるのは苦痛だった。こちらの心情を察してか、それとも別の理由があるのか。塚本が僅かに目を細めた。静かに、彼は息を吸い込む。唇から吐き出される声が、夏の空気を震わせた。
「……ごめん」
 その言葉を聞いた途端、何だか全身の力が抜けた。落胆と安堵が入り混じった感情が、吐息の中に溶けていく。そっか、と葉月は言った。自分でもなんと言っていいか分からなかった。ただ、結果を待つ苦痛から自身が解放されたことを察した。
 冷える指先を、葉月はぎゅっと握り締める。そういえば、緑輝の手はいつだって温かかった。ふと、そんなことを思い出した。
「一つ聞いていい?」
 やっとの思いで紡いだ声は、自分でも思っていた以上に普段通りだった。なんだ、意外に平気じゃないか。そう思った。
「何?」
 塚本が気遣うような目でこちらを見る。あの目は嫌だ。彼のこんな顔は、あまり見ていたいものではない。
「うちが誘った時に最初に断ったのって、久美子が理由?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ほんまのこと言ってよ。せっかくうちが勇気出して聞いてんねんから」
 その台詞に、塚本が苦々しい笑みを口端に浮かべた。肩を竦め、観念したように彼は言った。
「だってさ、あんまりいい気せえへんやんか。祭り一緒に行こうって誘っといて、別の女子と行ったら」
 あの日、やはり彼は久美子を祭りに誘っていたのだ。なのに、彼女は頷かなかった。一緒に帰るような仲なのに、どうして断ったのか。そこまで考えたところで、葉月は察した。久美子は、葉月を気遣ったのだ。だから、彼女は彼の誘いを断った。そう考えた 途端、葉月の胸の内にひどく苦い感情がこみ上げた。
「アホやなあ」
 漏らした声は、一体誰に向けてのものだったのだろう。自分か、あの子か、それとも目の前の少年か。塚本は恥ずかしさを誤魔化すように、再びカステラを口に運んだ。逸らされた視線を逃さぬよう、葉月は彼の顔を覗き込んだ。
「塚本、久美子のこと好きなんやろ」
 突如として、その顔が赤く茹で上がる。あまりにも分かりやすい反応に、葉月はつい噴き出してしまう。彼は慌てた様子で首を横に振った。
「ちゃうって。アイツは別にそんなんやないって」
「あー、もしかして自覚なしってやつ?」
「いや、ほんまに違うから」
「まあまあ、素直になりたまえよ」
 余裕ぶってそう告げると、塚本は不服そうな顔のまま黙り込んだ。もしかして自覚が無かったのだろうか、あんなに露骨に態度で示していたのに。そこまで考えて、ふと葉月は入部時のあすかの言葉を思い出した。
 ――むしろ、意識しいひんと気づかんような当たり前のもんが、意外に大事やったりするんやで
 もしかすると、塚本と久美子は互いに近すぎる存在なのかもしれない。一緒にいるのが当たり前過ぎて、互いに抱く感情に気付けないのだろうか。だとすると、幼馴染というのは厄介な関係だ、と葉月はやや呆れ気味に考えた。
「あかんで塚本、久美子って鈍いんやから。積極的にいかんと」
「そんなもん分かってるわ、付き合い長いねんから」
 反射的に言い返したのだろう。彼は自分の言った台詞に、気まずそうな顔をした。しゅんとうなだれるその姿が何故だかひどく可笑しくて、込み上げる笑いを隠そうともせず葉月はケラケラと笑い出した。塚本がますます顔を赤くする。可笑しくて仕方ないのに、泣きたくなるのは何故なんだろう。葉月は目に浮かぶ涙を拭い取ると、それからあっけらかんと言い放つ。
「ま、久美子はうちの大事な友達ですから。二人がくっつくよう協力したるわ」
 あの時、気ぃ遣わせてしもうたし。呟いた声は塚本には聞こえなかったらしい。え? と彼が不思議そうに首を捻った。
「なんでもない!」
 そう言って、葉月は笑ってみせた。その声に釣られたように、塚本もまた笑った。夜の空気に二人の笑い声が溶ける。それはひどく作り物めいていたけれど、二人共互いに指摘しようとはしなかった。

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2015.1.30第7回「犬と猿とおかん」

「は? 目玉焼きにソースとかあほちゃう?」
「マスタードかけるやつにそんなん言われたくないんですけど」
「いやいや、マスタードはなんにでも合うから。あのピリッとした刺激が卵の黄身のまろやかさにマッチするわけ」
「そんなん言ったら、ソースの甘味だって白身の淡白さに合うんですけど」
「いや、合わんやろ」
「アンタがバカ舌やからそう思うんちゃう?」
「はあ? アンタ喧嘩売ってんの?」
「売ってますけど」
「よっしゃ、いっぺん表出ろ」
「それはこっちのセリフやし!」

 騒々しいいつものやりとりに、教室から生ぬるい視線が送られる。せっかくの昼食時間だというのに、一体なにをやっているのか。呆れを隠せず、梨子は思わず溜息を吐いた。注目の的となっている夏紀と優子はそのことに気付いていないのか、口論を続けたまま教室の外へと出て行った。窓硝子で隔てられているというのに、その声は未だに教室内に聞こえている。あの二人の水と油っぷりには呆れるばかりだ。
「おーおー、やってますなー」
 隣に座る恵美が、そう言ってケラケラと愉快げな笑い声を上げた。ソフトボール部に所属する彼女は、中学時代からの梨子の友人だ。二年生になってから同じクラスになり、梨子はいつも彼女と昼食を摂るようにしている。夏紀とは一緒に食べることもあるけれど、食べないこともある。吹奏楽部という枠組みから離れ、普段の学生生活へと戻ると、梨子と夏紀にはそこまでの接点がなかった。勿論、他のクラスメイトよりは自分は夏紀と親しいつもりだ。だが、積極的に話したり、一緒に行動したりするほどの友達ではない。その距離感を、梨子は時折もどかしく感じてしまう。
「あの二人、毎回ああなっちゃうんだよね」
「部活でもあんな感じなん?」
「うん。一年の頃からずっとそう」
 一目見た瞬間から気の強いことが分かる夏紀はともかく、その可愛らしい容貌から優子は入学してすぐの頃は男子にそこそこの人気があった。しかしもはや日常茶飯事となった夏紀との口論の騒々しさと、尋常ではない香織への傾倒っぷりのせいか、今やほとんどの男子たちが彼女とはあまり関わろうとはしなくなった。そんなマイナス要素を抱えていてもなお、たまに告白されているらしいから、優子という人間は異性からはかなり魅力的に映るのだろう。ミートボールを咀嚼しながら、梨子は消えていった二人のことを考える。
「なんかきっかけとかあんの?」

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 あまり興味のなさそうな顔をして、恵美がフランスパンを頬張っている。梨子は唇に箸の先を微かに当てたまま、少し考え込んだ。
「まあ、あるといえばあるんだけど……」
 言葉を濁し、梨子は静かに目を伏せる。箸の先端から、掴み損ねたトマトが転がる。
 それは梨子たちが一年生だった頃の春、ちょうど吹奏楽部に入部してすぐの頃だった。

「うち、吉川優子っていうの。よろしくね、梨子!」
 そう満面の笑みで言われ、莉子は曖昧な笑みを浮かべた。吹奏楽部に入部した最初の日、梨子に最初に話しかけてきたのは優子だった。その屈託のない笑顔に、梨子は何だか居心地の悪い気分になる。明るくて性格の良い人間というのは、ちょっとだけ苦手だ。なんだか自分がどうしようもない人間に思えるから。
「優子ちゃんは、何で吹部に入ったん?」
「優子でいいよ」
 すっぱりと言い放たれ、梨子はうっと言葉を詰まらせた。初対面の相手に呼び捨てというのは、梨子にとって少々ハードルが高い。こちらが言葉を詰まらせている間にも、彼女の話はどんどんと進む。
「うち、中学の頃から吹部やねん。今から新しいことを始めるのもなんやしね、とりあえず入るかって感じかなあ。梨子は?」
「私? 私はその、中学の頃は料理部だったんだけど……」
「あー、分かるー。料理部っぽい」
「そ、そうかな?」
「うん。なんか、梨子って美味しそうやもん」
「え?」
 なんか奇妙な評価をされた気がする。思わず怪訝な表情になった梨子のことなどお構いなしに、優子はニコニコと笑っている。なんというか、変な子だ。そう心の中だけで梨子は呟く。
「はーい、それじゃあ各自自分の希望のパートに移ってください」
 教卓で、三年生がなにやら指示をだしている。その言葉を聞くやいなや、優子は勢いよく立ち上がった。
「じゃあ梨子、また後で!」
 彼女はそう言うと、すぐさまトランペットパートの方へと駆けていった。取り残された梨子は、どうしていいか分からずただ呆然とそこに立ち尽くしている。サックス。ファゴット。パーカッション。色々な楽器の名前が口々に話されているのだが、彼らが何を言っているのか初心者である梨子にはあまりよく分からない。
 結局、梨子は一番集まっている新入生が少ないパートへと向かうことにした。ジャンケンや適性検査で別のパートに移されることが嫌だったのだ。
「お、低音希望? なかなか渋いね」
 そうにやりと笑ったのは、赤縁眼鏡の先輩だった。かなり背の高い、威圧感のある美人だった。その腕の中にあるのは確か、ユーフォニアムとかいう名前の楽器だ。
「うちは二年の田中あすか。低音パートの新入生の指導係やってる。まあ、これからよろしく」
 そう言われ、梨子は慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「あらー、随分と真面目そうやねえ。名前は?」
「あ、長瀬梨子です」
「ふーん。梨子ちゃん」
 あすかは僅かに目を細めると、値踏みするように梨子の身体を上から下へと見回した。蛇に睨まれる蛙って、こんな感じなのだろうか。身を竦めながら、梨子はぼんやりと考える。
「初心者? それとも経験者?」
「あ、楽器はリコーダーと鍵盤ハーモニカぐらいしかやったことないです」
「オッケー。じゃあ、梨子ちゃんはチューバ担当ということで」
「えっ」
 唐突に自身の楽器を決定され、梨子は思わず目を見開いた。チューバって確か、一番大きい楽器だ。あんなの、自分に吹けるのだろうか。思考が顔に出ていたのか、あすかがケラケラと笑い声を上げた。
「大丈夫大丈夫、今年はもうひとり経験者入るから」
「経験者ですか?」
「そう、コイツ」
 そう言って、あすかは隣にいる男子学生の肩を叩いた。黒縁眼鏡の、随分と大柄な男だった。彼は無表情のまま梨子の方を見ると、頭だけを小さく下げた。梨子も慌てて会釈する。
「コイツ、後藤卓也。梨子ちゃんと同じ一年やから」
「えっ、同い年なんですか?」
 あまりにも馴染んでいたものだから、てっきり先輩なのだと思っていた。老け顔やし勘違いされてもしゃあないな、とあすかが再び笑い声を上げる。と、その時、不意に梨子の後ろから気の強そうな少女があすかへと声を掛けた。
「なんか、サックスの先輩からユーフォの方に行けって言われたんですけど」
 見ると、やや目つきの悪い女子生徒が不満げな顔で梨子の隣に突っ立っていた。そのスカートの短さから、莉子は確信する。この子、不良だ。
「あー、サックスが定員オーバーやからこっちにまわされてきたんやな。かわいそうに」
 あすかはそう言って、ベルを逆さにするようにして自身の楽器を床へと置いた。
「アンタ、名前は?」
「中川夏紀。初心者です」
「初心者ね、了解。ま、練習すればすぐに吹けるから心配せんとき」
 安心させるように、あすかが夏紀の肩を叩く。
「別に心配してませんけど」
 拗ねるようにそう呟いて、夏紀はそっぽを向く。先輩に口答えとは、やはり不良だ。こんな子と上手くやっていけるのだろうか。不安に震える梨子の背中を、あすかがからかう様に軽く叩いた。

「じゃ、親睦を深めるためにも今日のお昼は一年で食べてな」
 楽器を決めて早々に、あすかが指示を出す。その言葉に、夏紀が困惑したように眉をひそめた。
「すみません。今日は昼には終わると思ってて、お弁当持ってきてないんですけど」
「そんなん、売店で買えばいいやんか」
「売店?」
「そ。今日は土曜やからギリあいてんで。梨子ちゃん、一緒についてってあげて」
「は、はい!」
 唐突に名指しされ、梨子はピンと背筋を立てる、卓也はというと、我関せずという具合に黙々と大きな弁当箱の中身を食べ進めている。夏紀は不愉快さを隠そうともせず、大袈裟な動きで溜息を吐いた。
「別に、ひとりでいいですけど」
「あかんあかん。こういうのは、最初が肝心やからね」
 そう強引に言いくるめられ、結局梨子は夏紀と共に売店へと向かうこととなった。廊下を歩く間も、夏紀は無言だった。気まずい空気が流れ、梨子はどうしていいか分からず意味もなく窓の外を見たりする。こういう怖い子が、梨子は本当に苦手なのだ。
「あ、梨子!」
 売店に着いた途端、華やかな声が響いた。振り返ると、友人を連れた優子がこちらへと駆け寄ってきていた。ピンク色の可愛らしい財布は、どこかのブランドのものらしい。薄くブランドロゴが刻まれている。
「梨子も買い物?」
「うん、ちょっとね」
 二人が会話を交わしている間にも、夏紀は棚に並んだ惣菜パンを物色している。その一つに夏紀が手を伸ばそうとしたその瞬間、優子が鋭い制止の声を上げた。
「待った!」
 怪訝そうな顔で、夏紀がこちらを振り返る。彼女が選んでいたのは、透明な袋に包まれたコロッケサンドだった。白く柔らかなパンに、緑色のキャベツとソースの染み込んだ分厚いコロッケが挟まれている。
「うち、それ食べたいねんけど」
「はあ?」
 夏紀の眉間に皺が寄った。莉子はそれだけで縮み上がってしまうというのに、優子はまったく怯んだ様子もなく夏紀の方へと駆け寄った。
「コロッケ、めっちゃ好きやねん。譲って」
 お願い! と優子は胸の前で手を合わせた。夏紀は一度自分の手の中の商品を見つめ、それから優子の方を見た。
「普通にイヤやねんけど」
「え、なんで? コロッケサンド好きなん?」
「別に、好きちゃうけど。でも、アンタにあげんのはなんかムカつく」
「何それ!」
 不満を隠そうともせず、優子は頬を膨らませた。
「別に好きちゃうんやったら譲ってくれてもええやんか」
「そう言われても、他人が欲しいって言ってたら、なんか知らんけど無性に食べたくなるねんなあー」
「うわ、性格悪っ!」
「はあ? 大体、こういうのは早いもん勝ちやろ? 先に取らんかったアンタが悪い」
「取る前に待ってって言ったやん」
「そんなん知らんし」
「よし、じゃあ平和的解決ということでじゃんけんしよう」
「イヤ」
「はあ?」
 よくまあこんなにくだらないことでここまで盛り上がれるものだ。棚の前で口論している二人が物珍しいのか、通り過ぎる生徒達が好奇の視線を送ってくる。それが恥ずかしくなり、梨子は思わず夏紀のセーラーの裾を引っ張った。
「そろそろ戻らないと、あすか先輩に怒られるんちゃう?」
 その言葉に、夏紀は不服そうにしながらも素直に首を縦に振った。梨子は棚にあるピリ辛ソーセージパンとやらを夏紀に押し付け、その手からコロッケサンドを奪い取った。
「これと交換ってことでいいやろ?」
「まあ、梨子が言うならそれでいいけど」
 渋々という具合に、夏紀が頷く。彼女が自分の言葉を素直に聞いたことに、梨子は少なからず驚いた。優子はというと、お目当ての商品を受け取り、何故か上から目線で腕を組んでいる。
「しゃあないなー。今日のところは梨子に免じて許したげる」
 ムッとした夏紀が何かを言い返す前に、梨子は強引にその背を押す。
「とにかく早くレジに行こう!」
 ずりずりとその場を離れる夏紀に、優子がからかうように舌を突き出した。それに対抗するかのように、夏紀もまた舌打ちをしている。
 二人の子供のようなやりとりを見守っていた優子の友人が、呆れた様子で梨子に告げた。
「なんか、梨子ちゃんってお母さんみたいだね」
 その一言のせいで梨子はしばらくの間、周りの友人からお母さんなどというあだ名で呼ばれることとなったのだ。

「ふーん、じゃあそのコロッケパンが仲違いの原因なん?」
 黙って話を聞いていた恵美が、そこで不意にこちらに尋ねてくる。廊下では相変わらず夏紀と優子が口論を続けていた。梨子は一度箸を置くと、うーん、と曖昧な言葉を返した。
「それが原因というより、元々馬が合わない者同士がばったりそこで会っちゃったって感じやけどね」
「あの二人、まさに犬猿の仲って感じやもんねぇ」
 でも、と恵美は言葉を続ける。
「ああやって言い争い出来る関係って、ちょっと憧れるけどね」
 その言葉に、思わず梨子は隣の友人の顔を凝視する。恵美は少し照れたように頭を掻くと、だってさ、と言い訳するみたいに言った。
「高校生になるとみんな変に大人になるから、揉め事とか避けるようになるやん? ああやって真っ直ぐに自分の意見をぶつける相手がいるのって、ちょっと羨ましい」
「……確かに」
 梨子は小さく頷き、卵焼きを口に運んだ。僅かに焦げ付いた卵の香りが口の中に充満する。廊下からは未だに騒ぎ声が聞こえてくる。優子も夏紀も、二人とも確かに梨子を友人として扱ってくれる。けれど、二人の間にある独特な空気の中に、梨子は決して立ち入ることが出来ない。
「あの二人、仲いいよね」
 そう言っても、きっと本人たちは全力で否定するだろうけれど。本気でぶつかりあう彼女達のことが、梨子はほんの少しだけ羨ましく思えるのだった。

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2015.2.13第8回「背伸び」

 吹奏楽部は女子が多い。裏を返せば、男子が少ない。部員総数八十名を超える北宇治高校吹奏楽部も、男子部員の数は全体の一割にも満たない。別に、不遇な扱いを受けるのは中学の頃と変わらないから慣れているけれど。着替えるからといって音楽室から追い出された男子部員達は、仕方なく廊下で時間を潰す。女子というのは男子の着替え中は平然と教室に入って来るというのに、その逆は絶対に許さない。まあ、下心があるかないかの差なのかもしれないけれど。廊下へと座り込み、秀一は胡座を掻く。
 吹奏楽部では体力作りにも力を入れている。腹筋や走り込みもやらされ、運動が得意でない部員達はヒイヒイと毎回悲鳴を上げている。学校指定のジャージはダサイが、せっかく買ったのに使わないと勿体ないので、秀一はそれを着ていつも走り込みに挑んでいる。他の先輩は市販のジャージとTシャツというパターンが多いが、体操服で走っている部員も少なくはなかった。
「なあ、こんなに女子がいんのに、ハーレムにならへんのおかしない?」
 しっかりと施錠された音楽室の扉を眺めながら、二年生のトランペットの先輩が呟いた。モテたい願望が強い、滝野だ。まーたこの人は変なことを言い出した、と秀一は呆れた視線を彼に向ける。その隣で、サックスの一年である瀧川がコクコクと頷いた。
「俺、高校行ったら勝手に彼女出来ると思ってたんすけど、全然そんなことないっすね。モテると思ってサックス始めたのに」
「大体さ、人数で考えたら俺ら一人辺りに対して女子十人ぐらいいるはずやろ? なーんで、誰も告白してこうへんわけ? 優しくしてんのにさあ!」
 憤る滝野に、ジャージ姿の後藤が目を細めた。
「下心丸出しやからやろ」
「はあ? うまく隠せてるわ」
「どこがだよ」

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 二年生の後藤卓也は寡黙ながら、周りに対してきちんと気配りが出来る先輩だ。かなり大柄な体格でお世辞にも整った容姿だとは言えないけれど、他の男子部員よりは女子から好意的に見られているように感じる。滝野も気配りは出来る人間だとは思うのだけれど、なんというか、押し付けがましいのだ。もう少しうまくやればいいのに、と秀一は内心で思っている。直接言ったらへそを曲げるから、絶対言わないけど。
「あー、ヤダヤダ。彼女持ちは発言に余裕がありますなー」
 滝野の台詞に、瀧川が食いつく。
「え、後藤先輩彼女いるんすか」
 秀一もこれには驚いた。照れているのか、後藤は眉間に皺を寄せて黙り込む。その隣で、滝野がその脇を思い切り小突いた。
「そうそう! こいつさ、こんな見た目のくせに彼女できんのめっちゃ早かったから」
「見た目は関係ないやろ」
「いーや、大アリやな! しかも、チューバの長瀬さんやで? あの隠れ巨乳の」
「マジっすか、やばいっすね。後藤先輩スゲエ!」
 瀧川がキラキラと目を輝かせる。その反応に、後藤はますます眉間に深い皺を刻んだ。好奇心を堪えきれず、秀一は後藤へと問い掛ける。
「それって、どっちから告白したんですか?」
 その問いに、何故か滝野がニヤニヤしながらこちらを見た。
「お、モテないお前も気になるか」
「モテないは余計ですけど」
 その言葉に、滝野はチッチと指を横に振った。
「ノット余計、バット重要」
「うっわ、英語とか先輩マジで頭いいっすね」
 瀧川が興奮したように叫んだ。褒められて調子に乗っているのか、滝野もまんざらでもない顔をしている。こいつらマジで馬鹿だ、と秀一は呆れた。
「で、どっちからなんですか?」
 騒ぐ二人から少し距離を取り、秀一は後藤に直接問い掛ける。彼は気まずそうに目線を宙に彷徨わせた後、小さく呟いた。
「……俺からやけど」
「やっぱりそういうのって、男からいくべきなんですかね?」
「さあ? でも、向こうからこないなら、こっちからいくしかないし」
「先輩、勇気ありますね」
「そうか?」
「そうですよ。俺、イマイチ踏み出せないですもん」
 その言葉に、後藤は探るような視線をこちらに向けた。その太い指が、黒縁眼鏡の端を僅かに持ち上げる。
「好きな奴、いるん?」
「え、あー、いやあ……」
 言葉を濁した秀一に、何故か滝野が噛み付いてきた。
「まさかお前、中世古先輩やないやろな」
「なんでそうなるんですか」
「中世古先輩って超美人っすよね! 田中先輩もやばいっすけど」
 こちらの会話を聞いていたのだろう、瀧川まで会話に参加してくる。滝野は腕を組んで何やら余計な事を考えているようだったが、やがて合点がいったかのように手を打ち鳴らした。
「分かった。一年の高坂や」
「高坂もやばいっすよね。この三人はマジでやばいっす」
「だからなんでそうなるんですか。っていうか瀧川、お前さっきからやばいしか言ってへんやんけ」
「だってマジでやばいし」
 瀧川はそう言ってケロリとした顔をしている。彼に語彙力が無いのは今に始まったことではない。突っ込む気力も失せて、秀一は深々と溜息を吐く。その反応をどう受け取ったのか、滝野は何故か同情するようにこちらの肩を叩いてきた。
「まあ、お前が誰が好きとかどうでもええけど。どうせ振られるし」
「何で勝手に決めてつけてるんですか」
「だってお前まで付き合い始めたらムカつくし。まあでも、マジで中世古田中ペアはやめとけ。あのレベルは相当の男やないと、告白しただけで他の女子から袋叩きにされるパターンや」
 滝野の言葉に、瀧川が納得したようにうんうんと頷いている。
「優子先輩とか、『この身の程知らずのクズめ!』って相手を蹴り殺しそうっすよね。滝野先輩が中世古先輩に告白したら、もう絶対やばいことになるっすよ」
「おい待て、そのヤバイはどういう意味や。俺は相当イイ男やねんから、他の女子も納得するに決まってるやろうが」
「先輩こそなに言ってんすか、やばいはやばいって意味っすよ」
 そう平然と答える瀧川に、さすがの滝野も脱力した。
「もうええわ。お前に聞いた俺がアホやったわ」
 その言葉に、秀一の隣にいる後藤がぼそりと呟く。
「お前は初めからアホやろ」
「はあ? お前彼女いるからって調子乗んなよ?」
「別に、乗ってない」
 この先輩、口数少ない割に結構毒舌やな。と、秀一は心の中だけで考える。単純に、口の悪さは二人の仲の良さの現れなのかもしれないけれど。
 後藤に対してなにやら一生懸命捲し立てていた滝野だったが、やがて疲れたのか文句を言うのを諦め壁へともたれ掛かった。それにしても、女子の着替えは何故こうも長いのか。音楽室の扉は、いっこうに開く気配がない。
「実はさ、俺最近密かに考えてることがあるんやけど」
 唐突にそう言って、滝野が真剣な表情を浮かべる。珍しく真面目な様子に、秀一はついつい彼の言葉に耳を傾けた。音楽室の中では、女子同士の華やいだ声が聞こえていた。なんすか? と瀧川がその言葉の続きを促す。
「音楽教師になったら、めっちゃモテるんちゃうやろか」
 アホや。と、秀一は思った。冷ややかな視線を向ける秀一と後藤に対し、瀧川だけが興奮したように拳を握る。
「確かに、滝先生って吹部以外の女子には超人気っすもんね」
「高校教師って、周りみんな女子高生ばっかなわけやろ? もうそんなもん、こっちの大人の魅力でメロメロになるに決まってるやん。そしたら、俺がおっさんでも女子高生と付き合えるやんか」
「いや、普通に犯罪やろ」
 後藤の至極冷静な突っ込みに、滝野は肩を竦めた。
「お前は夢がないな。あー、つまらん男や」
「っていうか、滝先生がモテるのは、先生だからとか関係なくあのルックスだからじゃないですかね? いくら音楽教師になっても滝野先輩じゃ……」
「ははっ、それ言えてる。まじウケる」
 言葉を濁した秀一の反対側で、瀧川が愉快げに手を叩いて笑っている。コイツには先輩に対する配慮というものがないのだろうか。案の定、ウケへんわ! と、滝野が瀧川の頭を叩いた。この二人のやりとりを眺めていると、漫才でも見ているような気分にさせられる。
「あー、失礼な後輩ばっかでムカつく。おい塚本、お前ポカリ買って来い」
「は? 嫌ですけど」
「うっわ、口答えとかないわー。じゃあ瀧川、お前行け」
「えー、めんどいっす」
「何こいつら、生意気すぎるんですけど」
「日頃の行いのせいじゃないですか?」
 そう言いながらも、秀一は立ち上がった。ここにずっといるのも退屈だし、自販機で飲み物でも買いに行くのはいいかもしれない。ぐっと伸びをすると、背骨辺りがボキボキと嫌な音を立てた。
「あ、後藤先輩、なんか飲みたいものあります?」
「えっ」
 突然の問いかけに、後藤は驚いたように身じろぎした。はあ? と滝野が不服そうな声を上げる。
「なんで後藤にはそんな親切なん?」
「そんなん、滝野先輩と後藤先輩じゃ、人徳の差がマジやばいからじゃないっすか?」
「人徳なら俺にもあるやんか!」
「はは、先輩本気ですか? まじウケる」
「ウケへんわ!」
 そう言って、滝野が再び瀧上の頭を叩いている。後方の二人の会話を完全に聞き流し、秀一は後藤へと視線を落とした。
「喉渇いてたら、なんかてきとーに買ってきますけど」
「いや、いい。ありがとう」
 そう言って、後藤は首を横に振った。そうですか、と秀一は素直に頷く。なぜだろう、少しだけ残念に感じる。その横で、滝野と瀧川が元気よく手を挙げていた。
「はいはいはい! 俺ポカリな」
「まあいいですけど……先輩、後で金返してくださいよ?」
「俺はミネラルウォーター! あの安い方やなくて、二十円高い方の」
「お前は蛇口ひねって水でも飲んでろ」
 その言葉に、瀧川が何やら背後で文句を言っている。それを完全に聞き流し、秀一は一階の自動販売機へと向かうことにした。

 吹奏楽部に入学してすぐの頃は、秀一はこの部活に対して不満ばかりを抱いていた。しかしサンフェスを終えて、怠惰だった部内の空気も確実に変わった。皆が同じ目標に向かって励む今の部の雰囲気を、秀一はかなり気に入っている。
「おや、塚本くん」
 不意に声を掛けられ、秀一はビクリと身体を揺らした。振り返ると、財布を抱えた滝がこちらを見ていた。慌てて、秀一は頭を下げる。お疲れ様です。その言葉に、滝は小さく笑った。
「そういえば、今日は筋トレの日でしたね。もう解散時間は過ぎてるでしょう?」
「そうなんですけど、まだみんな着替え終わってなくて。帰り用の飲み物を買いに来たんです」
「あぁ、そういうことですか。女子の着替えは時間が掛かりますからね。外周の方はどうでした?」
「暑かったので、ちょっとキツかったです」
「そうですか。確かに、そろそろ夏ですからね」
 そう言って、滝はグラウンドへと視線を向ける。釣られるように、秀一もまた同じ方向へと視線を送った。太陽の光は雲に遮られることもなく、運動場へと注がれている。大会前のサッカー部の部員達が、汗まみれになりながら駆け回っている。
「先生は、何を買いに?」
「あぁ、ちょっと缶コーヒーが飲みたくなりまして。たまにここの自販機のコーヒーが飲みたくなるんですよ」
「コーヒーですか」
 秀一はコーヒーが好きではない。苦いからだ。しかし、滝野はあのよく分からない液体を旨いと言ってよく飲んでいる。よくそんなもん飲めますねと言ったら、お前は子供舌だなと馬鹿にされた。大人になれば、自分もあの飲み物が美味しいと感じるのだろうか。滝みたいに。そんなことを考えながら、秀一は自販機を眺める。右端の方には、安っぽい宣伝文句と共に新作のジュースが並んでいた。
「塚本君は何を買いに?」
「あ、俺は先輩にちょっと頼まれて」
「そうなんですか。では、お先にどうぞ」
「えっ、そんな、悪いですよ。先生からどうぞ」
「いえ、私は別に誰も待たせてないので」
 そう言って、滝は半ば強引に秀一に先に買うように勧めてきた。この先生は音楽から離れると途端に優しくなる。あの指導中の豹変ぶりは一体何なのだろうか。そんなことを考えながら、秀一は言葉に甘えて先に買い物を済ませることにした。
 滝野のポカリと、それから瀧川の為のミネラルウォーター。商品が取り出し口へと落ちるたびに、秀一は一本一本ボトルを取り出す。その間、滝は後ろでずっと秀一が買い物を終えるのを待っていた。なんというか、ひどく気を遣う。やっぱり先に買ってもらえばよかった。今更そんなことを後悔しながら、秀一は自分用の商品を選ぶ。やはり、ポカリにしようか。ボタンを押そうとして、そこで何故か秀一はその隣のボタンを押した。予想外の自分の行動に、秀一は驚く。ガラガラと音を立てて、取り出し口にブラックコーヒーが落ちてくる。なんでこんなもん選んだんだ。そう思ったが、そのままにしておくわけにもいかず、秀一は冷え切った缶を指先で掴む。
「塚本くん、コーヒー好きなんですか?」
「あ、はい」
 滝に問われ、秀一は反射的に肯定した。多分、自分は今滝に対して見栄を張ってしまったのだ。飲めもしないブラックコーヒーを抱えながら、秀一はこっそりと溜息を吐く。普通にポカリを買っておけばいいのに、どうして意味もなく対抗心を見せてしまったのか。
 ペットボトルと缶を抱える秀一にニコリと笑い掛け、滝は自販機の正面へと立った。その指が、迷うことなく左端のボタンを押す。ミルクたっぷり、濃厚ブレンド。缶に書かれた文字を、秀一はただただ視線で追う。
「先生、それ好きなんですか? ブラックじゃなく?」
 その問いに、滝は少し照れたように苦笑した。
「アイスコーヒーにミルクを入れるのが好きなんです。砂糖やミルクを入れないと、苦すぎて飲めなくて」
「そ、そうなんですか」
 滝は缶を取り出すと、感心した様子で秀一に告げる。
「ブラックが好きだなんて、塚本くんは大人ですね」
 その言葉に、秀一は思わず赤面した。なんというか、自分がひどくガキに思えたのだ。
「では、私は戻りますね。塚本くんも練習頑張ってください」
「あ、はい。ありがとうございます」
「それでは」
 そう言って、滝はそのまま職員室の方へと立ち去っていった。その広い背中を見つめ、それから秀一はもう一度自身の腕の中にある缶コーヒーを見下ろす。とりあえず、これは滝野に押し付けよう。秀一はポカリのキャップを捻り、その中身を一気に飲んだ。渇いた体に、水分が染み渡っていく。やっぱり、自分にはこれぐらいがちょうどいい。大人にはまだなれそうにない。軽くなったボトルをもう一度腕に抱え込み、秀一は音楽室へと駆け出した。

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2015.2.27第9回「こんぷれっくす」

 緑輝は自分の名前が嫌いだった。これ、なんて読むの? 変わった名前だね。そう言われる度に、緑輝はその場からすぐさま逃げ出したくなる。小学校でも中学校でも、出席名簿を見ながら教師が言葉を詰まらせるのはよくあることだった。それ、サファイアって読むんです。そう自分で言うのは一種のお約束みたいなものになっていて、クラスメイト達はその度にくすくすと笑っていた。多分、悪気はないんだろうけれど。笑われるたびに恥ずかしくなって、緑輝はいつも名前を呼ばれる時は俯いていた。それもこれも全部、こんな名前をつけたパパとママのせいだ。
「でも、うちはカッコイイ名前やと思うけどね」
 そう言って、葉月は無邪気な笑顔を見せた。ほんまに? と緑輝は頬を膨らませる。椅子からはみ出た足が床まで届かなくて、緑輝はぶらぶらとつま先を宙で揺らす。目の前に座る葉月は、平然とした様子でメロンソーダーを赤いストローで飲んでいる。グラスには気泡が溜まっていて、彼女がストローを動かす度にぶくぶくと泡が浮き上がった。
「でも、なんで緑のお母さん達はそんな名前つけたん?」
「他の子とは違う、特別な子に育って欲しかったんやって」
「へぇー」
「でもでも、それにしたってこのセンスはないと思わん?」
 唇を尖らせる緑輝に、葉月は苦笑する。せっかくの日曜日だというのに、今日は珍しく部活がお休みだった。緑輝は休日がちょっとだけ苦手だ。部活があるのが当たり前な生活を送っているものだから、与えられた時間をどうやって使えばいいのか分からなくなる。結局、休みの日には葉月や久美子といった吹奏楽部の友達と一緒に遊ぶことになるので、部活があってもなくても過ごし方には特に変化がないような気がする。
「せめて青に輝くやと思わへん? 緑に輝くって、それエメラルドやん!」
「確かに、言われてみたらそうやね」
「でしょー? ママったら絶対テキトーに名前つけたんやって」

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 銀色のナイフが厚みのあるパンケーキへ沈み込む。表面に乗ったバターがとろりと流れ、鉄板の上でじゅうと音を立てた。一口分に切り分け、緑輝はそれをナイフで突き刺す。柔らかなケーキは口の上でじゅわりと溶け、咀嚼した途端に鼻からバターの香りが抜けていった。
 四条の通りにあるパンケーキ屋は、緑輝のお気に入りのお店だった。服を買いに来たついでに、二人はこのお店へと立ち寄ったのだ。葉月はこちらの話をきちんと聞いているのかいないのか、相槌もそこそこに夢中でケーキを食べ進めている。
「もし緑が男だったらね、大きく輝くって書いてダイヤって名前つける予定だったんだって」
「それはまた、凄い名前やなー」
 ゴクリとソーダを喉に流し込むと、葉月は呆れたように頬杖を付いた。彼女の服装はとてもボーイッシュで、緑輝の私服とは全然違う。緑輝がカッコイイ服を着ても子供が背伸びしているようにしか見えないが、そういったスポーティーな服装も葉月は平然と着こなしている。よくよく考えれば、久美子だって葉月だって自分よりはずっと背が高い。もっと背が高ければ、今よりもたくさん可愛い服を着こなせるのにな、と緑輝は小さく眉尻を下げた。
「葉月ちゃんは、自分の中で嫌やなーって思うとこってある?」
「嫌なとこ?」
「うん。緑にとっての名前みたいなやつ」
 その言葉に、葉月はうーんと考え込んだ。腕を組み、その視線を宙へと逸らす。
「声がでかいところかな。あとは、肌が黒いとこ」
 そう言って、彼女はパーカーの袖を捲くって見せた。腕の途中には境界線みたいに肌の濃さが分かれている場所がある。テニス部だった時の名残だと、確か以前に彼女が話していた。ユニホーム焼けらしい。
「日焼けかー」
 緑輝は自分の手の甲を蛍光灯に掲げて見る。緑輝も吹奏楽部のマーチング練習では外で活動することが多かった。夏の間は日焼け止めを塗ってもすぐに汗で落ちてしまうから、日焼けには大変苦労させられた。
「うちも、高坂さんみたいに美人やったら良かったのに」
 そう言って、葉月が机へ顎を乗せる。
「高坂さんはほんま美人やもんね、頭も良いし」
「自分があれぐらい美人やったら、好きな人とかできてもすぐ告白出来ちゃうなーって思う。うち、自分の顔があんま好きちゃうし」
「えー! なんで?」
 思わず大声になってしまった。周囲から視線を感じ、緑輝は慌てて自身の口許を手で覆う。
「葉月ちゃん可愛いやん。なんでそんなこと言うん?」
「はいはい、フォローありがと」
「フォローやないって。緑、葉月ちゃんのこと可愛いなーって思うもん」
 そう唇を尖らせるが、葉月はまともに取り合ってくれない。葉月は多分、褒められることが苦手だ。緑輝の心の底からの言葉も、すぐに聞き流してしまう。
「女の子って、すぐそうやって何でも可愛い可愛いって言うやん。基本的に、うちそういうの信用してないから。褒められて調子乗んのも恥ずかしいし」
「えー、緑は本気やで?」
「緑の可愛いも信用ならんからなー。何でもかんでも可愛い言うやんか。この前は後藤先輩にまで可愛いって言ってたし」
「えー、後藤先輩可愛いやんか。なんか丸いし」
「あんなごついの捕まえて可愛いっていうのは緑ぐらいやで」
「そう? 可愛いと思うねんけどなー」
 後藤卓也は低音パートの副リーダーだ。寡黙な先輩であるが、根は優しい人である。いつもムスっとしているように見えるが、機嫌が悪いわけではなくそれが彼の標準の表情なのだ。だからこそ、梨子と話している時にちらりと見せる彼の笑顔はとても可愛らしいものに思える。梨子と卓也のようなカップルになることが、緑輝の高校生活での密かな目標なのだ。
「うちはさ、香織先輩みたいになりたいねん。ああいう、ほわほわ系? みたいな」
「香織先輩も可愛いねー。緑、あの先輩大好き」
「先輩の着てる服とかめっちゃ可愛いもん。うちが着たら絶対変になっちゃう」
「そんなことないって。葉月ちゃんもああいう服着ようよ」
「無理無理無理、恥ずかしい」
「ダメ! 今から買いに行こう!」
 残ったケーキを呑み込み、緑輝は席を立ち上がった。葉月は気の進まない顔をしているが、そんなものは無視だ。
「一着ぐらい可愛い服持っといた方がいいって。今日はせっかく買い物に来たんやからさ」
「まあ、そうかもしれんけど」
 そう言いながら、葉月は渋々立ち上がる。中身を飲み干したグラスの底に、溶けかけの氷が転がっている。緑輝は膨らんだお腹をぽんと叩くと、それから葉月の方を見た。
「なんか、お腹いっぱいになっちゃった。テキトーに歩いて、カロリーもついでに消費しよ!」
「はいはい、それは別にええけどさ」
「じゃあ、まずは寺町の方に行こうね」
 緑輝はにっこりと笑うと、葉月のパーカーの袖を引っ張った。葉月は嫌そうな顔をしているけれど、決してそれに文句を言ったりはしない。髪から覗く彼女の耳がちょっとだけ赤いことに、緑輝はすぐに気が付いた。多分、照れているのだ。少し気恥かしそうに目を伏せるその顔は本当に可愛くて、緑輝は自身の心臓がぎゅっと締め付けられるのを感じた。葉月は本当に可愛い。緑輝は心の底からそう思っているのに、どうして彼女はそれを分かってくれないんだろう。
「葉月ちゃんってば、頑固やねんから」
 溜息混じりの緑輝の台詞に、葉月はただ怪訝そうな顔で首を捻るだけだった。

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2015.3.17第10回「それじゃあ、またね」

太陽がゆっくりと沈んでいき、山の向こうへと消えていく。麗奈は目を細め、静かに息を吐き出した。駅のホームを通り抜け、改札を過ぎる。周囲には多くの学生の姿があったが、その中に知り合いはいなかった。
テスト前であることを理由に、今日は部活動がなかった。重いスクールバッグを提げながら、麗奈はぼんやりといつもの帰り道を歩く。朝に雨が降っていたため、今日は自転車を家に置いてきた。分厚い雲も昼過ぎになるとすっかり姿を消し、夜色の空のあちこちで小さく星が瞬いている。
「麗奈、」
声を掛けられ、麗奈は咄嗟に振り返った。見ると、息を切らした久美子がこちらに駆け寄ってきていた。白い手のひらがひらひらと振られる。彼女が足を動かす度に、紺色のスカートが揺らめいた。
「どうしたん? そんなに走って」
「いや、さっきホームを歩いてたら麗奈を見掛けたからさ。一緒に帰ろうかと思って」
そう言って、久美子は少し照れたように頭を描いた。そう、と麗奈は素っ気ない言葉を返す。その反応に萎縮したのか、久美子はばつの悪そうな表情でこちらの顔を覗き込んだ。
「ダ、ダメだった?」
「別に、ダメとか言ってないよ」
「そっかー、良かった」
久美子はホッとした様子で、安堵の息を吐いた。何だかペースを狂わされて、麗奈は意味もなく自身の髪を耳に掛ける。

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京都大会が終わってからというもの、久美子と麗奈は時折一緒に帰るようになっていた。乱れる息を抑えるように、久美子が自身の胸を押さえる。夏用のセーラー服は白を基調としており、胸元にはスカートと同じ色をしたリボンが揺らめいていた。
「次は関西大会だね」
横断歩道の前で立ち止まり、久美子がこちらへと語りかけてくる。麗奈は過ぎていく車に視線を向けながら、なおざりに頷いた。
「これからは猛特訓やな」
「大阪とか、すっごく強いしね」
「あそこらへんの強豪校に勝たなあかんわけやし、今までの練習やったら足りひんやろうな」
「うん。もっと頑張らなきゃね」
そう言って、久美子はぎゅっと拳を握った。無意識の内に、麗奈は口許を綻ばせる。
麗奈は自分が社交的な人間ではないことを自覚していた。それは別に最近に限った話ではなく、物心ついた頃から自分はそういう人間だった。自分の意見が誰かの気分を害すると分かっていても、それが正しいと思っていることであれば曲げることが出来ないのだ。目の前で笑う久美子のように、自分も他の人間に対して柔らかく接することが出来れば、きっと敵を作ることもなく学校生活を送っていけるのだろう。そう頭では確かに認識しているはずなのに、どうにもそうやって振舞うことが我慢できない。周囲に流されてしまうことに耐えられないのだ。そんな麗奈の性格に愛想をつかす人間は多くいた。いや、そもそも愛想をつかされるほど一緒にいた友達なんて、麗奈にはいなかったのかもしれない。小学校でも中学校でも友達同士で普通に会話することはあったけれど、特定の子と一緒にいることはあまりなかった。好きでもない子と、ただ一人は嫌だという理由で一緒にいられるほど、自分は大人ではなかったのだ。
「そういえばね、今度の調理実習でうちの班はクッキーを焼くことになったの。麗奈は何つくるの?」
「アタシのとこの班は、確かバームクーヘンやったような……」
「バームクーヘン? そんなの作れるの?」
久美子が驚いた様子で目を見開く。茶屋を通り過ぎ、人通りは一気に少なくなる。流れる宇治川の音に耳を傾けながら、麗奈は肩を竦めた。
「わかんないけど、班の子達は張り切ってた。くるくる回しながら焼くんやって」
「へえ、凄いね。見てみたい」
「クラスが一緒やったら見せてあげられてんけどな」
「麗奈は進学クラスだもんね」
そう言って、久美子は残念そうに眉尻を下げた。進学クラスで入学した麗奈と普通クラスで入学した久美子が同じクラスに割り振られることは絶対にありえない。麗奈は今のクラスメイト達のことも結構気に入っているのだけれど、もし可能なら久美子達と同じクラスになってみたかった。
「バームクーヘン、上手く出来たら久美子にあげる」
「ほんと? そしたらこっちのクッキーも麗奈にあげるね。交換しよう」
「うん」
楽しみだね、と笑う久美子に、麗奈はそっと目を伏せる。久美子はとてもいい子だ。自分と違って優しいし、他人への気配りもきちんと出来る。他の子の悪口も言わないし、一緒にいてなんだか安心出来る。それに、久美子には友人がたくさんいるのに、わざわざ麗奈のところにまでやって来てこうして気さくに話しかけてくれる。麗奈にとって久美子と一緒にいる時間は凄く貴重で、キラキラした宝物みたいなものなのだけれど、久美子にとってはどうなのだろうか。そう疑問に思うけれど、麗奈は決してその問いを口に出したりはしない。他の人間が自分に対して何と思おうがどうでもいいけれど、久美子の本音を知ることは麗奈にとって恐怖だった。彼女にだけは、嫌われたくないと思う。ありのままの自分を受け入れてくれる、唯一の相手だから。
「あれ、そういえば普通にこっち来ちゃったけど、麗奈の家って逆方向じゃない?」
宇治神社前で立ち止まり、久美子がハッとした様子で麗奈の顔を見る。なんでもない顔を繕い、麗奈は平然と答えた。
「大丈夫。この道からでも帰れるから。ここの階段登って、そのままいつの道に合流したらいいだけやし」
「へえ、そうなんだ」
「そうそう」
本当は、もう少し久美子と話したかったから遠回りしただけなのだけれど。そんな考えを微塵も感じさせないように、麗奈はいつもの澄ました表情で久美子の方を見遣る。久美子はこちらの台詞に全く疑問を抱いていない様子だった。
「じゃ、私こっちだから」
赤く塗られた橋を指差し、久美子が手を振る。うん、と頷き麗奈もまた手を振り返す。
「それじゃあ、またね」
「うん、また」
別れの挨拶を交わし、久美子は軽やかな足取りで階段を上っていく。麗奈はその後ろ姿が完全に見えなくなるまで、ぼんやりとそこに立ち尽くしていた。右手に提げたトランペットケースが、夜の空気と同化している。波の音が静かに響き、それをかき消す様に遠くから子供達の笑い声が聞こえていた。
「……帰ろう」
麗奈はぐっと伸びをし、それから階段へと足をかけた。茶色のローファーがきゅっと甲高い音を鳴らす。ふと振り返ると、久美子の渡っていった朝霧橋がよく見えた。赤く塗られた鮮やかな欄干も、夜になると闇の中にしっとりと溶け込んでいる。冷静になって考えてみると、久美子はいつも宇治橋を渡って家に帰っていた。それなのに、今日はわざわざ朝霧橋を渡って帰っていた。一体、なぜそんなことをしたのだろうか。その理由は、多分麗奈が抱いていたものと同じだろう。
「……考えることは一緒か」
いつものようにそっけなく呟き、麗奈は静かに足を進める。彼女の表情は普段通り澄ましたもので、けれどもその足取りは普段よりほんの少しだけ軽やかだった。

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2017.10.04第11回「だけどあのとき」

あすかへ

明日はついに卒業式だね、なんて書こうと思いましたが、この手紙をあすかが読んでいるころにはもう卒業式は終わってるのかな。晴香が大泣きしそうで、いまからちょっと心配です。
私も、あすかも、晴香も、春からはみんなバラバラになっちゃうんだね。卒業旅行でまた会うとは言え、それでもやっぱり寂しいです。今年一年は部活ばかりの生活だったから、練習がなくなってなんだか退屈な感じがします。あすかは勉強で忙しかったからそうでもなかったかな。こうして私が手紙を書こうと思ったのは、卒業式が終わったらあすかはさっさと逃げちゃうような気がしたから。ああいう空気、あんまり好きじゃないもんね。本当は直接いろんなことを話したいなって思ったけど、あすかってこっちが真面目に話そうとするとはぐらかしてばっかりでしょ? だから、手紙ならちゃんと読んでくれるかなって思って。
 三年間いろんなことがあったけど、やっぱり最後の一年間は本当に時間の密度が濃かったような気がする。滝先生が来て、北宇治はどんどんと変わって……晴香もずいぶんと変わったよね。自分に自信がないのは相変わらずだけど、でも、強くなったなって感じがする。本人に言っても認めないだろうけど。
 私はどうだったのかな。一生懸命頑張ったつもりだけど、自分のことはよくわかりません。ただ、楽しい学校生活だったことは間違いないかな。後悔もほとんどない、そういう選択をしてきたから。だけどあのとき、あすかの質問を否定してあげられなかったこと。それだけは、いまでもずっと後悔しています。

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「中世古さん、好きです。付き合ってください」
 普段よりも一段低く発せられた声は、目の前に座るあすかの唇によって紡がれたものだった。彼女はふざけた態度でポテトチップス二枚を指に挟むと、パクパクと上下させている。もう、と香織は頬を膨らませた。
「茶化さないでよ」
「茶化してへんって。たまたま目撃した告白の現場を再現してるだけ」
「それを茶化してるって言うの」
 香織の指摘に、あすかは肩をすくめただけだった。紺色のセーラー服の肩口に、赤い紅葉がのっている。香織が手を伸ばしてつまみ上げると、あすかはその口端を吊り上げた。
「小さい秋見ーつけた」
「見つけたのは私やけどね」
「でもうちの肩にのってたわけやん? つまり、うちが香織に秋を運んできてあげたの」
「ふふ、運ばんくても頭の上にいっぱいあるよ」
 頭上を指差すと、あすかはわざとらしく唇をとがらせた。ベンチの上に足を広げ、顔だけを空へと向ける。香織の家の近くにある公園はそこそこの広さがあった。長い滑り台が売りで、広いグラウンドを囲むように遊歩道が作られている。ずらりと並んだ木々は赤い葉を少しずつ散らせ、コンクリートでできた灰色の道もこのときばかりは赤や黄に染まっていた。香織とあすかが北宇治高校に来てから、一年目の秋だった。
「やっぱポテチは塩一択ですなー」
 袋に手を突っ込み、あすかは先ほどからポテトチップスを口に放り込んでいる。コンビニで二人が買ったお菓子はこれだけだった。部活が終わったあと、二人だけでの寄り道が香織の日々の楽しみだった。田中あすかを独占している、その事実が香織にささやかな優越感を与えていた。
「……低音の一年生、ついにあすかだけになったね」
 付着した塩を手で払い、香織はそっと舌の上にチップスをのせた。あすかが好きだというメーカーの商品は、香織にはいささかしょっぱすぎる。
「もう聞いたの? さっすが」
 ざく、とあすかの歯がポテチを噛み砕いた。スカートのプリーツを手で整え、香織は静かに顔を上げる。あすかの赤いメガネフレームが、外灯の光を浴びて光っていた。
「なんであのユーフォの子、辞めちゃったの?」
 香織の問いに、あすかはクツリと喉を鳴らした。
「なんでやと思う?」
「んー、誰かと喧嘩したとか?」
 ノンノン、とあすかは芝居じみた仕草で人差し指を左右に振った。
「チューバの子は『思ってたのと違った』って言って一週間で辞めたし、コントラバスの子は『空気に耐えられへん』ってコンクール前に辞めた。で、さすがにこれ以上辞めないでしょって思ってたのに、ついこのあいだユーフォの子が辞めた。『ここにいる価値がない』やってさ」
「引き止めなかったの?」
「なんでうちが引き止めなあかんの」
 首を傾げるあすかに、香織は言葉を続けることをためらった。
「……だって、パートに一年生一人だといろいろつらいでしょ」
「べつに? うちはただ、ユーフォが吹ければそれでいいから」
 そう言って、あすかはケラケラと作り物めいた笑い声を上げた。
「だいたいさ、辞めてく子を無理に引き止めたってしゃあないでしょ。何か目標がある部活ってわけでもないんやし。意味なくダラダラ時間を浪費するくらいなら、さっさと辞めたほうが賢いってもんよ」
「そうは言うけど、低音は辞める子多すぎって言われてるよ」
「そう? たまたまじゃない?」
「トランペットの先輩たち、あすかのせいだとか変な噂立ててる。そんなわけないのに」
 入学時から、あすかは異質な存在として周囲の人間に認識されていた。進学クラスのトップで、類まれな容姿を持つ。彼女に対する部員たちの評判はさまざまだ。明るく陽気。寡黙で陰気。つねに相手を見下している。相手に対していつも誠実。優しい優等生。冷酷で自己中心的。噂から構成される田中あすか像は、出来の悪いモンタージュ写真みたいに滅茶苦茶だった。
「あながち噂じゃないかもよ?」
 ベンチの上であぐらをかき、あすかはなんでもないことのように言う。責めるように、香織は大きくため息をついた。
「そうやってすぐ悪役ぶるの、よくないと思う」
「悪役ぶってると思うのは、香織が優しいからとちゃう? うちはほんまもんの悪人なのさぁ」
「また嘘ついて」
「お、名探偵香織には真相がわかっちゃってるん?」
「真相かは知らないけど、低音で辞める子が多いのは辞めても許される空気やからかなって思ってる。その他のパートの子は、言い方は悪いかもしれないけど――」
「飼い殺し?」
 香織の台詞を、あすかが笑いながら引き取った。香織は眉間に皺を寄せる。
「北宇治の部活のあり方が間違ってるとは言わないよ? 学校生活は部活だけじゃないし、上を目指さず緩く楽しくやろうって言うのもわかる。でも、いまの活動って本当に楽しいのかな? 縦の関係にやたらと厳しくて、先輩はいいけど後輩はダメってことが多すぎる気がする。もしトランペットパートだったら、きっと部活を辞めたいって言っても先輩が許してくれないよ」
「吹部そのものの人気のおかげで人数は多いけど、北宇治はいろいろ崩壊してっからねぇ」
「いまはいいけど来年……もし、すごくやる気のある子が入ってきたら、私はその子たちに向かって胸を張れるのかなって不安になる。今年のコンクールだってさんざんだったし」
「いまから後輩の心配? 真面目やねぇ、香織は」
 あすかはポテトチップスの袋を手に取ると、その中身を口へと流し込んだ。塩からくなった唇を舌で舐め、彼女は空になった包装をくしゃくしゃに丸める。銀色のアルミフィルムが派手なパッケージの奥に押し潰された。
「グダグダ悩んだところで先輩の考えが変わるわけじゃあるまいし、放置すんのがいちばんいいんじゃない? 香織が悩む必要はナッシーング」
「そうは言うけど、」
「来年にはまた部の流れも変わるかもよ? 先輩たちも、うざい後輩はさっさと辞めてまえーって言うかもしれんし」
「それだと状況が悪化してない?」
「最初から改善するとは言ってへんねんなー、これが」
「屁理屈」
「ま、そういう考え方もあるってこと。うちはここが底やとは思ってへん」
 そこ、と発音するとき、あすかはもったいぶった動きで人差し指で地面を示した。ベンチの裏に設置された外灯が、チカチカと震えながら点灯する。
「来年、もっとひどくなるって可能性はある。いまの二年生はとがった無能ばっかやし」
「辛辣だね」
「だって事実やもーん。ああいうさ、他人を虐げることでしか自分の存在価値を感じられへん人たちって、なんで発生するんやろね。ほんま、脳みそ空っぽでかわいそう」
「……あすかはこういう環境を自分で変えようとは思わないの? あすかだったら多分、変えられるよ。この部活を」
 拳を握り締め、香織はまっすぐにあすかの顔を見据えた。あすかは優れた人間だ。それは美貌だとか才能だとかそういった部分とはまた別の、根幹のスペックの話だった。もしもあすかが真剣に部活改革に取り組めば、これまであすかを嫌っていた人間ですら従わざるを得なくなるだろう。この部にいる誰しもが、本当は本能的に理解しているのだ。田中あすかは特別な人間である、と。
 香織の真剣な視線を受け止め、あすかはキョトンと目を丸くした。その唇が、ゆるやかに弧を描く。
「あほくさ。なんでうちがそんなことしなあかんの」
 一笑し、あすかはひらりと手を振った。
「そういうのは熱血君に任せてりゃいいんやって。だいたい、うちは同じパートの子らが辞めてくのですら引き止めへんようなやつやのに。あ、香織が辞めるって言い出したらさすがに止めるけどね」
「どうして?」
「そりゃあ、香織は上手やから。上手い子は部におって損にはならんでしょ」
 こうしたあけすけな言い方が、余計な敵を作るのだ。聡い彼女がわざわざこうした発言をするのは、相手が自分から離れるかどうかを試しているのだと香織は勝手に推測している。最初に出会ったときから、あすかはこういう人間だった。
 腕を伸ばし、ベンチの上に手のひらを置く。そのまま静かに距離を詰めると、あすかはこちらを見て頬を緩めた。長い黒髪が、秋風のなかを泳いでいる。
「私さ、あすかのこと好き」
「いきなり何? ついに愛が抑え切れんくなっちゃったわけ?」
「そうやっていっつも冗談にするけど、あすかはね、自分がちゃんと愛されてるって理解したほうがいいよ」
「愛されてるって、誰から?」
「私から」
 香織の言葉に、あすかはなんとも言えない顔で唇をへの字に曲げた。
「……そういうこと真っ向から言ってくるの、ザ・香織って感じ」
「嫌だった?」
「鼻につくけど嫌いじゃない」
「ならよかった」
 その身体にもたれかかっても、あすかは抵抗しなかった。ローファーの踵を地面に立て、香織は彼女の端整な横顔を見上げる。繊細な飴細工にも似た長い睫毛は、力強く上を向いていた。
「香織はさ、なんでうちのこと好きなん?」
「逆に聞くけど、あすかのこと好きにならない人なんている?」
「それ、本人に言いますか」
「純粋にそう思ってるの、私は。嫌ってるように振る舞ってる人だって、あすかから優しくされたらきっとコロッと態度を変えるよ。みんな、自分のものにならないからって警戒してるだけ。それぐらい、あすかはすごいの。特別だから」
「特別ねぇ」
 頬杖をつき、あすかはぼんやりとつぶやいた。赤いフレーム越しにのぞく瞳が、遠くに焦点を結ぶ。無人のグラウンドは、乾いた砂で埋め尽くされていた。

 

「私、ここまでほかの誰かと仲良くなりたいって思ったことなかったの。一生で、多分あすかだけ」
 香織は、自分が他者から愛されることを知っていた。クラスで香織が困っていると誰かがすぐに手を差し伸べてくれる。授業の課題範囲がわからなければ誰かが教えてくれたし、自由にグループを決めなければいけないときには必ず誰かがいちばんに自分を指名した。そのたびに、香織は自分に親切にしてくれる相手にきちんと誠意で応えるようにしていた。自分を愛してくれる周囲の人々を、香織は心から愛していた。
 だけど、あすかは初めから違った。本当に、何もかもが違ったのだ。双眸へ柔らかな影を落とす黒髪や、しなやかに伸びた細い指。その一つひとつが光を放ち、香織を強烈に惹きつけた。あすかは香織に、無条件の親愛を与えなかった。それでもそばにいたいと思ったのは、香織があすかに求めているものが単なる親愛などではなかったからだ。
「熱烈な告白ですこと」
 茶化すように笑い、あすかは脚を組み替えた。その唇が、片側に引っ張られる。唐突に、あすかの顔が香織の顔へと近づいた。その瞳が、狩りをする猫みたいにきらりと光る。
「じゃ、香織はさ、うちが特別な人間じゃなかったら、好きじゃなくなるん?」
 そんなことない、と即座に否定しなかったのは、あすかの台詞を自分のなかでうまく噛み砕くことができなかったからだった。香織にとってあすかという存在そのものが特別なのだから、あすかが特別でなくなるなんてことはありえない。
 ごくりと喉が上下する。唇が震え、うまく言葉が出なかった。あすかの瞳に失望の色がよぎったのがわかる。レンズ越しに映る両目を細め、彼女はへらりと薄っぺらい笑みを浮かべた。
「そろそろいい子は帰らなあかん時間やな。カラスが鳴ったら帰りましょーってね」
「あすか、私、」
「ちょっともう、変な顔せんといてよ。素敵なお嬢さんには笑顔が似合いますぞ」
 おどけた口調で告げ、あすかが香織の頬をなでる。その指の冷たさに、香織はいまにも泣きそうになった。自分の前ではそんなふうに道化を振る舞わないでほしい。そう口に出せば、多分あすかはそれに従ってくれる。でも、きっとそれでは駄目なのだ。あすか自身の意思でなければ、そこになんの意味もない。
 くしゃくしゃに丸まった包装紙をナイロン袋に押し込み、香織はベンチから立ち上がった。熱をはらむ瞳を見開いたまま、香織はいまだ座ったままのあすかを見下ろす。
「明日も一緒に帰ろうね」
 そう力を込めて言うと、あすかは眉尻を下げて苦笑した。どんだけうちのこと好きなん。そう揶揄する彼女もまた、いまにも泣き出しそうな目をしていた。

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著者プロフィール

武田 綾乃 (たけだ あやの)
1992年、京都府生まれ。2013年、第8回ラブストーリー大賞隠し玉作品『今日、きみと息をする。』(宝島社文庫)でデビュー。他の著書に「響け! ユーフォニアム」シリーズ(宝島社文庫)、『石黒くんに春は来ない』(イースト・プレス)がある。

他の作品 『今日、きみと息をする。』