これは運命だったのかもしれない 横浜FCをJ1へ導いた 8年間の軌跡と激動の半生 著・奥寺康彦 |
奥寺康彦 |
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1952年3月12日
秋田県に生まれる。その後、横浜市へ。 1977年 旧・西ドイツ名門チーム「1FCケルン」に入団。欧州初の日本人プロサッカー選手となる。 1992年 「東日本古河サッカークラブ」(現・ジェフ千葉・市原)のGM就任。 1996年 同チームの監督に就任。 1998年10月 「横浜フリューゲルスと横浜マリノスが合併」というニュースが報道される。 11月 Jリーグへ提出する署名活動開始。 総数50,014名分の署名が集まる。 |
1999年2月
奥寺康彦が横浜FCのGMとなり、リトバルスキー監督の就任を発表。 3月 横浜FCのJFL準会員加盟を正式に承認。 2000年11月 奥寺康彦が横浜FCの代表取締役GMとなる。
12月 横浜FCのJ入会が承認され、J2新加入が決定。 2006年3月 高木琢也の監督就任発表。 12月2日 J2リーグ全日程終了。J2リーグ1位。 |
目次
- プロローグ
序章●2006年11月26日
最後までもつれた激戦の結末
一丸となってつかんだ、最高の結果 …ほか
第一章●邂逅 市民クラブ横浜FCの誕生
横浜フリューゲルスの消滅
GMを引き受けた理由
チーム作り …ほか
第二章●決意 地域密着への試み、そして苦闘の日々
その日は雪が降っていた
サッカー文化の醸成を
地域密着への試み …ほか
第三章●変化 ベテランと若手の融合に活路を見出す
リティが去り、新しいステージへ
新スポンサー決定
ベテランが教えてくれたもの …ほか
第四章●回顧 プロフェッショナルとは何か
自信のかけらもなかった中学時代
古河への道を決めた一言
会社役員として、サッカー選手として …ほか
第五章●歓喜 選手たちの成長、刻まれた歴史
突然始まった、新人監督の挑戦
初めて得た「スタイル」
J1昇格への手応え
第六章●進化 更なる高みを目指して
私たちに足りないもの
「育成」の現場を整備する …ほか
終章●提言 信じる力でチャンスをつかむ
ファンに愛されるということ
常に上を目指して
あとがき
奥寺康彦・横浜FC●年表