宝島社第19回『このミステリーがすごい!』大賞

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第一章 即物的ザッハリッヒな世界線

1

差し出された指輪を見て、私は思わず天をあおいだ。
信夫と私は、東京ステーションホテルのフレンチレストランで、フルコースのデザートを食べ終わったところだった。
「これはどういうつもり?」
私は尋ねた。レストランのスタッフが花束を用意しているのも見逃していなかった。
信夫は、私の驚いた様子を見て、満足そうに微笑えむ。
「だから、僕と結婚してほし」
「そうじゃなくて」
私はガツンと刃を入れるように、信夫を遮った。
「この指輪はどういうつもりって訊いているの」
ため息に似た深呼吸をひとつすると、指輪を指さした。
「この指輪、カルティエのソリテールリングよね。定番なのは分かるけど、安直すぎないかしら。それに何より、このダイヤの小ささを見てちょうだい。〇・二五カラットもないようだけど、よくもカルティエでこんなに小さいダイヤが買えたわね」
信夫の顔から、血の気が引いていった。ホームベースのような角張った顔を上下に揺らして、私と指輪を交互に見比べている。その動きにつられて、黒縁眼鏡が信夫の大きな鼻の上をずり下がった。
「誤解しないでよ。私はあなたを責めているわけじゃないの。ただ、純粋に疑問……。どういうつもりでこの指輪を用意したのか、趣旨を教えてちょうだい」
信夫は、数秒固まっていたが、ずれた眼鏡を元のポジションに戻すと、つぶやくような声で話し始めた。
「僕はただ、僕の気持ちを受け取ってほしいと思っただけなんだ。麗子ちゃんがそれほど指輪にこだわりがあるとは知らなかったから」
「はあ……」
私は息をついた。
「つまり、コレがあなたの気持ちってことね」
睨み付けると、信夫は怯えたように身を小さくした。
「ねえ、あなた、リサーチャーなのよね。世間のカップルの、婚約指輪の相場を知らないのかしら」
信夫は、電子機器メーカーで研究開発職に就いている。知的で尊敬できると思って、これまで一年間付き合ってきた。
渉外系大手法律事務所で弁護士をしている私とは畑が違うから、互いのプライドを削り合うような喧嘩をすることが少ないのが良かった。
「も、もちろん、調べたよ」
私の言葉で反抗心を刺激されたらしい信夫は、声を震わせながら続けた。
「大手結婚情報サイトによると、婚約指輪の平均予算は四十一万九千円だ。二十代後半に絞ってみると、平均四十二万二千円。三十代前半で四十三万二円。僕らは二十代後半だけれども、少し色をつけて三十代前半相当を目安に用意した。だから」
「だから何?」
もう一度、私は信夫を睨み付けた。
「あなたの私への愛情は、世間の平均程度ってこと? そもそも私は、自分が世間の平均どおりの女だと思ったことはないし、平均が四十万円だとしたら百二十万円の指輪が欲しいの」
私は腕を組んで、真っ白なテーブルクロスの上に置かれた赤い箱と、その中に縮こまっている、とっても小さいダイヤを見つめた。
輝いているけれど、所詮、小さいなりの輝きだ。
こんなものを見ていると惨めな気持ちになってくる。
「でも私も悪かったかも。百万円以下の指輪なんて欲しくないって、前もってあなたに伝えておくべきだった」
呆気にとられた様子の信夫は、餌を求める魚のように、口を開け閉めしていた。
レストランの端では、スタッフが爪先を踏み替えておどおどしながら、私たちの様子をうかがっている。
「ごめんね、麗子ちゃん。貯金をしているつもりではいるんだけど、メーカーの若手サラリーマンでは限界があって」
ほとんど泣き出しそうになりながら、信夫は言った。
その様子をみて、私はさらに腹が立ってきた。
信夫が被害者面をしているように見えた。
しかも、お金がないことを言い訳にして。
「何が何でも、欲しいものは欲しい。それが人間ってもんでしょ。お金がないなら、内臓でも何でも売って、お金を作ってちょうだい」
言いながら、膝の上のナプキンをギュッと握り締めた。
「何もしてないのに、それでお金がないから無理だなんて、つまり、あなたは私のこと、何が何でも欲しいってわけじゃないのよ。その程度の愛情の男は、私の人生に割り込む資格はないの」
私は、皺のついたナプキンを、ポンとテーブルの上に置くと、信夫を一人残して、席を立った。
「さようなら」
男性スタッフが慌ててクロークからコートを取り出す。
その渡し際、私の表情を見たスタッフが、ぎょっとした顔で目を見開いたのを、私は見逃さなかった。

私はその足で、丸の内に向かった。
大通りから一本だけ入ったところにそびえ立つ、財閥系ビルの二十八階に、私の勤務する山田川村・津々井法律事務所はある。
ここはハードワークで有名な法律事務所で、弁護士たちは二十四時間いつでも出入りして、暇さえあれば働いてよいことになっている。
すでに夜の十時をまわっていたが、ビルの窓からは煌々と明かりが漏れていた。
執務室へ入っていくと、一年後輩の古川が、パソコンの前でカップラーメンを食べていた。
ラグビー部で鍛えた身体を丸めて、巨大なダンゴムシみたいな格好である。
「あれっ、剣持先生! 今日は記念日デートでしたよね」
口いっぱいに麺を頬張りながら、古川が言った。
私が首を横に振って、
「そのつもりだったんだけど。全然だめだった」
と言うと、古川は左手で口を抑えながら、ちょっと裏返った声を出した。
「ええっ! もしかして、フラれたんすか?」
「フラれてないっ!」
私が睨み付けると、古川は肩をすくめた。
「ねえ、あなた、この前婚約したわよね。彼女さんにいくらくらいの婚約指輪をあげたの?」
「ええと」古川は首を傾げた。
「ハリー・ウィンストンの中くらいのラインだったので、二百万ちょっとですかね」
私は大きく頷いた。
「そうそう。そうあるべきなのよ。一生に一人だけのパートナーをゲットするんだから、そのくらいの本気を見せてもらわなくちゃ」
先ほどレストランであったことをかいつまんで話すと、古川は、カップラーメンを手にしたまま、呆れたような声を出した。
「あちゃあ。彼氏さん、相当傷ついていますよ。僕らは稼いでいるけど、普通のサラリーマンからすると、彼氏さんは頑張ったほうじゃないですか」
「私たちが稼いでいる、って?」
私は二十八歳で年収が二千万円近くあるけれど、それで十分だと思ったことはなかった。
「世の中にはもっと金持ちが沢山いるし、私たちなんて全然だよ。私はもっと、お金が欲しい」
古川は、ゲホゲホッと咳き込みながら、カップラーメンの汁を飲みきると、二リットル入りのペットボトルからウーロン茶を直飲みしたうえで、口を開いた。
「いやあ、先輩ほど、欲求に正直に生きられたら、それはそれでアッパレだな。でも、お金より大事なものがあるんじゃないですか」
古川は頭を掻きながら続ける。
「だいたいね、こう言っちゃなんですけど。剣持先生みたいな強めの女性と付き合えている時点で、彼氏さんは貴重な人物なんですよ。大事にしないとバチがあたる」
「どういう意味?」
私は顎を軽く上げて訊いた。
「一般論としてね、普通の男は、自分の三倍以上稼ぐ女と付き合うなんて、厳しいですよ。プライドもありますし」
確かにこれまで、私の学歴や年収が高いことで、それとなく私を避ける男達はいた。けれども、そんな程度の低い男達は、私のほうから願い下げだ。
「彼氏さんは理系の研究者でしたっけ? 他のところで揺るぎない自信があるから、のほほんと先輩と付き合えるわけです。それに、料理や家事も得意でしたよね、彼氏さん」
私は憮然と首肯した。信夫の作るチャーハンは旨い。
「そんな男はなかなかいないですよ。指輪が小さいくらいで、関係を壊してどうするんですか」
そうは言われても、私はどうしても納得がいかなかった。
あんなに小さくて安い指輪で、私にプロポーズすること自体、私に対する侮辱に思えた。指輪の大小にかかわらず、プロポーズをすれば私が喜ぶだろうと、信夫は思っていたに違いない。
しかし残念ながら、私はそんな女じゃない。
そして、私がそんな女じゃないことを、顔の見えない誰かから責められているような気がして、無性に腹が立つ。
指輪は大きいほうがいいに決まっている。
どうしてそんなことが、みんな分からないのだろう。
「とにかく、内臓を売るとか売らないとかは、言い過ぎですよ。そんなこと彼女に言われたら怖いし」
古川がカップラーメンの殻や割り箸をレジ袋にまとめ始めた。私は腕を組んで、正面から古川を見る。
「でも私は、本当に欲しいものがあったら、自分の内臓を売ってでも、手に入れると思うの。
古川君だって、彼女さんのことが大好きで、どうしても結婚して欲しいから二百万円の指輪をあげたんでしょう」
古川は、太い腕を頭の後ろで組んで、よく日焼けした丸顔を私に向けた。
「僕はプロポーズ直前に浮気がバレそうになったから、仕方なく高い指輪を贈って誤魔化しただけっすよ」
悪びれたふうもなく、古川は歯を見せて笑った。
前歯の隙間に、乾燥キャベツが挟まっていた。

翌日の午後四時、私は事務所の面談室の前で、胸を高鳴らせていた。
二月一日、月曜日。年に一度の人事面談だ。
うちの事務所では、ボーナスは年に一度、二月中旬に支払われる。人事面談でこの一年間の働きぶりのフィードバックをもらうと同時に、ボーナス額を伝えられるのが恒例となっている。
私は意気揚々と面談室に入ったが、すでに座っている上長ふたりの顔色が冴えないのを見て、胸の内に不安が広がった。
私が何かしただろうか。
しかし、こと仕事に関しては、人一倍、真面目にしっかりと、そしてエネルギッシュに働いてきた手応えがある。
「どうぞ、剣持先生、座ってください」
ふたりの男のうち若いほう、四十手前の山本先生が口を開いた。
私は黙って、上長たちの向かいの席に座る。
「剣持先生の働きぶりは、弁護士一同、感心しているし、クライアントからも頼りになると評判ですから、この調子で頑張ってください」
褒めているはずなのに、どこか言い訳じみていて、申し訳なさそうな口調だ。
私は不思議に思いながら、山本先生のポマードで塗り固められた頭を見ていた。
「それでですね。今年のボーナス額は二百五十万円となっています」
に、二百五十万円─?
山本先生の言葉が、私の頭の中で反響する。
「えっ」という言葉が口から漏れた。
去年は四百万円くらいだった。
今年は去年よりも一層熱心に働いたというのに。
私はとっさに眉を少し持ち上げて、いかにもショックを受けたという表情をつくった。
年上の男性の相手をするのは得意だった。
「どうしてですか。私に何か、問題がありましたか」
山本先生は、誤魔化すように首を小さく横に振った。
「いやいや、そんな。君はよくやってくれているよ。同期入所の弁護士達と比べても、二人分、三人分、働いてくれている」
「それじゃ、どうして」
山本先生の隣に座っていた、六十手前の津々井先生が、優しい口調で言った。
「剣持先生を見ていると、僕の若い頃を思い出すよ」
津々井先生は事務所の創設者だ。たった一人から始めて、日本最大の法律事務所にまで育て上げた。だからこそ、事務所名に自分の名前を並べている。
薄くなった髪や、卵型の輪郭、丸くてつぶらな目、頬に刻まれた餃子のひだみたいな皺。
津々井先生を構成するもの全てが柔和な印象を宿している。
私はすぐに口元を両手で覆った。
「そんな、津々井先生の若い頃だなんて。光栄です」
津々井先生は、白髪交じりの頭を掻きながら苦笑した。
「いやいや、そういうのはいいよ。僕もたいがい意地悪だから、君のことはよく分かる」
私は、踊りの音楽を急に止められたような気分になって、ばつの悪さで口を一文字に結んだ。
「弁護士としては一種の才能なのかもしれないけれど、剣持先生はよく切れるナイフみたいな状態で歩き回っているから、その刃をね、事務所の中では鞘に収めてもらって、対外的に大いに発揮してもらえたらと考えています」
私は津々井先生をまっすぐ見据えて、
「もう少し具体的に指摘してください」
と言い返した。すると、津々井先生は、
「一人で働くならそれでいいんだ。けれども、後輩が出来て、チームをまとめながら働いていくとなると、そのギラギラした感じが怖いっていう人もいるんだな」 と言い、自分で言っておいて何か愉快だったらしく、
「ほっほっほ」
と笑うと、
「ま、目減りした分は長い目でみて勉強料だと思って」
と続けた。
こうやって津々井先生は、私の地雷のスイッチを踏み抜いたのである。
次の瞬間、私は叫んでいた。
「勉強料って、なんですか!」
目の前にある机を思い切り叩いた。
「私はお金が欲しくて働いているんです。働いた対価として、事務所からお金をもらう。それを勉強だとか何とか言って、天引きされたら、たまったもんじゃない!」
山本先生は一瞬たじろいだが、津々井先生は眉一つ動かさなかった。
それがまた腹立たしい。
私はこんなに怒っている。事務所は、津々井先生は、それが分からないのか?
「お金がもらえないなら、働きたくありません。こんな事務所、辞めてやる」
私は立ち上がった。
「まあ、まあ、そうカッカせず」
と山本先生が右手で制したが、私は、
「二百五十万ぽっちとはいえ、ボーナスはきっちり振り込んでくださいね」
と言い捨てて、面談室を後にした。

怒りのままに執務室に戻り、貴重品だけをトートバッグに詰め込んで、事務所を飛び出した。
誰も追ってはこないのに、なぜか早足になる。
五百メートルほど進んだところで息が上がってきて、歩道沿いにあるカフェに入った。
なんだかとても、惨めな気分だった。
ボーナス額が少なかっただけで仕事を辞めるなんて、狂気の沙汰だと思われるかもしれない。
幼いと言ってしまえばそれまでだけど、それだけでは言い尽くせない何かが、自分の中にわだかまっているのを知っていた。しかし自分ではどうすることもできない。
私だって、もっと「普通」になれたら楽だった。
いつだって、どうしようもなく、腹の底から湧き上がる衝迫に突き動かされている。
そんな気持ちが分かる人、いるだろうか。
どうしてみんな、嘘をつくのだろう。
誰だって、お金が欲しいに決まっている。欲しくても手に入らないから、いらないってことにしているのだろうか。
例えば、目の前に五百万円があって、「いるか? いらないか?」って訊いたら、みんな「欲しい」って言うでしょう。
欲しいなら、手を伸ばさなくちゃ。
どれだけ貪欲に手を伸ばすかにおいて、個人差があって、私はかなり貪欲なほうだというのは自覚している。
でも、それの何が悪いというのだ。
ピアノを弾きたい人が思いっきりピアノを弾く。絵を描きたい人が絵を描く。それと同じで、私はお金が欲しいから、お金に手を伸ばしているだけだ。
欲しいものを手に入れる。それをずっと繰り返していくことで、自分が抱えたわだかまりから、いつか解放されるような気がしていた。
そのとき、携帯電話が震えた。
手に取って見ると、津々井先生からメールが入っている。
『疲れがたまっていたのかも知れませんね。しばらくお休みということにしておきますから、元気になったら戻ってきてください。さっきも、じゅうぶん元気でしたけど(笑)』
津々井先生のことを思い出すと、腹の底からムカつきが込み上げてきた。
人との絆とか、思いやりとか、愛情とか、そういったものはお金で買えないから、大事にしなくちゃいけないと、心の底から思っていそうな、そんな顔。
しかしその仮面の下で、実はぞっとするほど腹黒い人なのだと分かっている。そうでなくては、弁護士としてここまでの成功を収められるわけがない。
私と津々井先生、どうせ同じ穴のムジナだ。
津々井先生のほうが、本性を隠して、上手く立ち回っているだけである。
腹が立つと腹が減ってきた。私は店員を呼びとめて、大盛りフライドポテトを注文した。そしてフライドポテトを完食する頃には、多少冷静な頭が戻ってきていた。
事務所を辞めると口走ったけれども、実際問題として、これからどうしていくかアイデアがあるわけではなかった。幸い貯金も多少あるし、しばらくのんびり過ごしてもいいかもしれない。
ハードワークで有名なうちの事務所では、定期的に人が倒れる。だが倒れても、二、三ヶ月後には、何事もなかったかのように事務所に戻ってくる。
そもそも法律事務所と個々の弁護士は、雇用契約ではなく、業務委託契約でつながっているにすぎない。だから、有給休暇や所定勤務日数という概念はない。
つまるところ、数ヶ月稼働しなかったからといって、文句を言われる筋合いはないのだ。働かなかったらお金が貰えないだけで、事務所も弁護士も勝ち負けなしだ。
本当に辞めるかどうかは別として、しばらく仕事をするのはやめよう。
そう決めてしまうと、かなり気持ちが楽になった。
しかし働かないとすると、明日から毎日、何をして過ごせばいいのだろう。
やりたいことは色々あったはずだけど、いざ時間ができてみると、何から手をつけて良いのか見当がつかない。
「はあ……」
冷め切ったカフェラテのボウルを握りしめながら、私はため息をついた。
なんだか急に寂しさがこみ上げてきて、携帯電話のアドレス帳を見返し始めた。
呼び出せる人は誰かいるだろうか。
私には女友達が一人もいない。
みんなで横一列に並ぶなんて、私の一番嫌なことだから、それを強要する女という生き物が苦手なのである。
男友達なら、少なからずいるけれど─。
アドレス帳を見ながら男達の顔を思い浮かべてみたものの、みんなイモみたいな顔の奴らで、パッとしなかった。
誰か、誰でも良いけど、うんとイケメンに癒やされたい。
そう思ったとき、ふと、森川栄治のことを思い出した。
栄治は大学の先輩で、大学在学中に三ヶ月ほど付き合って別れた男だ。
信夫の前の、その前の、もうひとつ前だから、三つ前の彼ということになるだろうか。
なぜ別れたのか、記憶は曖昧だけど、たしか栄治の浮気が原因だったように思う。それで私が鬼のように怒って、すぐに別れた─ような気がする。
自分が傷つくような出来事は早めに忘れられるという、都合の良い脳みそを、私は持っていた。
栄治は勉強も出来ない、運動も出来ないダメ男だったけれど、とにかく顔は良かった。うりざね顔でつるりとしていて、品も良く、見栄えがした。声は低くてよく響き、身長も高い。
私は結局、栄治の見た目が好きだったように思う。
これはちょうどいい。栄治とどうなっても、後腐れも何もないのだし。
そう思って、私は栄治のメールアドレスに、
『久しぶり! 元気?』
とメールを送った。
それからぼんやりと、一時間ほど待ってみたけれど、一向に返信は来なかった。
メールアドレスが変わっている可能性もある。しかし、送信失敗メールが来るわけではないから、きちんとメールは届いているはずだ。
しかしそもそも、七、八年前にちょっとだけ付き合っていた人から連絡が来たからといって、返信しようとは思わないだろう。逆に栄治から連絡が来たとしても、いつもの私なら返信しないはずだ。
ふと外を見ると、すっかり暗くなっている。せっかく働かなくて良いんだから、さっさと家に帰って、風呂に入り、寝てしまうことにした。

2

働かないとはいいもので、冬晴れの日比谷公園を散歩したり、大人買いした漫画を読破したりして、糸が切れた凧のような数日を過ごした。
私は根が楽天家だから、自らの行く末を深く考えることもなく、おおむね気楽な時が流れていたが、二月六日、土曜の夕方には一つだけ、面倒な予定が入っていた。
兄、雅俊が、横浜市青葉区青葉台の実家に婚約者を連れてくるという。
それで私も、顔合わせを兼ねて実家に帰ることになっていた。
雅俊が連れてくる女なんて、どうせ大したことないのだから、わざわざ顔を見なくても良いのだけど、今日会っておかないと、雅俊カップルと私の三人で顔を合わせる機会を別途設けることになるかもしれず、そうなると、よりいっそう面倒である。
雅俊と私では会話が五分と持たないのだから、顔を合わせるなら大勢で集まったほうが良い。
青葉台駅からバスに十分ほど揺られて、さらに五分歩く。家が近づくにつれて、足取りは重くなってきた。
私は実家が好きではなかった。
義理として仕方なく、年末年始だけは帰るようにしていたが、それもそろそろ止めてしまいたかった。
白色を基調とした南フランス風の一戸建ての前に立つと、一段と気分がうち沈んだ。
私が家に着いたときには、雅俊とその婚約者である優佳は、リビングルーム中央のソファでくつろいでいた。
父の雅昭は脇の一人掛けソファに座っていて、母の菜々子は、いつものとおり、キッチンとリビングルームの間あたりに立っていた。
私には理解の及ばないことだが、母は自分が食事を取るとき以外、席に着かないことにしているらしい。
私は優佳に一礼をしてから、父の正面にあるスツールに腰掛けた。
父は「これは雅俊の妹です」と言ったきり、私に構うことはなかった。
父と兄は優佳を中心にとりとめのない話をしていた。私からもこれといって口を出す必要はない。
私は黙って、目の端で優佳の顔を盗み見た。
なるほど小ぶりな豆大福みたいな女だった。
血管が透けて見えそうなほど色白で、頬がぷくりと丸い。豆のように小さい目と鼻が、その白い顔に散らされている。
雅俊の好みは地味顔だと私は昔から思っていたけれど、結婚相手に至っては地味顔の最高峰といった感じの女を連れてきたものだと感心した。
父に似た私は、顔のパーツがどれも大ぶりではっきりとしている。母に似た雅俊は影が薄く、線の細い男だった。だから雅俊は自分よりもさらに地味な女が好きなのだろうと私は踏んでいた。
「麗子さんは、弁護士をなさっているんですよね。まさに才色兼備って感じで、すごいなあ」
と、優佳の声がしたので、私の意識は剣持家の団らんに引き戻された。
会話に参加していない私を気遣って、優佳が話題をふってくれたらしい。
「とんでもない。ありがとうございます」
と私は微笑んで、これまでの人生で五百回は繰り返してきた謙遜のポーズを取った。
「雅俊さんから、いつもお話を伺って、すごい人だなあと思っていたんです」
そう言う優佳の小さい目の中で真っ黒な瞳がきらりと輝いた。なるほど可愛らしい女だなと思った。
そのウサギのような可愛らしさで心がほぐれそうになった途端、横から父が割り込んできた。
「弁護士なんてしょせん代書屋ですからね。我々からすると、ただの出入り業者ですよ」
父は経済産業省で石炭に関する落ち目の部署に勤めていて、兄、雅俊は厚生労働省で新薬の認可がどうこうという仕事をしている。
父は、その高い鼻にかかった眼鏡を押さえながら続ける。
「娘は学校の成績だけは良かったんで、本来なら財務省あたりに行って欲しかったのですが、けっきょく根性なしなもんだから、民間に下ったんですわ」
父は官庁が世界の中心だと思っている節があって、官庁以外の会社のことを「民間」、官僚以外の人間のことを「国民」と呼ぶ。
父の態度にいまさら苛つきもしない。かといって黙っているのもしゃくである。
私はぷいと横を向いて吐き捨てた。
「公務員の安月給なんて、ぜったい嫌よ」
その場がシーンと凍り付くのを感じた。
この家は公務員の安月給で建てられたものだし、雅俊と優佳は、これからその安月給の中で暮らしていかなければならないわけだ。
「皆さん、一家揃ってすごいですよ。うちなんて普通のサラリーマン家庭ですから」
と、優佳が自分の身を犠牲にして、その場を収めようとした。
地味だけど良い子なのだろうなと私は感心してしまった。
そして、そんな子が雅俊なんぞを生涯のパートナーに選んだということが、甚だ不思議でならなかった。
雅俊は昔からひ弱かつ気弱で、私のほうが何でも良く出来た。
同じ学習塾に通っていても、私のほうばかり目立っていて、私に兄がいると知ると、皆が驚いたものだ。
それなのに父は、雅俊ばかりを褒めた。
私が陸上でインターハイに出たときも、学生弁論大会で優勝したときも、父は一言もコメントしなかった。
これまでを思い返してみて、私は両親に褒められた記憶がほとんどない。
ごく稀に、得意でも好きでもない家事をこなすと、「あら、麗子ちゃん、上手に出来たじゃない」と母が漏らす─その程度だ。
むしろ父は、私をけなすことを趣味にしているような節さえあった。
だから、優佳が捨て身のフォローをしたあとも、
「こいつはこの歳になっても料理一つ出来ないもんだから、嫁のもらい手がいないんですわ」
と私を腐した。
父に何を言っても無駄だけど、言われて黙っている私ではない。
「お父さんもお兄ちゃんも、料理なんて全然出来ないじゃない。結婚できてよかったね」
それを聞いた父は、私そっくりの彫りの深い顔をこちらに向けると、
「それが親に対する口の利き方か!」
と一喝した。
私はそのくらい全然平気である。しれっとした顔で応じた。
「親だ親だと言うけれど、私はお父さんに育てられた覚えはないよ。お父さんは家にお金を運んできていただけじゃない」
私と父は、互いに、睨み合った。
雅俊が、うんざりとした口調で沈黙を破った。
「いいかげんにしてくれよ。こんな日なのに。顔を合わせれば喧嘩ばかり」
ふと、怯えたように固まっている優佳の視線を感じて、私も悪いことをしたと思った。
父と私、似たもの同士だというのは、自分でも分かっていた。父の感情の動きは私にもよく分かる。
むしろ、こういった諍いの間も、黙って突っ立っている母の方が、不気味な生き物のように
思えた。そして私は、母のような人生、家の中でじっと耐えて暮らす人生だけは、絶対ご免だと思っていた。

泊まっていったら、という母の言葉を断って、私はそそくさと実家を後にした。
実家に長いこと滞在するのは、私の精神衛生に良くないし、良くないことをわざわざするほど、私は不合理な人間ではない。
帰りの電車に揺られていると、ヒーター付きの電車のシートに暖められて、急に疲れと眠気が襲ってくる。
何気なく右手に握っていた携帯電話が震えたのは、こくりと居眠りしそうになったそのときである。
私はてっきり、信夫からの連絡だろうと思った。
信夫とは、あの夜以来、連絡を取っていない。私から連絡しないのは当然だとして、信夫から五日も連絡が来ないのには腹が立っていた。
やっぱり僕が悪かったと連絡が来るのを、少しは期待していたから。
しかし意外なことに、メールの差出人は、森川栄治だった。
私は毎晩寝る度に、前日にあった細かいことを忘れてしまう性質で、数日前のことでも随分昔のことのように感じる。だから「森川栄治」という名前を見ても、一瞬誰のことか思い出せなかったし、元彼だと思い出してからも、一体何の用だろうと首をひねった。
実際にメールを見てみると、なるほど、私から連絡していたということに気付かされたが、それ以上に、画面に浮かぶ文字に驚いた。二度、三度と文面を読み返す。
眠気も、いつの間にか吹っ飛んでいた。
メールには、こう書いてあった。
『剣持麗子さま。ご連絡ありがとうございます。私は、森川栄治氏の身の回りの世話をしておりました原口と申します。栄治氏は一月三十日未明に永眠し、先日しめやかに葬儀が行われました』
栄治が死んだのだという。
一月三十日というと、ちょうど一週間前。信夫とのディナーの前日だ。
栄治は年齢でいうと私の二つ上だったから、まだ三十歳にすぎない。
どうしてだろう。
それが最初に思ったことだった。若年層の死因でダントツに多いのが自殺で、その次が癌などの病気。三番目に交通事故などの不慮の事故がランクインする。
そうすると、かなりの確率で、栄治は物騒な死に方をしたのだろう。いったいなぜ死んだのか、不謹慎ながら興味がそそられた。
悲しい気持ちや恐ろしい気持ちは全く湧いてこなかった。同世代の人間が死ぬなんて、どこか現実離れしていて、本当のことだとは思えなかった。
それに私は、弁護士になるための研修の過程で、過労死自殺や仕事中の事故など、かなりの数の、物騒な死に方をした人間を見ていた。死に対する感覚が鈍っているのかもしれない。
私はちょっと考えてから、大学のゼミの先輩で、栄治とも交友が深かった篠田という男にメールを打った。
篠田は栄治と同様、付属の小学校からエスカレーター式で大学まであがってきた。森川家とは家族ぐるみの付き合いがあると聞いたことがある。
篠田からの返信はすぐに来た。栄治の件でちょうど相談したいことがあるから、今から飲まないかという内容だ。
私は二つ返事で承諾した。栄治の件について好奇心が抑えきれなかったし、実家での諍いでむしゃくしゃして、誰かと話したい気分だったのである。

私たちはマンダリンオリエンタル東京のラウンジ・バーで落ち合った。
篠田は誰かの結婚式の帰りだったらしく、やたらと艶のあるスーツを着て、引き出物の大きな袋を持っていた。もともと背の低い男だったが、数年ぶりに会っても、やはり当然ながら、背は低かった。以前よりずっと腹が膨らんで、スーツの前ボタンがはち切れそうだ。
「あれっ、ちょっと丸くなった?」
と私が言うと、篠田は、
「最近は会食が多いんだよなあ。麗子ちゃんは全然変わらないどころか、どんどん綺麗になるね」
と応えて、もとから細い目をさらに細めた。
篠田の父は小さな貿易会社を営んでいた。篠田本人は遊学中という体の、ただの遊び人である。遊ぶといってもお坊ちゃんのことだから、ゴルフをしたりヨットをしたり、堅苦しくてお行儀のいい遊びしかしない。
「でも、今回のことは、麗子ちゃんもショックだったでしょう。栄治とは一時期付き合いもあったんだし」
篠田が気の毒そうに眉尻を下げるのを見て、私も慌てて笑顔を消して、伏し目がちに瞬きをした。
実際のところ私はほとんどショックなんて受けていなかったけれど、お坊ちゃんに調子を合わせるくらいの良識はあった。
栄治と付き合いの深い篠田のほうがショックは大きいはずだ。それにもかかわらず、最初に私への気遣いを口にするところに、育ちの良い人に特有の心の美しさを感じて、私は逆に窮屈な気分になった。私はお金が好きだけど、お坊ちゃんと結婚したいとは思わないのは、こういう窮屈な気分が大嫌いだからだろう。
「それより、相談したいことって?」
私は話を切り出した。
「それがね」篠田はもったいぶるように言葉を切った。
「栄治の死にも関わることなんだけど。弁護士である麗子ちゃんの意見も聞きたくって」
篠田はそう言うと、携帯電話を取り出して、ある動画投稿サイトを画面に表示させた。
「動画投稿サイトに動画を上げて、再生回数に応じた広告収入を稼ぐ人たちがいるだろう?」
私は頷いた。相当な額を稼げることもあって、炎上狙いの過激な投稿が相次いでいるという話を聞いたことがあった。
「栄治の叔父、銀治さんっていうんだけど、いい歳して、そういった動画投稿の収入で生活しているみたいで」
そう言って篠田が見せてくれた動画には、「門外不出! 森川家・禁断の家族会議」という大袈裟なタイトルが付されていた。
再生してみると、西洋風で豪華な調度品のリビングルームに、六、七人の人間が集まっていて、ソファに座って脚を組み換えたり、立ったままウロウロしたり、落ち着かない様子でめいめいの時間を過ごしていた。
映像のアングルやブレ具合からすると、鞄か何かに仕込んだ小型のハンディカメラで隠し撮りをしているようだった。
六十歳前後と思われる、短い銀髪の、よく日焼けした精悍な男が、画面に入ってきて、
「えー、みなさん」
と画面にむかって声をひそめて話し始めた。
この男が銀治のようだ。
『これから、森川製薬の創業者一族で集まりが』
そこまで聞いて、私は「えっ」と声を上げ、
「ちょ、ちょっと。森川栄治の森川って、森川製薬のこと?」
と口を挟んだ。
目を見開いた私の顔を見て、篠田は動画を一時停止した。
「麗子ちゃん、知らなかったの?」
「全然知らなかった」
身近なところに御曹司がいたのに気付かなかったなんて、灯台下暗しもいいところだ。
エスカレーター式で大学にあがるくらいだから、それなりに裕福だとは思っていたけど、まさか大手製薬メーカーの御曹司だったとは。
栄治は親の話をしたがらなかった。親に対して屈折した感情を抱えているのは私も一緒だったから、私から尋ねることもなかった。
「麗子ちゃんは、お金目当てじゃなしに、栄治を好きでいてくれたんだねえ」
と篠田がしみじみ言った。私は栄治の顔が好みだっただけという本音は心にしまって、神妙な顔で頷いた。
「栄治も自分の実家が森川製薬だということは、周囲に隠していたから。『俺がこれ以上モテちゃうと困るだろ』とか言って」
篠田が小さく笑った。私もつられて頰を緩めた。いかにも栄治が言いそうなことだった。
一時停止をしていた動画を再生する。
『先日、僕の甥の森川栄治くんが亡くなってね。あ、彼は、僕の兄の次男坊なわけだけど。その遺言が発表されるってことで、今日、僕たちは集まりました。皆さんにちょっと補足しておくとね、栄治くんは数年前に、かなりの遺産を婆さんから相続したんだよね。詳細は僕も知らないんだけど、六十億はあるね』
私は、「ろ、六十億?」と繰り返した。いくら創業者一族とはいえ、三十歳の次男坊が持つ額にしては大きすぎるように思える。
篠田がすぐに、指を自分の唇に当てて「しっ」と言った。私は慌てて周囲を見渡したが、ラウンジは座席間の距離が十分にとられていて、周りの客はそれぞれの会話に夢中のようだった。
私たちは動画の続きを見ることにした。
間もなく、栄治の顧問弁護士という老年の男が登場し、栄治が作成したという遺言状を読み上げ始めた。その内容が、一度聞いただけでは自分の耳を疑ってしまうほど、誠に不可思議なものだった。

一、僕の全財産は、僕を殺した犯人に譲る。
一、犯人の特定方法については、別途、村山弁護士に託した第二遺言に従うこと。
一、死後、三ヶ月以内に犯人が特定できない場合、僕の遺産はすべて国庫に帰属させる。
一、僕が何者かの作為によらず死に至った場合も、僕の遺産はすべて国庫に帰属させる。

私たちは、動画を見終わって、しばらく黙りこくっていた。
こんな風変わりな遺言は聞いたことがなかった。もちろん、私は相続が専門の弁護士ではないから、あまり詳しくはない。
しかしそれでも、この遺言が異様だということは分かる。
実際に、動画では遺言の内容が発表された後、「ふざけるな! こんな遺言、真に受けてられん」という男の怒鳴り声がして、親族同士がもみくちゃになったのか、映像は乱れて途切れてしまった。
「栄治って、殺されたの?」
率直な疑問を篠田にぶつけた。
篠田は、首を横に振った。
「栄治は、インフルエンザで死んだ。葬式で、親父さんがそう言っていた」
インフルエンザ?
私の頭の中で篠田の声が響いた。
「もともと重度のうつ病で、体力も低下していたからね」
栄治がうつ病になっていたなんて、私は知らなかった。
「晩年は、相当悪化していて、親族の中でも腫れ物に触るような扱いを受けていたよ」
篠田の話では、栄治は軽井沢に所有していた別荘で一人静養していたらしい。別荘近くに居住するいとこ夫婦との付き合いがある程度だった。
といっても、病人を一人きりにするわけにもいかないから、主治医による訪問診療を受けていたし、近隣の病院から専属の看護師を派遣してもらっていたらしい。通常はそこまでの対応は望めないのだけど、そこは天下の森川製薬のお膝元だけあって、病院とのパイプを使って、特別待遇を受けていたようだ。
その点だけを聞くと、お金持ちはすごいなとしか感じないのだけど、親類はそこまでして栄治を遠ざけたかったのかと思うとゾッとした。暗い井戸の中を覗き込むような、底知れぬもの寂しさを感じた。もっとも、うつ病だったことすら知らなかった私のような者が、遺族を責めることなどできないのだけど。
「うつ病になるきっかけとか、あったのかな?」
篠田は首を横に振った。
「親父さんも見当がつかないと言っていた。悪いと分かってはいても気になって、本人にそれとなく聞いたこともあるんだけど。栄治のやつ、大真面目な口調で『こんなにイケメンで、こんなに金持ちで、俺は規格外に恵まれている。世界の異分子だ。こんな規格外の人間が生きていていいはずない』なんて言うから、僕はもう、何と言っていいか」
篠田は暗い表情をしていたが、私は思わず吹き出しそうになった。
急に栄治のことを、鮮明に思い出した。学生時代のことだ。社会人になった今となっては、ずいぶん遠いことのように思える。懐かしいアルバムを不意に開いたような気持ちになった。
事実、栄治は途方もないナルシストだった。
どのくらいナルシストかというと、一緒に買い物をしているときに、ショーウィンドウに映った自分の顔を見て、
「僕はこんなに格好よくて、いいんだろうか」
と独りごちるほどだ。
実際見た目は良かったから、ここまではまだいい。
これには続きがあって、
「こんなに恵まれている僕は、どう生きれば良いのだろう。神様は一体、僕に何を期待しているのだ。僕にはこの恵みを、世界に分配する義務がある」
などと言い始め、その足で最寄りのコンビニの募金コーナーに有り金をすべて突っ込んだ。
そのせいで帰りの電車賃が払えなくなって、私が千円札を恵んでやったことがある。
大きいことを言うわりに、頭が悪いのだ。
物事を深く考えないというか、楽観的というか、大げさというか。
ちょっとした自信過剰やオバカだと、私もイラついて反発したくなるのだけど、ここまでくると一目置いてしまう。
だから、篠田の話も全くのデマカセだとは思えなかった。
「栄治の言いそうなことね。それでうつ病になったのなら、気の毒ではあるけど」
うつ病のことも気になるが、それ以外にも受け止めきれない事情が多すぎたから、一旦うつ病のことは脇に置くことにした。
「最終的にインフルエンザで死んだのなら、今回は最後の一文の、『何者かの作為によらず死に至った場合』にあたるってことよね?」
私はそう尋ねたが、篠田は何も答えない。
バツが悪そうに、丸々とした顎を掻いているばかりだ。
「ねえ、なんで黙っているの?」
私は篠田の顔を覗き込んだ。額に大きな汗粒が浮かんでいるのが見えた。
篠田は口を開こうとしたが、躊躇して一度閉じ、それから改めて意を決したように話し始めた。
「それがね。栄治が亡くなる一週間前に、僕は栄治と会っているんだ。そしてそのとき、僕はインフルエンザの治りたてだった。どうかな。僕は六十億円、貰えるだろうか?」
いたずらが見つかった子供のように、篠田は微笑んだ。友人の死の直後とは思えないほど、その瞳は柔和な輝きをたたえている。
私は篠田をまじまじと見つめた。こいつはとんだ食わせ者かもしれないと思った。

3

ありうる話だと思った。
「もし、篠田さんが、わざと栄治にインフルエンザをうつしたなら、それで栄治を殺したって言えるかもしれない」
普通はそんなことをする人はいない。誰かを殺そうと思ったら、もっと確実な方法がいくらでもあるはずだ。
しかし、すでに起こっている事件なら、「殺人だった」とするのは、比較的容易だろうと思われた。犯人が自白すれば良いからだ。
「ただね」
篠田が口を開いた。
「僕は殺人罪で逮捕されるのは嫌なんだ。どうだい、警察にバレずに遺産をもらうことはできないかな」
私は一瞬のうちに様々な考えをめぐらせた。
そもそも、相続には欠格事由がある。被相続人を殺害したことで刑に処せられた者は、その遺産を相続することはできないのだ。
しかし、この規制の対象はあくまで「刑に処せられた者」に限定されている。つまり、刑事事件として処罰されなければ、実際に殺していても、遺産を相続することはできる。
刑事事件で処罰するためには、民事事件と比べると、より多くの証拠を集めなければならない。まずこの人が犯人で間違いないというラインまで立証する必要があるからだ。
だから、民事事件で犯人だと認められた人でも、刑事事件で無罪となることは理論上ありうる。
しかし、現実問題としてはどうだろう。そんな微妙な隙間を狙えるものだろうか。
「うーん、まずはこの遺言にある、『犯人の特定方法』ってのを確認する必要があるかな」
私は言葉を選びながら続けた。
「例えば、名乗り出た者の話は関係者の間だけで共有する約束を交わし、警察には一切情報提供をしないとか、そういう前提の話かも知れない。そうじゃないと、犯人も普通は名乗り出ないわけだし」
しかし─ふいに私の脳裏に、大学で習った懐かしい響きの言葉が浮かんできていた。
民法九十条、公序良俗。
今の日本では、原則として、私人と私人の間でどんな約束、契約をしてもよい。それが市民社会の自由というものだ。
しかし、原則があれば例外がある。よっぽど悪質な契約はナシってことにしましょう。それが、公序良俗違反による無効だ。
典型的な例としては、愛人契約とか、あるいは殺人契約とかがある。
「ねえ、この遺言は無効かもしれないよ」
私は声をひそめて言った。
「殺人犯に報酬を与えるなんて、公序良俗違反で、無効になる可能性が高い。もしかすると、それを知らない犯人をおびき寄せて自供させた上で、この遺言は無効だから遺産はあげませんっていう、そういう計画かもしれない」
篠田は細い目を一瞬見開いて、「そんな」とつぶやいた。
「そもそも栄治は、なんでこんな遺言を残したんだろう。殺されることを望んでいたっていうの?」
私はこの遺言の内容を耳にしたときから抱いていた疑問を口にした。
「さあ」
篠田は首をかしげた。
「ただ、確かに栄治の様子はおかしかった。どこまでがうつ病の影響なのか、別の原因があるのか分からないけど、ここ数年の栄治は被害妄想のようなことばかり口走っていた」
「被害妄想?」
「うん、誰かに監視されてるとか言っていたな。どうしてそう思うのかと訊くと、朝起きたら部屋の中の物の配置が、昨晩と比べて微妙に変わってるとか、そんな些細なことばかりで、栄治の気のせいだと思うのだけど。僕と栄治は小学校からの仲だ。だからこそ、様子のおかしい栄治がいたたまれなくて、ここ数年は距離をとっていたんだ」
確かに栄治は、たまに変なことを言い出すことがあった。だが、基本的には明るくて、誰かを恨むようなところはなかった。被害妄想的な言動は、栄治に似合わないように思えた。
「だけど、三十歳の誕生日パーティーに招待されて、僕は久しぶりに栄治に会いに行ったんだ。誓って言うけど、本当は栄治にインフルエンザをうつそうなんて思っていなかった。解熱後二日の待機期間はちょうど終わったところだったし」
言い訳のような篠田の言葉に、私は少し苛ついた。お金が欲しいなら、はっきりと、そう言えば良いのに。
「それで、いざ栄治が死んだら、お金欲しさに名乗りをあげるわけ?」
母親に叱られた子供のように、篠田はしょげた顔をした。ションボリした男を見ると追い打ちをかけたくなるのが私の性だけど、このときばかりは我慢した。篠田がどういうつもりでこの話を私に持ってきたのか気になっていた。
「もちろん、お金はもらえるなら欲しいけど。ただ僕は、森川家で何が起きているか知りたいんだ」
篠田はポケットからハンカチを取り出して広めの額を拭いた。
「我が家は森川製薬と直接の取引関係はないけど、森川家を通じてお客さんを紹介してもらったり、何かと引き立ててもらってきたんだ。だから今回の葬式でも当然、うちから花を出すなりするもんだと思っていた。ところが、僕の父は花を出さないばかりか、葬式にも行かないし、今後森川家との付き合いを控えるようにと言って寄こした。僕は父の言葉を無視して、葬式には出たけれど……」
「それで、森川家には何かあると思ったってこと?」
私はじれったくなって口を挟んだ。
「そう。父は何かを知っているようだけど、頑として口を割らない。うちの事業に関わるのかもしれないし、栄治の死と関わりがあるかもしれない」
「でも、篠田さんの家の話と、栄治の死の間に特に関係があるとは思えないな」
栄治の遺言は確かに変だ。しかし、栄治が被害妄想の末、生み出したものとも考えられる。
他方で篠田家と森川家の確執は、単に当主同士が喧嘩しただけのことかもしれない。そんな不始末は、当然息子には言わないだろう。いずれにしても、事を左右する重大な話とは思えなかった。
「いいや、これは何かおかしい。何十年も続いていた関係に変化が起きたのと、妙な遺言を残して栄治が死んだのとが、同じタイミングだなんて、偶然とは思えない」
篠田は、アイロンで綺麗にプレスされたハンカチを握りしめた。
「ねえ、麗子ちゃん。僕の代理人になって、この件を調べてくれないか。殺人犯の代理人と名乗れば、遺言のことや森川家のことをいろいろと聞き出せるでしょう。依頼人として僕の名前を出すことはできないけれど」
「嫌よ」言下に私は断った。
「えっ」
断られるとは思っていなかったらしい篠田は、突拍子もない声を出した。
「もちろん、ちゃんと謝礼は出すから」
「全然だめ」
私ははっきり言い放った。
「栄治の遺産が六十億だとして、うち二十億は栄治の両親のもとに行くのよ。どんな遺言内容だったとしてもね」
遺言でどう定めていようと、法定相続人である栄治の父母には一定の財産を相続する権利がある。これは遺留分といって、法定相続人の側から請求しないと貰えないものではあるけれども、これだけの額であれば、弁護士ともども、必ず確保に動くだろう。
「で、残りの四十億だって、相続税で半分以上持って行かれるんだから、篠田さんが手にできるとしても二十億弱でしょ。そこから例えば、五十パーセントの成功報酬をもらうとしても、私に入ってくるのはたかだか十億。ぜんっぜん、割に合わない」
こういった色物の事件の代理人になってしまうと、私の名前はインターネットで拡散されて、「そういう弁護士」というカテゴリーで見られてしまう。そうしたら、私がこれまで相手にしてきた保守的な上場企業のクライアントたちは離れていくだろう。
それでいて、十億円の報酬というのは、かなり上手くいった場合の話で、楽観的に見積もったとしても、その期待値は高くない。
私なら十億円くらい、コツコツ働いていれば、手に入れられるのだ。
そう考えると、全くもってお話にならない。全然やる気が出ない。
篠田は私の顔をのぞき込むようにして、
「でも、どうして栄治があんな遺言を残したのか、麗子ちゃんも気になるでしょ?」
と訊いてきた。
もちろん、私も野次馬としては気になる。
しかし、お金のほうがもっと大事だ。
「べつに理由なんて興味ない」
篠田はちょっと悲しそうな顔をした。私は篠田に哀れまれているような気がして、「大きなお世話よ」と胸の内でつぶやいた。
私たちはそのあと、とりとめもない会話をいくつか話し、のろのろと解散した。
お互いに、ぐったり疲れていた。

森川銀治は名の売れた動画職人だったようで、栄治の遺言の件は、瞬く間に世間に広がった。
色物の事件だから、テレビのニュース番組や新聞で取り上げられることはなかった。しかし、インターネットのニュース記事では、銀治の動画の内容が紹介されている。
栄治の名前を検索するだけでも、その総資産や人となりをまとめたというウェブサイトに、いくつか行き当たった。
それらの「まとめサイト」は驚くほどに内容が薄っぺらい上に、私程度の関わりの者が読んでも嘘だと分かる内容も含んでいた。私はだんだんと腹が立ってきた。 この記事を書くにあたって、何か調べようとは思わなかったのか?
ここはひとつ、私も調べてみるか。
きわめて気楽に、そう考えた。
実際、栄治にはどのくらいの資産があったのか、私は気になっていた。
篠田と会った後の数日間、家でごろごろしながら海外ドラマを観るばかりの生活を送っていて、時間をもてあましていたのもある。
栄治の資産を調べるとしたら、森川製薬からである。
森川製薬は上場企業だ。まずは有価証券報告書をみるのが筋だろう。
大株主の記載欄に、創業者個人の保有株式数が掲載されていることも稀にある。保有株式数に今日の株価をかければ、株式分のおおよその資産額が分かる。
私はベッドに腹ばいで寝そべったまま、ノートパソコンを起動した。有価証券報告書は、EDINETという電子開示システムで簡単に閲覧することが出来る。
森川製薬の有価証券報告書は、二百頁を超える壮大なものだった。私はざっと読み通し、必要な箇所をすぐに見つけた。
発行済株式総数は約十六億株。今日の株価は四千五百円程度だったので、単純計算で、会社としての時価総額は七兆二千億円だ。
そしてそのまま、大株主のリストに目を落とす。
大株主リストの首位には外資系投資会社の「リザード・キャピタル株式会社」が名を連ねている。
リザード・キャピタル株式会社が昨年、自社の従業員を派遣して森川製薬の副社長に据えたというのは、ビジネス界でちょっとしたニュースになった。森川製薬への支配を徐々に強めて、敵対的買収を仕掛けるつもりなのではないかとすら囁かれている。
大株主リストの二位以降には、信託銀行や投資会社の名前ばかりが並んでいて、個人株主の名前は一つもない。そもそも、この規模の会社の株を個人が大量に持つとは考えにくい。
どうしたものか、と頬杖をついて、漫然とパソコンの画面を見つめていると、大株主リストの九位と十位の欄に目が留まった。
『ケイ・アンド・ケイ合同会社
合同会社AG』
と並んでいる。
なるほど、これは美味しい情報だと思った。
合同会社は、個人の資産管理会社としてよく使われる会社形態だし、そもそも、「合同会社AG」は、その名前からして気になった。
私はすぐに、法務省の登記・供託オンライン申請システムにアクセスして、二つの合同会社の登記簿を取り寄せることにした。
三日後に自宅に届いた二つの登記簿を確認して、私は小さくガッツポーズをした。
ケイ・アンド・ケイ合同会社の登記簿には、代表社員の欄に「森川金治」とあり、業務執行社員の欄に「森川恵子」とある。これはまず間違いなく、森川家の資産管理会社だ。
金治と恵子が何者なのか、確かなところは分からない。しかし、栄治の父の弟、つまり叔父の名前が「銀治」だったことを考えると、銀治の兄、つまり栄治の父が、「金治」であると考えるのが自然だ。そして、恵子はきっと、金治の妻で栄治の母だろう。
合同会社AGのほうは、もっとあからさまだった。代表社員も、業務執行社員も「森川栄治」となっている。これは栄治が一人でやっている会社のように見えた。つまり、栄治個人の資産を管理している会社である。予想していたものの、栄治だからAGという、笑えもしないシャレに脱力した。
銀治の話によると、栄治は次男坊らしいから、兄がいるのだろう。その兄が登記簿のどこにも出てこないのは確かに違和感がある。しかし私は自分の読みが当たっていたことが嬉しくて、さしあたり、栄治の兄のことは気にしないことにした。
そのまま、はやる気持ちで森川製薬の有価証券報告書を見直す。
合同会社AGの保有比率が一・五パーセントだ。
つまり、七兆二千億円の一・五パーセント、時価総額一〇八〇億円の株を、栄治は保有していたということになる。
私は自分の鼓動が速まるのを感じた。
三分の一を遺留分で栄治の父母に取られたとしても、七二〇億円残り、そこから相続税五十パーセント超を差し引いても、三百億円は残る。そして、その半分を成功報酬としてもらうとすると─?
百五十億。
私は大きく息を吸って、そのまま吐いた。
落ち着かなければと思った。
そもそもどうして銀治は六十億という数字を持ち出したのだろう。一族につまはじきにされていたとしても、あまりにも見当違いな数字だ。
それに、公開情報だけでこれだけ調べられるのだから、このお金を目当てに寄ってくる悪質な輩─私は自分のことはすっかり棚に上げてそう考えた─もいるかもしれない。そんな輩と自分は張り合えるだろうか?
さらにいうと、栄治の遺言は、そもそも公序良俗違反である可能性が高い。最終的には法律解釈の問題だけれど。裁判になったときに、私は競り勝てるだろうか。 一瞬のうちに、頭の中で様々な阻害要因が浮かんだ。まともに考えれば、あまりにリスクが高い。
しかし、頭の動きとは別に、私の奥底を流れる何かは、自分の進むべき道をすでに決めているようだった。そう、いつもこうやって私は、何かに押し出されるように戦って─そして、勝ち取ってきたのだ。
諦めに近い全能感が、自分の中にみなぎってきた。
私は篠田に電話をかけて切り出した。
「この前の話、やっぱり、引き受けることにした。ただし、成功報酬は得られた経済的利益の五十パーセント」
口ごもる篠田を無視して続ける。
「完璧な殺害計画をたてよう。あなたを犯人にしてあげる」

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