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暗黒自治区

試し読み

プロローグ

一二月 東京 師走も終盤を迎え、かつての黄金時代ほどではないもののそれなりの賑わいを見せる〈サラリーマンの聖地〉は、今年最後の飲み会に向かう人々でごった返していた。冬物のコートやダウンジャケットで着膨れをしたその誰もが、不安を押し殺す事だけが目的の、空虚でどこか必死な笑い声を上げている。この十年近くですっかりこの地に定着してしまった笑い方だ。 佐野由佳は広場の端に展示されたC11 292蒸気機関車の前に立ち、行き交う人々が寒さに強張った口元から不織布のマスク越しに吐き出す白く凍った息を見ていた。夏が暑い年は冬が寒いと聞いた事があるが、いくら何でもこの頭痛を起こすほどの寒さはやりすぎではないだろうか。蚊も鳴りを潜めたほどの今年の猛暑の記憶から、今由佳の身体を凍らせている寒さに意識を転じると、それだけでヒートショックを起こしそうな気がする。 陽が落ちてからの時間が過ぎるにつれ、気温が更に下がってきた。じっと立っている身体を徐々に包み始める冷気。体温を足元からゆっくりと吸い取っていく底冷えしたアスファルト。由佳は軽く足踏みをしながら、目から下を覆うマスクの位置を直した。 電飾が施された蒸気機関車の前に観光客らしい家族連れが駆け寄ってくると、スマートフォンと自撮り棒を駆使して大騒ぎしながら写真を撮り始める。明らかに内地人だが、巻き舌を多用した方言はどこのものか判然としない。皆色白で、男性の体格が良いところを見ると大連あたりの東北人だろうか。何しろ東北の訛りはきつすぎて、標準語である普通話を話しても南方の出身者とは満足な意思疎通が出来ないほどだ。 由佳は再びマスクの位置を直し──警戒した時の癖だ──観光客たちのスマートフォンカメラから顔を背けると、逃げるようにSLの前からそのすぐ横にある大型ビジョンの脇に移動する。観光客たちは、長い髪を後ろにまとめたその長身の女性が気を遣って自分たちのフレームから退いてくれたと思っただろうが、実際のところ由佳にとってそんな観光客の写真など知った事ではない。自分がこの時間ここにいたという証拠が写真で残ると、困るのは由佳自身なのだ。 示し合わせたかのように等間隔でSLの周辺に立っている人々は、それぞれの待ち合わせ相手と落ち合い、次々に入れ替わっていく。 周囲のカップルや家族連れを見ているうちに由佳は、昨年の今頃はまだ家にいたなと少し感傷的な気分になった。ここ数年間は由佳が荒れていたせいもあり、家族との食卓ではただ時計の針が進むのを待ちながら必要最低限の時間を過ごすだけだったが、子供の頃はクリスマスや年末、正月とイベントが続くこの時期には一日中はしゃいで過ごした気がする。 それがまさか、二十歳にしてプロの犯罪集団の一員となり、こんな年の瀬に犯罪者デビューをするとは。 寒い上に小腹が空いてきた。子供の頃、年末年始に食卓に出た、好きな食べ物の数々──クリスマス恒例の、チェーン店のフライドチキンではない手作りのローストチキン、おせち料理に必ず入っていた、梅シソを挟んだかまぼこが脳裏に蘇ってくる。子供なのに酒飲みの舌だと、家族に笑われたものだ。 その思い出に続き、普段は意識の隅に追いやっている淋しさと後悔が、満ちてくる潮のように少しずつにじり寄ってきた。 いけない。我に返った由佳は、マスクの下の頬を引き締める。余計な事を考えている場合ではない。集中しないと。 一度浮かんだ、胸を刺すような感情を振り払うのは容易ではない。とにかく何か気を紛らわせるものを見つけなければ。広場に顔を向けながら、目だけ動かして大型ビジョンの画面を見る。流れているのは英語の報道番組で、年末とあって今年の主な出来事をダイジェスト的に紹介していた。武漢から広まった新型肺炎のパンデミック。ローマで開催が予定されていた夏季オリンピックとパラリンピックの、史上初の延期。東アフリカ、アラビア半島、アジアの一部を食い尽くしたバッタの異常発生。東アジアを襲った水害。この列島に目を転じると、異常な長梅雨とそれによる農作物の不作。記録的猛暑……ろくな話題がない。 由佳は、観ているとますます気が滅入ってくる報道番組から視線を広場に戻すと、スニーカーに包まれた爪先を冷やさない為にその場で軽く足踏みをする。あまり長時間同じところにいないようチームリーダーから言われてはいたものの、初めての〈ミッション〉に緊張してじっとしておられず、結局待ち合わせ時間の三十分前には到着し、ボンバージャケットにブラックジーンズ、そしてスニーカーという軽装で突っ立っていたのだ。身体が固まりかけている。 広場の反対側、高架線に入線する山手線の車体が見えた。チームリーダーの樋本保雄がそろそろこの時間に新橋駅に到着するはずだ。あれに乗っているのではないだろうか。由佳は、高まってくる緊張に胃の底が少し引き攣るのを感じながら、新橋駅の日比谷口を凝視していた。 樋本は本当に先ほどの山手線に乗っていたらしく、数分後にその長身が姿を現す。黒いレザージャケットに焦げ茶のコットンパンツ。周囲に比べてやや薄着に見えるが、防寒よりも機動性を重視し、街中で目立たない格好となるとどうしてもこうなる。 いよいよ本番だ。本当にやるのか。今ならまだ引き返せるのではないか──ともすれば揺らぎかける決意と、緊張感に心臓がせり上がってくる感覚を何とか押し殺した由佳は樋本に向かって歩き出し、二人は広場の中央で出会って立ち止まった。樋本は何も言わず、付いて来いと言うように頭を軽く傾け、身体を翻すと外堀通りに向かい歩き始める。ボンバージャケットに両手を突っ込んだ由佳は、何も言わず後に続いた。 二人は無言のまま、銀座方面に抜ける高架下をくぐった。 「緊張しているのか」 銀座八丁目に入り、笑っているのか喚いているのか判別のつかないサラリーマンの群れとすれ違ってから初めて樋本が口を開く。言いながら由佳の方を振り向くと、由佳は黙って首を横に振り、肩を竦めた。いつもは相手の眉間に突き刺さるような視線を放出している樋本の目に、一瞬だけ優し気な光がよぎる。やや強面のきつい顔も、少しだけ緩んだ。かぶりを振った由佳がその実、樋本の顔も真っ直ぐに見られないほど緊張しているのを看破したのだ。 「リハーサル通り進める事だけに注力しろ。計画は完璧だ。うまくいく」 修業時代に努力して身に付けた、目の前にいる相手にしか届かない特殊な話法で樋本は由佳にそう言うと、外堀通りの信号が青に変わるのを待った。その目と話し方に、由佳は少し安心する。部下をリラックスさせてその能力を引き出す、熟練兵の人心掌握術だろうか。 外堀通りを渡る。このあたりからは、法的な線引きはされていないものの、フレンチ・コンセッションと呼ばれるエリアとなる。二つ目の角を左に曲がると早速、大柄なフランス人兵士が二人、通りの向こうから歩いてくるのが見えた。兵士がこれ見よがしに身体の正面で抱えているのは、近未来的なフォルムを持つPDW(パーソナル・ディフェンス・ウェポン)、FN P90だった。銃本体の全長は263ミリ、挿されたマガジンは、5・7㎜弾を五十発装弾するタイプ。この種の弾丸は拳銃弾より大威力で近距離での貫通力には優れるが、目標に命中後はすぐにエネルギーを失う為、二次被害を及ぼしにくいとされている。銃自体の特徴的な外観は、何百年も前に行われた刀狩の伝統を未だに引きずるこの島の人間にとって奇異に映りこそすれ、脅威は与えない。旧東京都に派遣される国連緊急軍の武装としては最適といえる。 兵士たちをやり過ごした樋本と由佳は歩く速度を少し速め、ワイヤレスイヤフォンを片耳に突っ込むと各々のスマートフォンを操作してグループ通話アプリを起動した。 「Test」樋本が通話チェックをする。骨伝導タイプのイヤフォンマイクなので小声での通話が可能で、周囲の風や騒音による妨害も受けない。 『RM、良好』『TP、良好』 ラジオマンとトランスポーターからすぐに応答があった。〈現場〉で樋本たちのターゲット、つまり拉致対象者の傍にいるポイントマンからの返答は当然ながら、無い。 この後樋本たちに拉致監禁され、たっぷり一生分の恐怖を味わう事になるなどとは微塵も思っていないターゲットは今頃、ご機嫌で酒のグラスを傾けているのだろう。 身長一八五センチという、兵士としては決して大柄ではないが、平均的な日本男性よりははるかに長身かつ筋肉質の樋本が、人ごみを巧みにすり抜けながら機械のような正確さで足を運ぶ。身長一七五センチで股下八三センチというモデル並みの体形を誇る由佳の歩幅は、樋本のそれと大きく変わらない。樋本の速度に付いていくのも、子供の頃からダンスで鍛えた由佳にしてみれば朝飯前だ。普通の女性であれば二、三十メートルも歩かないうちに音を上げるだろう。 由佳は樋本の背中を見ながら、二メートルほど背後にぴったりとくっついて歩を進めた。樋本の歩き方は、両足は肩幅ほどに開いて膝をやや緩め、腰を少し落として重心を低めに持ってくる、軍の特殊訓練で叩きこまれるものだ。肩も丸め気味にして、どんな方向からの攻撃や衝撃にも対応出来る体勢となっている。樋本は日常生活においてもこの歩き方を貫いており、習い性となるというが、もしかしたら本来の自分の歩き方を忘れてしまったのではないかと、由佳は時折一人笑いをしたものだ。 由佳をこの半年間鍛え上げた樋本は、プロフェッショナルの〈拉致チーム〉のリーダーとして十年以上活動している。もともと陸上自衛隊出身で、その中でも精鋭の第一空挺団に所属していた。除隊後はアメリカのPMC(民間軍事会社)と契約し、実戦部隊長としてアフリカ大陸各地で警備や戦闘の指揮を執り、最前線で命を張ってきた筋金入りの兵士だ。そして契約満了後は慰留を振り切るように帰国し、報酬制で動く人身拉致専門の実行チームを創立した。 樋本が作り出したフォーメーションは、英国のSAS(陸軍特殊空挺部隊)が採用する偵察チーム編成を参考にしている。通常のコンバットパトロール部隊であれば十二人単位が望ましいが、偵察任務であれば敵に発見されないよう人数を最小限に抑え、SASの場合は四人チームとする事が多い。前方警戒及び斥候の任務を持つポイントマン、現場の指揮を執るチームリーダー、左右側面警戒及び無線連絡の任務を持つラジオマン、そして後方警戒任務のテイルガンである。 拉致チーム編成にこの考え方を流用するにあたり、樋本は拉致の実行に欠かせない、車両の運転を任務とするトランスポーターという役割を加え、五人編成とした。 ミッションの準備として、まず与えられた情報を基にポイントマンとチームリーダーがターゲットの行動確認調査を行い、その結果を基に場所やメンバーの動きを決め、実行計画を決定する。実行時にはポイントマンとラジオマンが先乗りし、ミッションを計画通りに実行出来る環境である事を確認する。そしてトランスポーターを待機させ、チームリーダーとテイルガンが現場に入る。テイルガンは最後尾に付いて目撃者や通報者が出ないよう警戒し、追尾する者がいれば処理を行う。合理的で、状況に応じて融通が効くシステムだった。 今回のターゲットは、黄延威という名の四十代の中華系男性。クライアントは、那覇市に事業所を構える、〈内地人〉のこちらでの生活サポートを目的としたNPO法人。 通常、クライアントが何者かという情報はチームリーダーである樋本以外には知らされない。そして、ターゲットの素性、依頼の理由と目的は樋本にすら伝えられない事が多く、樋本が対クライアント交渉窓口として雇っているフリーランスのエージェントによってそれらの情報は専有的に管理される。これは現場のメンバーが司法機関やクライアントに敵対する組織に身柄を確保された場合の保険で、人間は知らない事は話せないというごくシンプルな法則に則っている。 とはいえ今までの人生経験から学んだ、情報を制する者が勝つという鉄則に沿って、樋本の方でも独自に調査を進める場合も多く、それはエージェントも黙認しているようだ。 黄延威は〈中央〉の党高官。生来の商才と非倫理性を駆使して私腹を肥やした挙句、国連暫定統治区を通して海外への資金移動とその身の脱出を目論んでいるらしい。あちこちに金を握らせてルートを確保したようだが、どうも肝心な方面に金を握らせなかった為に制裁が加えられるのではないかというのが、樋本が得た情報だった。クライアントであるNPO法人の正体は靄の中で、調べても全体像がはっきりしない。そういった組織は往々にして隠れ蓑だ。黄の拉致を依頼するとなると、隠れ蓑の中身はうっすらと見当が付くが。 クライアントの窓口となる人物も、ターゲットも、内地人。ある時、樋本がぼそっと呟いた一言を由佳は思い出す。『どいつもこいつも人の土地で好き勝手しやがって』 今、由佳を従えて夜の街を突っ切る樋本はまた同じ事を思っているのだろうか。 イヤフォンの中でミッション開始前の確認連絡が行き交うのを聴きながら、由佳は大股で歩き続ける樋本の後に張り付いて足を動かす。 このあたりからが所謂銀座の飲み屋街だ。狭い道路のど真ん中、クラブの入ったビルの正面入り口にこれ見よがしに停車する黒いリムジン、そのドアを開けて出てくる脂ぎった内地人の中年男を、笑顔とたどたどしい普通話で出迎える和服姿のママ。そしてこの寒い中、肩をむき出しにしたドレス──というより薄い布切れを身に纏い、まるで映画スターが登場したかのように嬌声を上げるホステスたち。樋本と由佳はなるべく彼女らの視線に入らないよう道の端を歩くが、視線はあまり心配する必要はなさそうだった。そもそも今の銀座の女性たちは、日本国家が消滅して以来〈和族〉と呼ばれるようになった旧日本人になど洟も引っ掛けない。そもそも、新型肺炎感染予防対策として未だに世界中で呼びかけられ続けている自粛対策を無視して毎夜飲み歩き、アジア有数の高級歓楽街である銀座の明かりを灯させ続けている功労者は、内地から来た客なのだ。それらの客の間では、感染者や死亡者がいくら増えても、認知、発表しなければ統計上はゼロ、という理屈が正義としてまかり通っている。 銀座には、通りのどちら側からでも出入りが出来る抜け道のあるビルが多い。樋本と由佳は、賑やかな通りから人目を避けるようにそのうちの一本に身を滑り込ませた。 抜け道を入ってすぐのところで、このビルに入ったクラブの黒服らしき蝶ネクタイ姿の若者が、足元のホームレスに立ち退くようきつい口調で告げていた。まだ若いのに生活の疲れとストレスを顔面に貼り付けた黒服と、時間を稼ぐようにのろのろと荷物をまとめ始めた中年のホームレス。両方とも和族だった。更に先に進んだ、抜け道の半ばにある少し引っ込んだ管理人通用口のスチールドアの前では、まだ夜も早いというのにへべれけに酔った白人と、同伴出勤らしい私服姿のホステスが互いの舌を吸い合っている。白人の右手はホステスのスカートの中をまさぐり、演技なのか本気なのか分からないが女の鼻息がどんどん荒くなってくるのがここまで聞こえる。 「銀座も地に堕ちたな」歩を進めながら樋本が由佳に囁いた。「身体を触ろうとする酔客を上手く躱すのが銀座の女の技術であり矜持のはずなんだが。強者が出てくればそんなプライドや誇りもかなぐり捨ててそっちに付く……和族の女は本当にしたたかだよ」 由佳は軽く肩を竦め、無言で樋本の後に続く。典型的な和族男性である樋本の目には、和族女性はその時代時代の強者に媚を売り、股を開く事を躊躇わない尻軽にしか見えないのだろう。しかしその考えは浅はかすぎる。これは女性の軽薄さでも弱さでもなく、強さであり、生き残る知恵なのだ。今樋本が使った『したたか』という言葉は漢字で『強か』と書く理由を、女よりその実はるかに弱く女々しい男どもには是非きっちり学んでほしいと思う。 しかし、由佳や樋本が活動拠点とする〈和族自治区〉、そして富山、長野、愛知以西の〈太洋省〉、九州と沖縄を擁する〈東海省〉、大阪市や那覇市といった〈直轄市〉、つまり旧東京都と青森県と北海道を除いたこの列島全域では日本語教育が完全に廃止されており、しかも近い将来には違法化までされそうなので、その機会は永久に訪れないかもしれない。 抜け道の反対側に出る。中央通りの二ブロック手前にあたる、向かって右方向の一方通行道路。樋本が歩く速度を上げた。目的のビルがすぐ左側に見えてくる。そして右側には、酒屋のロゴが側面に貼られたキャブオーバー型のライトバン。その運転席には、白いキャップを被り、紺色のエプロンを付けた若い男が手元のクリップボードに何やら書き込んでいる。トランスポーターの徐音繰だった。 由佳は頭の中で、ミッション本番前の最後のおさらいをする。チームリーダーは今目の前を歩く樋本保雄、上階のバーカウンターでターゲットである黄の近くに座るポイントマンが今里慶一郎、離脱する際の〈足〉であるライトバンで待機するトランスポーターの徐音繰、ここから一ブロック離れたコインパーキングに停められた別の車で様々なバックアップ機材と共に待機し、周辺警戒と通信と全員の位置確認の責任を負うラジオマンの王麗孝、そして後方警戒は、今回が初仕事になる自分、テイルガンの佐野由佳だ。 ターゲットの黄延威は国連暫定統治区に三週間滞在する予定で、中央が党高官の長期出張用として汐留に用意したタワーマンションと元麻布の大使館とを往復する毎日を送っている。黄の部屋は上下左右の部屋を大使館職員である警護部隊が固めており、大使館への往路と復路は黄が個人的に雇ったボディガードが二人、ぴったりと付き添う。こちらは要人警護任務に専従していた経歴を持つ、旧警視庁警備部警護課所属であった元警察官だ。そして黄が昼間のほとんどの時間を過ごすのは治外法権を有する大使館。一見、拉致ミッションの入り込む隙間もない生活だが、人間の精神はこのように四六時中警護や、警護という名の監視に置かれている生活にいつまでも耐えられるようには出来ていない。 国連暫定統治区に来てからほんの四、五日で、早速黄は羽を伸ばせる場所を見つけた。銀座の飲み屋ビルに入った小さなバーだ。大店のクラブにも通えるだけの金銭的余裕はあるが、和族自治区や、太洋省、東海省から出張ってきている中央の人間と鉢合わせする面倒くささを考えると、一見の客がまず来ない小さな店の方が都合は良い。その観点で、この古い雑居ビルの五階でひっそりと営業するコクーンという店は完璧だった。元々勤務していたクラブから独立したママが切り盛りするカウンターのみ十五席しかないバーで、接客をするのはママとアルバイトの女性。客層はママと昔なじみの和族とその連中が連れてくる堅気の内地人ばかりなので安心だ。黄はたちまちコクーンを気に入り、少なくとも週に三回は帰宅前にボディガードを帰して一人でここを訪れるようになった。 「昭和後期から平成の旧日本と同じだ。平和ボケで視野狭窄を起こしている」黄の素行調査と行動確認を行っていたポイントマンの今里が吐き捨てるように言ったものだ。 しかしそれは、拉致ミッションには格好の環境である。樋本はコクーンを拉致現場に選び、計画を練り上げた。そして斥候として、身分を偽った今里を客として送り込んだのだった。 『PMよりTL』ワイヤレスイヤフォンを通して今里の声が聞こえた。 「PM、送れ」ビルの一階ロビーの隅、屋内階段の裏側で由佳と待機していた樋本が応える。 『客は現在ターゲットと自分のみ。店側はママ一人、バイトはいない。今別の客から電話が入り、十五分後に二人連れの予約』押し殺した声。店内のトイレに籠って通信してきているのだろう。 「了解。これからエレベーターに乗る。作戦通りに行動」言い終わった樋本は大股でエレベーターに向かう。由佳も慌てて後を追った。イヤフォン越しに、『RM、了解』『TP、了解』と王と徐の声が入ってくる。 二十一世紀にこんなものが残っているのかと感心させられるような旧式エレベーターの、黒い円柱状の階数ボタンを思い切り押し込む。 「オーパーツと呼ぶべきだな、このエレベーター」樋本が呟いた。 モーターが唸る音とワイヤーが軋む音、そして正体不明の擦過音を撒き散らしながらエレベーターが上昇する。 樋本がレザージャケットから目出し帽を二つ取り出し、一つを由佳に渡した。エレベーター内に防犯カメラが設置されていない事はあらかじめ確認しており、顔を隠すのは目的階に到着してからと打ち合わせてある。由佳は自分のバックパックからダクトテープのロールを取り出した。 昔ながらの、遠慮も愛想もないブザー音を響かせてエレベーターが五階に到着する。年代物の、それでも蛇腹式の引き戸からひと段階くらいは進化した自動ドアが開くと、樋本と由佳は狭いエレベーターホールに滑り出た。由佳はエレベータードアの側面にダクトテープを貼り、セーフティーシューが押し込まれたままの状態にする。 樋本が由佳の目を覗き込み、「大丈夫か?」と言うように眉を上げる。深呼吸をした由佳は樋本の目を見返すと頷いて見せた。 由佳は顔に着けている不織布の使い捨てマスクを顎まで下げ、目出し帽を被る。樋本も同じく目出し帽を被ると位置を調整し、拳銃を二挺取り出して一挺を由佳に渡した。マカロフのコピー製品である五九式手槍(拳銃)だ。警察に追われるなどして隠すか処分する必要に迫られた時に備えホルスターは使用せず、予備の弾丸やマガジンも持ち歩かない。そもそも、緊急事態には戦闘よりも逃走を優先する拉致ミッションで、マガジンの八発に薬室装填分を足したフルロード九発を撃ち尽くす事態など考えられないのだ。かつてここが日本国だった頃などは実弾すら装填せず、樋本たちは威嚇用の空包のみを装填してミッションを行っていたと聞く。そうしておくと万一警察に逮捕、送検された時に、たとえ発砲したとしても殺人未遂に問われる確率がほぼゼロになるのだ。 樋本が銃を右手に持ち、左手でオーク材を模したドアのレバーハンドルを静かに下げる。由佳は銃を両手把持し、後方を警戒する。隣のカラオケクラブから、酔客がカタカナ発音の普通話で内地のポップスをがなり立てているのが聞こえてきた。コクーンの店内からは、ママのものらしい笑い声がドア越しに微かに聞こえてくる。 突入は相手に考える暇を与えず一気に行うのが定石だ。樋本は肩で一気にドアを押し開けると、横に細長い店内に五九式拳銃を向けた。カウンターの中に和服のママ、ずらりと並んだスツールに腰を掛けた客は二人。入り口に近い方が黄で、奥の方が今里だった。 「Freeze! Put your hands on the counter, now!」 英語でがなり立てる。国連警察組織警察隊による捜査を攪乱する事、そしてこの時代になっても未だに英語に対して苦手意識と拒否反応を持つ人々を思考停止にさせる事が目的で、単純ではあるが非常に有効な手だ。 由佳は樋本に続いて店に滑り込むとドアの鍵を閉め、右手のトイレを覗いて無人を確認するとカウンターの中が見える位置に移動し、五九式拳銃を向ける。カウンターの中には、和服姿のママ以外にスタッフはいない。 「I said, hands on counter!」樋本が繰り返した。 「手……手をカウンターに置けって」 今里はあくまで客の一人となりきり、声を震わせる演技をしながら両手をカウンターの表面にかざす。ママと黄が慌てて掌を叩き付けるようにカウンターに置いた。 樋本は黄の頭に銃口を押し付けながら素早くボディチェックをする。ママはと見ると、恐怖の為まともにこちらを見る事も出来ないのだろう、顔を背けて小刻みに全身を震わせている。 由佳はママに銃口を向けたまま、ちらりと今里に目を遣った。今里の両手はカウンターの表面から一センチほど浮いている。薬品で指紋を消しているとはいえ、触ったところには皮脂などの微細な証拠物件が残るので、それを最小限に抑える為だ。 ボディチェックを終えた樋本が、黄の襟首を掴んで立ち上がらせる。その頃になって黄が北京語訛りの普通話で捲したて始めた。 「待て、待て! 何が目的だ? 金なら話し合おうじゃないか。金でないなら、こっちで持っている不動産を……いや、何か知りたい情報があるのか? 条件次第では前向きに考えるぞ」 内地のみならずこの列島の大部分での公用語となった普通話を、樋本は問題なく解する。由佳も猛勉強の甲斐あって最近ようやく日常会話くらいはこなせるようになった。英語と日本語を操る人間にとって、普通話は非常に覚えやすい言語だ。 しかし二人は、敢えて普通話が全く分からない振りをして無視する。人間は、全くコミュニケーションが取れない相手には本能的に恐怖感を持つものなのだ。 諦めたように、襟を引く樋本の手に付いてくる黄。由佳はドアを細く開け、エレベーターホールに誰もいない事を確認すると大きく開け放った。 黄を引きずり出すようにエレベーターホールに出て、下を向くようその頭を押さえ付けた樋本の目出し帽を、由佳が手を伸ばして剥ぎ取る。次いで自分もマスクを脱ぐと、顎までずらしていた白い使い捨てマスクも一緒に取れて床に落ちた。背筋を這い上がる寒気と、服を剥ぎ取られたかのような不安感と不快感。由佳は大慌てでマスクを拾って再び顔に着け、二人分の目出し帽をバックパックに押し込んだ。 「Donʼt look back.」 黄を前に立たせ、くるくるとバンダナで右手ごと巻いた銃をその腰に押し付けながら樋本が囁いた。由佳は自分の銃を握ったままバックパックに手を入れ、半歩右からバックパック越しに黄に狙いを付けている。 コクーンのドアが閉まりきる直前に、今里の声が聞こえた。 「ママ、まだ動いちゃだめだ」 言い聞かせるような、押し殺した囁き声。警察に通報させない為だ。今里はエレベーターのドアが閉じたタイミングで自分のスマートフォンで警察に通報する振りをし、「警察が来るまで、ここから動いてはいけない」とママに指示をして、自分が触れたグラスをコートの下に隠して店を飛び出し、そのまま階段で地階まで駆け降りて、樋本たちとは別ルートで逃走する手はずになっている。 エレベーターのドアが閉じた。樋本は銃口を黄の腰に当てたまま、左手を黄の左肩に回してがっちりと掴む。 拉致というと、何らかの方法で気絶させたターゲットを運ぶイメージが一般的には強い。しかし人里離れた山奥ならともかく、街中でそんな方法を採ると目立つ上に不便この上ない。街中で監視カメラが作動し、誰もがカメラ付きのスマートフォンを持ち歩いているご時世では、ターゲット自身の足で歩いてもらうに限る。刃物でも銃口でも、武器が自分の身体に押し付けられていると人は自ら進んで歩くのだ。小刻みに震えてはいるものの、折角足があるのなら使ってもらわない手はない。 エレベーターが地階に到着した。使い捨てマスクの位置を直した由佳が先に降りて周囲を警戒し、樋本に頷く。樋本がバンダナ越しに銃を黄の背中に突き付けたまま、その身体をエレベーターホールに押し出す。由佳は黄を受け取ると、右腕を黄のジャケットの背中側に差し込み、左側から身体を押し付けた。樋本の隠れ家で百回以上練習し、完全に身体に覚えさせた動きだった。銀座の路上でこうすると、同伴出勤のホステスと客にしか見えない。 由佳は黄の上着の下で握った五九式拳銃の銃口を斜め上に向けるような形で黄の背中に押し付ける。ボンバージャケット越しに押し付けられる由佳のFカップの胸に気付いたのか、黄は左肘を少し外側に張り出した。全く男という生き物は……心の中で舌打ちをした由佳が黄の背中に銃口を更にきつく押し付けると、黄は左腕を引っ込めた。 ビルに入る時に確認した、酒屋の配達を装ったライトバンに向かって歩く。後部のウィンドウにはスモークフィルムが貼られていて外側から車内を窺えないが、荷台に人間を固定し、隠す仕掛けが施された拉致仕様となっている。 ライトバンの荷室で待ち構えていた徐が、中からスライドドアを開けた。樋本が後ろから黄の腰を押す。その時、 「救命啊!」 黄が、百メートルほど先の交差点の方に叫んだ。由佳と樋本ははっと左を見る。樋本の顔が歪んだ。先ほど見たのとは別のフランス人兵士が二人、交差点に立ってこちらに顔を向けている。 「救命!」黄が叫び続ける。 事態の大きさをまだ認識していないらしいフランス人兵士たちが、のんびりとした足取りでこちらに歩いて来る。当然ながら、この二人もFN P90を持っていた。 「銃を隠せ」口を動かさないように樋本が由佳と徐に告げた。 由佳は五九式拳銃を腰の後ろに差すと黄にしなだれかかり、「ねぇ、もうお店行きましょうよ。ママが待ってるよ」と舌足らずな大声を出す。 「TP、離脱」 樋本の言葉が終わるか終わらないかのうちに徐はライトバンのサイドドアを開閉するレバーを操作し、電動スライドドアがゆっくりと閉まっている間に猫のようにしなやかな動きで運転席に滑り込んだ。きちんとヘッドライトを点灯してウインカーを点けると、ライトバンを車線に出す。 「Si cʼest une simple bagarre de rue, vous vous adressez au mauvais gars!」その場の誰にも理解出来ないフランス語で何やら言いながら、フランス兵がこちらに向かって歩いて来る。 「さ、早く行こうぜ。ママが待ってるんだって」樋本は笑顔を作り、由佳のアドリブに合わせた。 「士兵! 你瞧!」パニックに陥り、母国語しか出てこなくなっている黄が、由佳の背中に手を伸ばす。 咄嗟に腰をひねる由佳。しかしその動きは、銃が黄の手に渡るのを辛うじて防いだものの、黄が触れるのを避けるには一瞬遅かった。銃がジーンズの後ろから落ち、硬い音を立ててアスファルトに転がる。 「Merde!」フランス人兵士が背を丸め、FN P90を身体の前に構えた。 「作戦放棄! 撤収だ!」樋本が由佳に怒鳴る。 「こいつ、どうするんすか!」黄の腰のベルトを掴んだ由佳が怒鳴り返す。 「放っておけ!」 樋本は路肩に向けて黄を思い切り蹴り倒すと由佳の足元から銃を拾い、その二の腕を掴むと反対側に駆け出した。が、ボンバージャケットの生地の上でグローブが滑り、手が宙を泳いだ。 兵隊たちがどんどん距離を詰めてくる。樋本は由佳に向かって「ベースで集合!」と怒鳴ると、新橋方面に駆け出す。 由佳も体勢を立て直すと脱兎のごとく駆け出した。 「Stop!」英語に切り替えたフランス人兵士がなおも追ってくる。 由佳はさっき通った抜け道からもう一本行った先の、ビルとビルの隙間に身体を滑り込ませた。辛うじて人一人が抜けられる幅があり、緊急時の逃げ道として事前にマークしていた場所だ。 背後で聞こえた兵士の罵り声に振り向く。装備が厚すぎて隙間に入ってくるのが難しいらしく、いったん身体を横にして侵入を試みたその兵士は一メートルほど入ったところで諦め、また苦労して元の道路に戻っていくところだった。ブロックの反対側に回るのであれば数分間は時間の余裕がある。 金属製のどぶ板の上を由佳の足が駆け抜ける。驚いた鼠が板の隙間や穴から飛び出して四方八方に散った。 年季の入った飲み屋ビルの間をくねくねと曲がる隙間を走りながら、由佳はボンバージャケットのポケットからスマートフォンや偽造IDが入ったカードケースを取り出すとバックパックに押し込んだ。ジャケットを手早く脱ぐと手近なエアコンの室外機の上に放り、バックパックを背負い直しながら走り続ける。 やっと反対側に出た。路上で走り続けると目立つので、はやる心を押し殺して歩き始める。ニットのトップス一枚という薄着にビル風が吹き付けて身体が凍えそうになるが、そんな心配は後回しだ。 通りを渡った雑居ビルのネオンに、ショットバーを見つけた。考える間もなく、足をその雑居ビルに向ける。女性のいるクラブに女性客が一人で入るのは無理があるが、ショットバーなら問題ない。上着は彼氏の車の中とでも言っておけばこの姿でも通用するはずだ。そして、組織力を誇る国連統治軍とはいえ、無数にある飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに当たるのは物理的に不可能だ。それに、他国兵と問題でも起こしたら外交問題に発展しかねない。 由佳は自分にそう言い聞かせながら一方通行の道路を横断した。ビルの間を抜けてきたのでニットに汚れが付いていないかざっと確認する。胸の先に土埃が付いているのを払い去り、ふと考えて顔のマスクに手を遣った。 夜目にも白い、不織布の使い捨てマスク。先の新型肺炎のパンデミック以来、自治区や省では、特に気温が下がる時期には皆申し合わせたようにマスクを着けて外出する。しかしマスクに対して拒否感や嫌悪感を持つ欧米人の多い国連暫定統治区では、逆にマスク姿が目立つ。 あの兵士たちはマスクの下の由佳の顔を見ていない。 由佳にとってはかなり勇気が必要な行為だが思い切ってマスクを外し、ジーンズの尻ポケットに差し込んだ。まるで裸で歩いているような心許ない感覚に、たちまち全身から冷や汗が噴き出す。 由佳のいる場所から直線距離で百五十メートルほど有楽町方面に行ったコインパーキングに停められたミニバンの中では、ラジオマンの王麗孝が手汗をジーンズの尻で時折拭きながらPCの画面を睨み、イヤフォンマイク越しに樋本にナビゲーションを行っていた。 「TLはそのまま中央通りを抜けて昭和通りからタクシーで品川駅に。これからTGのナビに移る……いた。TG、聞こえるか? こっちじゃなくて新橋の方に……こっち向くな……それ取るな! 混蛋!」 画面の中、由佳が路上でマスクを顔から取り去った時、王の口から母国語の罵声が出た。イヤフォンに手を当てた由佳がはっとした表情になり、口元を押さえて顔を背けるが、後の祭りだった。 確かに国連暫定統治区ではマスク姿は目立つが、そこら中にある防犯カメラに顔をさらすよりは、着けていた方が少しはましだ。 銀座地区には、中央通りを中心とした十五ヵ所に計十八基の防犯カメラが設置されており、そのうちの十二基は、飲食店が密集する六丁目から八丁目にかけて配置されている。そして銀座通りの六基と七丁目から八丁目西側の三基は、三百六十度撮影可能なマルチアイカメラだ。過去の録画映像から人物や車両などの動きを捉える事が出来る。 元々は銀座地区の町会、通り会、組合、任意団体などで構成される全銀座会によって防犯のために設置されたものだが、旧日本国の行政と警察が消滅した後は、国連暫定統治区の治安維持と情報収集の目的で国連警察により管理されていた。 カメラは価格圧縮の為スタンドアローン型が採用されており、収録された情報は高速無線通信を利用して国連警察と銀座地区防犯対策推進協議会本部に送信される。その防犯対策推進協議会本部のシステムに侵入し、街中に設置されたカメラの映像を追いながら逃走ルートの指示を行うのもラジオマンの役目なのだ。 由佳が雑居ビルに飛び込む。それを画面越しに見ながらなおも悪態を吐く王は動画を逆再生して先ほどの様子を見直す。 フリーズした画面。顔を中心に拡大すると、マスクを取り外した由佳の顔がはっきりと判別出来るくらい鮮明に収録されていた。

暗黒自治区

隣国に侵食された日本で、
犯人護送車が謎の武装グループに襲撃される。
骨太のディストピア警察活劇!

定価 880円(税込)

ISBN:978-4-299-01365-1

全国書店にて発売中!