その頃、マリアは何か魔術書を借りようと幸太郎の部屋に入っていた。
 幸太郎の部屋は本棚しかない。広さはマリアたちの部屋とそう違わないのだが、手狭に感じる。天井に達するほどの本棚が八架も並んでいるからだ。しかも、分厚い魔術書やそれに類する本がギッシリと詰め込まれているので、圧迫感さえあった。
 マリアは魔力灯をつけても薄暗い部屋で、本を物色する。
 この部屋の魔術書は小学生レベルのものから、大学院の専攻生が読むようなレベルのものまで揃っている。マリアではとても理解できない外国語のものもある。
 その一貫性の見えない難易度のせいか、整理されている割に雑多な印象を受ける。
 魔術書以外には歴史書や哲学書、宗教書もあるが、彼女はそれらに興味がない。
 マリアでも読めそう、かつ、面白そうな魔術書を探していると、ふと思った。
 今はチャンスじゃないか? 何か、幸太郎の正体を掴むものを探ってもバレないのではないか? 何と言っても、アリスに付きっきりでお菓子を作っているのだ。
 そこでマリアはアリスたちの態度を思い出してムカッとする。
 確かにマリアはあまり料理が得意ではない。それは認める。この前の調理実習で作った甘いロールキャベツも不評だった。が、しかし、別に食べられないことはなかったのだ。アリスや周りが大げさに騒ぎ立てただけだったのに。
 それに幸太郎も幸太郎だ。助け舟くらい出しても良いはずなのだ。一応、仮にも兄なのだから意地悪なんて許せない。
 だから、すこしくらい家探しされても仕方ないのだ。
 自身の正当化を終えたマリアはイタズラっぽい笑みを浮かべて、探索を開始する。
 確かにこの部屋は魔術書ばかりだが、それ以外の本だってあるのだ。だから、何か面白い本や弱みになる本だってあるはずだ。例えば、エッチな本とか日記とか。
 マリアはドキドキしながら――既に幸太郎の正体を暴くという目的を彼女は忘れかけていたが――本棚の一番隅っこに、、それを見つけた。
 アルバムだった。

     *

 アリスの読んだ『非魔術士による魔術干渉実験について』という本を要約すると、他人が行使する魔術に干渉する非魔術士の話である。
 魔術研究の大家である刀自(とじ)家の長男が書いた本で、ある黒髪の少年Kの観察報告という形を取っていた。
 魔術は独立性があり、他人では干渉できない。だから、先天的な個人の資質に依っている。だが、その黒髪の少年Kは、他人が行使した魔術に直接干渉してしまう。
 簡単に言えば、他人の魔力を奪って魔術を使う完全な寄生能力である。
 つまり、その少年Kは非魔術士が魔術士を支配する可能性を示唆していた。
 アリスはその魔術書を読んで考えたのだ。
 もしかして、この黒髪の少年Kは義兄ではないか、と。
 イニシャルは一緒だし、幸太郎が家を放逐されていたのは、対魔術士であるその能力を危険視されたからではないか。それにこの力であれば、葬式での出来事も説明がつく。
 つまり、姉の魔力を利用して精神支配を行ったのだ。
 魔術士を支配する非魔術士……それは恐るべき進化の形だった。
 ――と、アリスが考えを披露すると、幸太郎は「なるほどね」と頷く。
「面白い指摘だけど、全て推論だよね。ちょっと弱いんじゃないかな?」
 義兄のその言い方が既に半分認めているように感じたが、アリスは用意していた考えを開示する。
「お義兄さまは、あの葬式の時、アタシに言いましたね。『安易に敵を作ることは止めた方が良いよ』と。あれは警告だったのではありませんか? もしも、非魔術士が魔術士を支配できる可能性があるとすれば、アタシのような『まともな思想』の持ち主は真っ先に狩られるはずです。それを見越しての発言ではありませんか?」
「なるほど。そこまで考えてなかったけど、一理あるね」
 オーブンの中のクッキーはゆっくりと膨らんでいる。
 美味しそうだな、とアリスは全然関係ないことを考えて心を鎮めた。
「……お義父さまはとても素晴らしい魔術士でした。どう考えても、社会への貢献度を考えると、テロの標的にされるような人物ではありませんでした」
「……うん。そうかもしれないね」
「しかし、それでも殺されてしまいました。それでアタシは思ったのです。人間はどんな理由でも人を恨めるのだ、と」
 この魔術士を支配する非魔術士の話が事実だとすれば、それは間違いなく最強の力だ。
 何故ならば、魔術士は黒髪だと無意識的に油断してしまうからだ。銃や爆弾に対して備える人間はいるだろうが、まさか自分の魔力を乗っ取られるとは考えない。
 高い確率で不意をつけるという点。他人の力を犠牲(サクリファイス)とする悪辣さ。
 本当に恐ろしい能力だ、とアリスは思う。
 彼女が幸太郎と二人きりで話したかったのは、マリアが義兄のことを気に入りつつあったからだ。後で教えるにしても、なるべくショックを与えないようにしたい。
「そもそも、人が人を呪うのに理由なんて必要ないのかもしれません。人を傷つけると人に恨まれますが、同時に、人を助けても人に恨まれるのかもしれません」
「それは、理不尽だね」
「ええ、同感です。お義兄さま。しかし、理不尽というのは生まれた時の素質で全てが左右されているこの世界では当然なのかもしれません」
 かもしれない、ばかりの自分の意見が何の説得力もないことはアリスも理解している。
 ただ、それでも自分たちを支配するかもしれない相手に告げることは意味があるように思えた。魔力減衰薬をアリスたちに飲ませているのも義兄にとっては優しさなのだろう。
 つまり、互いが対等な立場――非魔術士であれば、支配関係にはならない。
 幸太郎はなるほどねと呟き、質問してきた。
「……アリスちゃんは将来の夢はある?」
「そうですね。立派な魔術士になりたいのは当然ですが、あと、魔力の強い子どもを産んであげたいと思います」
 これを幸太郎に言うのは酷かもしれないが、アリスは正直に答えた。
「それは最近の体験からきた願いかな?」
「……そうですね。いえ、そうだと思います。今の灰色髪の現状を鑑みて思いました。人は強く、賢く、そして、優しくあるべきだと思います」
 世の中、分からないことだらけだ。理不尽に目の敵にされ、足元をすくわれるかもしれないが、それでも誰かが支えなければならないのだ。愚かだからと、見限って放棄してはならない。その強さが、弱い人類には必要なのだと思った。
 そして、それは恵まれた素質の持ち主でなければ務まらない。
 人は確かに努力で成長できるのだろう。しかし、生まれ持った素質の差は厳然と存在しているのだから、そこから目を逸らすことはただの現実逃避だ。
 アリスは強い魔術士に嫁げるのであれば、人間的にどれだけ嫌いなタイプでも構わないとさえ思っている。それが強い魔術士を産む可能性に一番繋がるのだから、自己犠牲の精神ですらないただの打算だ。愛なんて確固たる意志の前ではただのわがままだ。
「なるほど……すこしだけアリスちゃんのことが分かった気がするよ」
 勘違いかもしれないけどね、という幸太郎の声音は優しかった。多分、義兄の肉体があれば微笑んでいただろう。彼は続けた。
「ただ、すこし訂正するね。その黒髪の魔力干渉実験、はデマだよ」
 アリスは二秒思考停止した後に、ぎこちない仕草で首を傾げる。
「……は、はいぃ?」

     *

 マリアの見つけた幸太郎のアルバムは一冊だけで、それほど分厚くなかった。
 幼い頃の兄が爛漫に笑っている写真が多い。
 徐々に成長していく過程が分かるが、思わず微笑んでしまう可愛らしさがあった。
 しかし、マリアが探しているのはこんなものではない。もっと恥ずかしいのはないか。
 ペラペラとめくっていると――一枚、目についた写真があった。
 それは若い頃の義父と黒髪の女性が並んで写っている写真だった。
 義父が二十代半ばで、黒髪の女性は十代後半に見えた。義父と義兄は似ていると思っていたが、若い頃の写真と見比べるとより一層似ている。髪色以外はそっくりだった。
 若い女性は黒髪をおさげにしている。大人しげで野に咲く花のような地味な可愛らしさがあった。優しく微笑んでいる表情は義父への信頼と愛情が感じられる。
 そして、女性の方も義兄の面影が感じられた。
 これが義母――幸太郎の実母か……と、マリアは不思議な気分になった。
 確かに清楚で可愛らしいが、すごい美人ということはない。
 どうして義父はこの人を選んだのだろうか?
 考えても答えなんて分かるわけがないので、マリアは他の写真も探してみる。
 すると、幼い幸太郎と更に幼い少女が並んで写っている写真を見つける。
 幸太郎が十歳くらいに見えるので、六年くらい前の写真だろう。隣の少女は六、七歳くらいに見えるので成長していればマリアと同い年くらいになるはずだ。
 そして、その写真をマリアが注目した理由は、少女の髪色が白金だったからだ。
 これだけ強い発色であれば、彼女と同等クラスの才能の持ち主だろう。
 同い年くらいで白金の髪をした女子――マリアは思い至らなかった。
 顔立ちも目がパッチリとして可愛らしいが、やはり知らない相手だ。
 一体、幸太郎とどういう関係だろう、とマリアは思った。
 女の子は幸太郎の手を掴んでいる。優しげに笑い合っているし仲は良さそうだ――何となく嫌な気分になったので、彼女は慌ててページをめくった。
 そして、更に目を留めた一枚があった。
 この写真は比較的最近のものだ。多分、一年以内のもので、幸太郎と一人の少女が写っている。先ほどの少女とは別人だ。マリアの知っている顔だったから間違いない。
 青金の髪をポニーテールにしている。背が高くスタイルが良い派手な顔立ちの美人だ。
 何か作業をしている幸太郎の背後からのしかかるようにして写っている。
 義兄は苦笑で、少女は満面の笑みを浮かべていた。
 その少女は天食学園高等部一年生で、マリアたちの先輩だった。
 幸太郎と同い年になる刀自家の天才少女の名前を彼女は呟いた。
「これ、可音(かおん)さんじゃん」

     *

 アリスが幸太郎のデマ発言に思考停止させていると、彼は楽しげに話を続けた。
「その本がどうしてデマなのか、説明するね。
 ――と、その前に、魔術の基礎知識についておさらいしようか。魔術士は脳内で構築した術式を体内で生み出した魔力に結びつけることで現実に干渉する能力者のことだ。術式については魔術士でなくても構築することは理論上可能だけど、現実的には不可能。魔力量が少ない人間は根本的に術式が理解できないから。認識力の差こそが魔力の強弱の違いとして現れるのはそういう意味だね」
「えっと、基礎知識なのでアタシもその辺りのことは理解していますが……え? 刀自家の長男が書いた本ですよ。デマ……え? は?」
「うん、そう思うのも無理ないけど、話を続けるね。逆に言えば、術式を構築し、適切な魔力を流し込めば、魔術は使用できる。だから、外部から魔力を供給することで非魔術士にも魔術が使えないか研究した例は確かにあるよ」
 義兄の喋り方で、アリスにも結果は見えている。失敗だったのだろう。しかし、どうして失敗だったのか、言われてみると不思議な気がした。理論上は可能に思える。
「簡単な話でね、非魔術士は術式と魔力を結びつけることがどうしてもできなかっただけ。今では機械で代替してる部分さえあるのに、非魔術士――魔力値一万以下の人間にはどうしても再現できなかった。魔術士と非魔術士の子どもに、それぞれ同じ教育を施しても不可能。人間を出力装置として考えた場合、個体差が大きすぎて欠陥品だった――これが致命的な差だね」
「……それは分かります。その差こそアタシたちが選ばれている証拠なのですから」
「うん、そうだね。で、回りくどくなったけど、結論を言うね。では、外部から供給すれば、魔術士でももっと強い魔術が行使できるのか? 結果は否。不可能だった」
 アリスはそこまで言われて理解できた。ため息を漏らす。
「分かりました。つまり、魔力を画一的に考え過ぎているということですか……」
「うん、個人個人で全然違うものだと考えるべきみたいだよ」
 幸太郎は「正解」とポスポス拍手しながら続けた。
「ただし、現在でも機械は魔力を通すことで動いてるだろう? 魔力が多種多様なのであれば、動かない方が正しい。しかし、誰の、いや、どんな魔力でも動いてる。魔獣だろうが、人だろうが、鉱石だろうがね。この不可逆性から、問題は人体で術式と魔力を結びつけるメカニズムの方ではないか、という前提で最近の研究は進められてるわけ」
 お、そろそろ、クッキー焼けたみたいだよ、と幸太郎は言った。
 アリスはクッキーをオーブンから取り出しながら、呆然としていた。
 義兄の尻尾を掴んだ気になっていたが、全くの見当違いだったからだ。
「つまり、魔術はあまりにも独立性が高くて、誰かの術に直接干渉するなんて現実的には不可能、ということですか……」
「正解。あ、火傷しないよう気をつけてね」
 アリスはクッキーの載った天板をテーブルに移動させる。美味しそうなクッキーの匂いに、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。それを見た幸太郎が楽しそうに笑った。
「ハハッ、味見してみれば?」
 アリスは頬が熱いのをごまかしながら答える。
「ですが、これはお土産にするつもりなので……」
「それは口実だったんでしょ? せっかく作ったんだし、プレゼント用は明日の朝また作れば良いんじゃないかな。材料はまだまだあるから安心してね」
「……それでは形もあまり良くありませんからね」
 一応アリスは強がっておくが、すぐにクッキーへ手が伸びた。サクッと齧る。
 熱い。ジュワッと熱で口内が火傷しそうになった。
 しかし、そんな痛み比較にならないほどの甘みが広がる。
 クッキーとしての香ばしさだけではなく、チョコチップの香りも暴力的なほどに味覚を刺激して、思わず残りのクッキーの欠片も口の中に放り込んでいた。美味しい。
「うわぁ……」
 アリスは正直、かなり感動していた。声にならない感嘆の息が漏れた。
 市販品と比べると形はやや歪だが、見事なクッキーの完成に満足していた。
「美味しいでしょ? 作りたてってこともあるけど、自分が作ったから格別になった。市販品を買っただけじゃこの感動は味わえないよね」
「それはそうかもしれませんが、これ、本当に美味しいですよ」
 一瞬、アリスは幸太郎にもクッキーを勧めようとして、彼が肉体を失っていることを思い出す。せっかくだから、いつか彼女の作った手料理を食べて欲しいな、と思った。
 しかし、義兄はいつ体を取り戻すのだろうか?
「それが差別の本質だよ」
「え?」
「自分にとって『近い』かどうか。どれだけ情熱を傾けたかどうか。そういうことだね」
 幸太郎が何を言っているのか、アリスにもすこし分かった。
 要は自分にとっての『都合』が最優先されるということだろう。自分の子どもは最高に可愛い理論だ。たとえ、それがどれほど愚かで醜くても、親にとっては関係ないのだ。
 今回の件で言えば、同じ材料・同じ手間の手作りクッキーであっても、他人と自分が作ったのでは明らかに味が違う。腕の疲労や手間の分、評価が甘くなると言い換えても良い。
 しかし、アリスは前から言い返したいことがあったので、義兄に告げる。
「お義兄さま、アタシ、そういう理屈を聞くたびに思っていたのですが」
「うん? なんだい?」
「例えば、見ず知らずの他人とアタシが同時に危険に陥っていたとします。お義兄さまはそれでアタシを真っ先に助けないのが正しいと思っているのですか? どちらを助けるか迷うのが正しい人間の姿だと思っているのでしょうか?」
 幸太郎は何かに打たれたように動きを止めた。アリスは首を傾げる。
「? お義兄さま?」
「……ううん、何でもない。せっかくだから紅茶を淹れるね」
 何かごまかすようだったので「……はい、ありがとうございます」アリスは頼んだ。
 幸太郎はテキパキと紅茶の用意を始めた。
 二人分用意しているが、一つはマリアの分だろう。忘れていたが、未だに姉の姿が見えない。一体、どこへ行っているのか分からないが、呼ぶべきだろう。匂いで飛んできそうなものだが、そこまでへそを曲げているのだろうか。
 アリスがもう一枚クッキーをかじっていると、幸太郎が「そう言えば」と言った。
「はい? どうかしましたか?」
「そもそも、自分で魔力が生み出せないなら干渉しようがないよね」
「? どういう意味ですか?」
「例えば、声は空気を振動させることで伝わるよね? 逆に言えば、空気がなければ、声は伝えられない。魔力が乏しいのに、他人の魔力に干渉するなんてできるわけがないんだよ。根本的に媒介するものがないんだから、個人の質とか以前の問題だよね」
 言われてみると当然すぎる話で、どうして真っ先にこんな当たり前のことに思い至らなかったのか……アリスは自嘲の笑みを浮かべて言う。
「あの、お義兄さま、次は普通に料理を教えてください」
「意外だね。アリスちゃんはそういうこと、無駄だって切り捨てるタイプだと思ってた」
「すこしだけ回り道も悪くない気がしただけです。それで納得できないのでしたら、家庭科の勉強ということで。それとも、ダメですか?」
「全然、とっても嬉しいよ。マリアちゃんも次は仲間に入れてあげようか」
「それは絶対ダメです。断固拒否です」
 アリスと幸太郎が笑い合った瞬間、手に本を持ったマリアがリビングに飛び込んできた。
 そして、アリスの手にクッキーが摘ままれているのを見て叫ぶ。
「あー! それ、お礼だったんじゃないのっ? なんでアリスは普通に食べているのっ?」
「はいはい、マリアちゃん。あーん」
「へ?」
 アリスが大口開けているマリアの口にクッキーを放り込むと「あつおいしい!」姉は目を輝かせた。両手で頬を押さえて幼気に笑う。
「アリス、さすがに上手ね! とっても美味しいわ、ありがとう!」
「お義兄さまの指導のおかげだからね」
「ふーん。アンタも、その、一応、やるじゃん」
 どんなお礼の言い方だ、とアリスは呆れながら姉を見る。そもそも、義兄はもう何度もお茶菓子を手作りしているのに今更である。
 ふと、アリスは姉が持っている本――いや、アルバムが気になった。
「マリアちゃん、ところで、その手に持っているアルバムはどうしたの?」
「あ! 本棚にあったから持ってきたんだ。せっかくだからこれお茶受けにしよっ!」
 二人分の紅茶を持ってきた幸太郎が「あ!」と大きな声を出した。
「マ、マリアちゃん、それどこから持ってきたのさ」
「アンタの部屋。で、パパとアンタのママってどうやって知り合ったの? アンタ可音さんと仲良かったんだ? どういう関係? あと、この白金色の髪の子って何者?」
 アリスは天食学園の先輩である刀自家の娘の名前が出て、ふと『非魔術士による魔術干渉実験について』の作者が刀自家の長男だったことを思い出した。
 やはり関わり合いがあったという想像は的外れでもなかったらしい。
 幸太郎は「待った、待った」と手を大きく振った。
「一度に質問されても困るし、そもそも、プライバシーの侵害だよね。ホント勘弁してよ」
 マリアは上目遣いで祈るようにして言う。
「うぅぅ、ゴメンねぇ、おにいちゃん。でもね、マリアね、おにいちゃんのこと、もっと知りたいんだよ……?」
 アリスも姉に続いて悪ノリする。
「あら、お義兄さまのくせに生意気ですのよ。あなたはアタシたちの言うことを黙って聞けば良いのです」
 幸太郎は忌々しげに天を仰いだ。そして、諸手を挙げて降参する。
「二人とも……分かったから。そんなに見たいなら勝手に見て良いから」
 アリスたちは二人で「勝った」と笑い合う。幸太郎は苦笑する。
 マリアは先ほど気になった写真の一枚を指した。義父と黒髪の若い女性の写真である。
「これ、パパとアンタのママなの?」
「うん。母さんは僕も会った記憶がないけどね。僕を産んですぐに亡くなったから」
 マリアは気まずそうに目を伏せた。
「あ……そうなんだ。なんか、ゴメン」
「マ、マリアちゃんが素直に謝るなんて……冗談だよ。そんな目で見ない。でも、僕は母さんがいないのが当たり前だったから、二人とはすこし立場が違うね」
 マリアもアリスも両親のことを思い出し、嫌な沈黙が舞い降りた。
 マリアはそれを振り切って質問を続ける。
「ねぇ、パパとアンタのママってどうやって知り合ったの? あんまり接点ありそうには見えないんだけど」
「一応、幼なじみだから、かな……。ところで、二人は『種島事件』の真相は聞かされてる? ほら、三十年くらい前の魔獣型魔力炉の暴走事故ね」
「? 真相?」
「いえ、何のことか分かりませんが」
 二人は同時に首を横に振り、幸太郎は「なら、まだ内緒だね」と言った。
「また機会があれば教えてあげる。で、次は可音についてか。そういや、先輩後輩になるんだね、君たち二人は」
 可音、呼び捨てだと……? と、マリアはそこに反応した。
 アリスはそれよりも、と気になっていることを質問する。
「そう言えば、さっきの本の作者は刀自家の長男が書いたものだったではありませんか。あの魔術研究の大家がそんなデマを公表するなんて信じられないのですが」
「うん、あの本の作者の刀自雄大(ゆうだい)さんはちょっと心を病んじゃってね。出版されたは良いけど、すぐに絶版になったんだ。刀自の名前でファンタジー小説を書いたって批判に晒された。だから、ほとんど市場には出回ってないよ」
 マリアは「さっきの本? 何のこと?」と小首を傾げている。
 アリスは後で姉に説明しなきゃなぁ、と思いつつ会話を続ける。
「心を病んだってどういうことですか?」
「うん、可音(いもうと)と比べられちゃったからだよ。可音の優秀さは二人も知ってるよね?」
「ええ、まぁ。四大属性全てを操る怪物ですよね」
 アリスは風属性の魔術が得意だし、マリアは火属性の魔術が得意だ。逆に言えば、それ以外の属性は数段落ちたものしか扱えない。通常、人によって得手不得手がある。
 しかし、刀自可音は地水火風の四大属性全てを超高水準で操るのだ。
 それだけ効率的な術式構築能力を有しており、天食学園最優の天才として誉れ高かった。
 幸太郎は首肯する。
「雄大さんも優秀なんだよ。可音が生まれる前までは刀自家の当主候補として扱われてたくらいだ。だけど、可音のせいでその道は閉ざされた。結果、雄大さんは心を病んだらしい。それであんな本を書いちゃったんじゃないかって言われてる」
 圧倒的すぎる才能は人に諦念を植えつけることがある。その実例かつ悲劇ということか。
 アリスはそれで納得したが、マリアは「そんなことよりも!」と大きな声を上げる。
「なんかよく分かんないけど、アンタって可音さんと仲良いの? どういう関係?」
「一応、幼なじみになるかな。僕が夢野家を出てからもいろいろと世話になったしね」
「……ふーん。それだけ? なんかスゴく仲良さそうじゃん」
「んー。でも、お互いに忙しかったから最近は会ってないし……あ、そうだ。実は婚約されそうになってたんだけど、可音が絶対にイヤって拒否しちゃったから話がなくなったってこともあったよ。ハハハッ」
 笑い話のつもりで幸太郎は言ったのだろうが、マリアの頬が一瞬引きつった。
 アリスはそれを見逃さなかったので、あちゃーと思った。
「ふーん。やっぱり、仲良いんだね……」
「マリアちゃん、僕の話ちゃんと聞いてた? フラれたというか、拒絶されてるからね?」
 マリアは幸太郎の泣き言を無視する。そして、声は低いままで、最後の一枚を指した。
「なら、この子は?」
「ああ、ずいぶん昔の写真だね。この子は天食セラちゃん。僕の一つ年下だから、君たちの二つ上になるね」
 マリアは厳しい視線を送っていたが、アリスはその苗字が気になった。
「天食家の娘さんですか? ですが、そんな子、学園にはいなかったと思うのですが」
「うん、セラちゃんも特殊な状況があって学園には通ってないよ。籍はあるのかな?」
 その事情もアリスは気になったが、そんなことよりも、とマリアは話を進める。
「それで、この子とはどういう関係なの?」
 幸太郎はアッサリと答えた。
「僕の婚約者……いや、元婚約者になるのかな?」
 マリアの眉間にシワが入った。
「元婚約者ってどういうこと? 何で言い直したの。というか、そもそも、黒髪のアンタがこんな鮮やかな髪の子と婚約? 冗談じゃないの?」
 幸太郎は空虚な笑い声を上げた。
「それが正常な反応だよね。でも、実は僕が家を出たのもそれが原因だからね」
 二人は無言で話を続けろ、と幸太郎を睨む。
「うん、僕は黒髪でしょ? だから、夢野家は継げない。それなのに、セラちゃんみたいな優秀な魔術士の才能を持った子と婚約したから、親戚が黙ってなくてね。大きな喧嘩のせいで僕が家を出るハメになった。これが概略だね。元婚約者って言ったのは、その時に関係が切れちゃったから。もう三年近く会ってないけど、元気にやってるかなぁ」
 懐かしげに言う幸太郎がマリアには理解できなかった。
「それでアンタは納得しているの? 仲良かったんじゃないの?」
「どうしようもないことはあるからね。セラちゃんだったら引く手数多だろうし、そういう意味では心配してないよ」
「そうじゃなくて!」
 マリアは一瞬だけ大きな声を出して、それからため息をついた。
「……ボクはそういう態度、止めた方が良いと思うよ」
 マリアはどこか投げやりな口調で言い、クッキーを手早く二つ三つと口に入れ、噛み砕いたとほぼ同時に紅茶で一気に流し込んだ。
「正直、ちょっと幻滅したよ。ごちそうさまでした。美味しかったよ」
 彼女はそう言い捨てて、さっさと階上へと消えて行った。
 マリアの背中を最後まで見送ってから幸太郎はため息をつく。
「アリスちゃん。申し訳ないんだけど、僕の態度のどこにマリアちゃんが怒ったのか、教えてくれないかな?」
 義兄はもっと飄々としているイメージだったが、正直ちょっと驚くほど凹んでいた。
 アリスは意外だったので、素直に答えることにした。
「そうですね……多少は嫉妬もあると思います。でも、この三人はお義兄さまにとってそれぞれ特別な人ですよね? それなのに、自分の気持ちを割り切って、過去にしている辺りが嫌だったのではないか、とアタシは思います」
 母、幼なじみ、婚約者……三者三様の関わり方があるのだろう。
 特に母は物心つく前に亡くなっているから難しい部分はある。
 しかし、それでも、マリアはもうちょっと未練や執着を見せて欲しかったのだ。
 何故ならば、最終的にはアリスやマリアも同じ目に遭う可能性が高いからだ。
 所詮彼女たちは義妹でしかない。血の繋がりもなければ、一緒に過ごした歴史も浅い。
 だから、マリアはそれが怖かったのだ。すぐに捨てられるかもしれないから。人は簡単にいなくなると両親で学んだ彼女たちにとって、それは恐ろしいことだった。
 幸太郎はアリスの言葉を聞いて、ため息をついた。
「そんなつもりは全然なかったんだけどね……」
「あ、これは多分ですからね。満点とは限らないので、素直にマリアちゃんには謝って許して貰うのが一番だと思います」
「……許してくれるかな?」
 幸太郎の弱気な様子に、アリスは「問題ありませんよ」と笑い飛ばす。
「マリアちゃんは根に持つタイプではありませんからね。寝て起きたらケロッと忘れていますよ。むしろ、そんなこと蒸し返すなって怒るかもしれません」
「いや、さすがにそれはないでしょ、多分」
「それでも気にされているのであれば、仲直りのために何か贈ってみるのはどうでしょうか? すこし凝ったプレゼントを贈ることで、特別なんだよとアピールするのです。他に口実が必要なら……そうですね、一緒に暮らし始めたお祝いなんてどうですか?」
「……それは密かにアリスちゃんもプレゼントを要求してるのかな?」
「そこで確認するから、お義兄さまはダメなのです」
 アハッとアリスが笑うと、幸太郎は「参ったなぁ」と苦笑する。
 先ほどまでの暗い空気から脱却していた。
「分かったよ。でも、中途半端なものを贈ったら、逆に不機嫌になりそうだよね」
「そんなことありません。アタシたちは愛さえあれば、そこら辺に転がっている石ころでも構わないと思っていますよ」
「それ、アドバイスのつもりだったら、最高に難易度上がっただけだからね? ノーヒントのほうが楽だからね?」
 幸太郎の本当に弱り切った態度に、アリスは思わず吹き出した。
 アリスは、ふと、こういう生活も悪くないなぁ、と思った。
 お茶をしながら、下らない会話。
 のんびりと時間に負われることも、ライバルとの成績に胃を痛めることもない生活。
 楽しい、と感じている自分は否定できない。

 ――ただ、それでも、アリスは元の生活に戻りたいと願っていた。
 それは姉も違いないはずだ。
 何故ならば、優秀な魔術士になることを、亡き義父と母も願っていたのだから。

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