証言UWF
完全崩壊の真実
夢と理想を追い求めた男たちの苦悩――
シリーズ最終作!
髙田延彦独占告白
UWFの全内幕!
前田日明と佐山聡
新生U解散の衝撃
U系3団体の終焉
UFCとグレイシーという2つの「黒船」、そして1990年代後半から始まる総合格闘技ブーム。“Uの幻想”は崩壊し、「パンドラの箱」を開けざるをえなくなったU戦士たち。格闘技に侵食され、UWFが完全崩壊に至った内幕を当事者、関係者の証言で詳らかにする。証言UWFシリーズの最終作についに髙田延彦が登場。第一次UWFへの移籍から、UWFインターナショナルの崩壊まで、プロレスと格闘技の間で漂流し続けた男の葛藤と苦悩とは――。
目次
- はじめに ターザン山本
第1章 Uインター“最強”を追い求めた終着点
髙田延彦
Uインターの後期は、すべてを手放し、一人になりたかった
金原弘光
髙田道場に誘われなかったのは、正直ショックだった
山本喧一
Uインターで“神様”だった髙田さんは孤独だった
鈴木 健
田村の「真剣勝負してください」発言で髙田さんは人間不信に
佐野巧真
松井大二郎
髙田さんの引退試合は、桜庭とやればよかったと思ってる
第2章 リングス“いびつ”な世界の終焉
坂田 亘
“シュート”と“ワーク”を超えた恐るべき戦場だったリングス
北沢幹之
前田が人前で、何度も選手を殴るのだけはあんまりかなと……
第3章 パンクラス“21世紀のプロレス”の消滅
船木誠勝
掌底ルールを捨てたことで、完全にUは終わりました
ミノワマン
ヒクソン戦を狙い続けた男の“プロレス愛”
高橋義生
UFCで負けたらナイアガラの滝に飛び込むつもりだった
山田 学
パンクラスを罵倒する前田日明が許せなかった
第4章 UWF“ムーブメント”に翻弄された男たち
エンセン井上
約束を守らないから、いまでも前田さんを許してない
塩崎啓二
リングスとPRIDE「至近距離」の真実
大仁田 厚
UWFがなければFMWはなかった
髙田 延彦(たかだ のぶひこ) プロフィール
1962年、神奈川県生まれ。80年、新日本プロレスへ入団。84年に第一次UWFに移籍するも、活動停止後の86年から新日本に再参戦。前田日明の解雇により、88年、前田らとともに新生UWFを設立。大きなムーブメントを巻き起こしたが、フロントと選手間の不和などが原因で新生UWFは解散。91年にリングス、藤原組、UWFインターナショナルに分裂。髙田はUインターのエース兼社長に。“プロレス最強”を掲げ躍進するも、96年12月にUインターは解散。97年、98年の2度にわたりヒクソン・グレイシーとPRIDEのリングで対戦。2002年、PRIDE.23の田村潔司戦で現役引退。現在はRIZINの統括本部長を経て、解説などで大会を盛り上げる
船木 誠勝(ふなき まさかつ) プロフィール
1969年、青森県生まれ。中学卒業後の84年3月、新日本プロレスに入団。85年3月、後藤達俊戦で史上最年少デビュー(当時)。88年にヨーロッパ遠征へ行くと、翌年に帰国して新生UWFに参加。その後、藤原組を経て、93年9月にパンクラスを旗揚げ。2000年5月に「コロシアム2000」でヒクソン・グレイシーに敗れて引退するも、07年に桜庭和志戦で現役復帰し、その後、田村潔司、ミノワマンと対戦。09年からはプロレスにも参戦。タイトル歴は三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座など。
坂田 亘(さかた わたる) プロフィール
1973年、愛知県生まれ。中学時代からプロレスラー志望で、高校卒業後、アニマル浜口レスリング道場を経て、1993年にリングス入団。1994年11月19日、鶴巻伸洋戦でデビュー。2001年6月のリングス退団後は、DEEP、UFO LEGEND、PRIDEなどに参戦し総合格闘家として活躍。ZERO-ONE、ハッスルといったプロレス団体にも参戦し、ハッスルでは「坂田軍団」を結成し頭角を現す。2007年、女優の小池栄子と入籍。2016年のRIZIN 大晦日大会での桜井“マッハ”速人戦を最後に現役引退。自らを「世界一の前田日明ファン」と称したこともある。
ミノワマン プロフィール
1976年、岐阜県生まれ。本名、美濃輪育久。1997年、パンクラス入団。1999年には「ネオブラッド・トーナメント」で優勝。2003年、パンクラスを退団しフリーに。同年大晦日からPRIDEに参戦し、ヴァンダレイ・シウバ、ギルバート・アイブル、桜庭和志らと対戦。2006年、リングネームをミノワマンに。2008年からDREAMに参戦し、2009年の無差別級「スーパーハルクトーナメント」で、ボブ・サップ、チェ・ホンマン、ソクジュを破り優勝。ニックネームは「本能のリアルプロレスラー」。
大仁田 厚(おおにた あつし) プロフィール
1957年、長崎県生まれ。1973年、全日本プロレスに入団。左膝蓋骨粉砕骨折が原因で1985年に引退。1989年にFMWを旗揚げし、デスマッチ路線で大ブレイク。「涙のカリスマ」と称される。1995年、弟子のハヤブサと川崎球場で闘い2度目の引退。その後、復帰、引退を繰り返す。1999年1月4日の佐々木健介戦で新日本プロレスに初参戦。2000年7月30日には長州力との電流爆破マッチを実現させた。2001年7月、参議院議員選挙に当選。2017年10月、通算7度目の引退試合。2018年9月28日、ボランティアレスラーとして7度目の復帰を果たした。